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日露戦争戦跡巡り②【旅順、大連】

満洲(現在はチャイナの東北部と呼ばれる)を中心に歴史巡りをしていきたいと思います。旅順遼東半島の付け根。大連市に属します。大連市旅順区ですね。

旅順は日露戦争の山場・旅順包囲戦の戦場となった激戦地でした。鉄壁のロシア・旅順要塞を、乃木希典大将率いる満洲軍第三軍が多大な犠牲を払いながら、攻め落とした戦いです。

東鶏冠山北堡塁

ロシアは旅順に巨大要塞を建設し、鉄壁の守りを築きます。まずは東鶏冠山北堡塁を見ていきます。

 

 

東鶏冠山北堡塁です。「登るな!」と書かれてありますね。言われなくてもこんなところ登るか。

ここにロシア軍のコンクリート製のトーチカがあり、日本陸軍を迎え撃ちました。

 

30門の大砲を備え、日本軍を撃退しました。1904年8月の最初の総攻撃では、日本軍は全滅しました。ここからロシア軍は攻撃したのか↓

弾痕はすごい。

 

ここが最後に日本軍が爆砕、制圧した場所です。12月のことでした。

 

で、このすぐそばの高台を上がると・・

ロシアの機関銃陣地があるんですね。

つまり日本軍は上から横から挟み撃ちにあったわけです。全滅するよな、そりゃ。

日露戦争は第0次世界大戦とも言われます。史上初の現代戦という意味ですが、それはやはり機関銃の本格的使用の意味が大きい。

日本軍が得意とする歩兵突撃が通用しない、厳しい戦いでした。死屍累々で日本軍の死傷者9000名とも言われます。それでも旅順要塞は落ちませんでした。

 

大正時代に建てられた慰霊碑です。珍しく破壊されなかったようですね。

 

 

 

ロシア軍兵士の宿舎です。

 

 

電話室?これは多分戦後に日本軍が制圧した後につくられたのかも?

 

弾薬庫です。

 

ロシア陸軍コンドラチェンコ少将の慰霊碑です。

コンドラチェンコ少将は、兵士たちの人望も厚い名将でしたが、兵士たちを激励に回っていた際に日本軍の砲撃の直撃を受け、即死しました。

日本の武人の作法として、敵将にも敬意を示し慰霊碑が建てられています。

 

さて見学を終え、次の場所に移動しようとしたら・・

本当に登ってるやつがいるw

 

203高地

次は有名な203高地へと向かいます。203高地は、日露戦争の最初の天王山ともいうべき死闘でした。このわずか200メートルの小山を巡って、日露両軍が激闘を繰り広げます。

 

今は桜の名所のようですね。

カートが出てるので、途中まで楽チンで登れます。

カートの後ろの席から撮影。両側に桜並木。春に来たら壮観でしょうね。

 

さあ、ここからは徒歩でミニ登山していきます。

しんどいが、兵隊さんのご苦労を思えば・・

 

 

着きました!

これが爾霊山(にれいさん)の記念塔だ!旅順の戦闘後に、乃木大将が命令をして、散乱していた弾丸を集めて作られた弾丸型の慰霊碑です。

爾霊山とは203をかけています。

 

 

記念塔の説明文が日本語版もありましたが、悪意に満ちてますね。共産主義者が書けばこんなもんでしょうね。

 

さあここから旅順軍港が見えます!

見えました!ここなら旅順港は丸見えですね。

 

旅順港の入り口・旅順口です。狭いね!幅はわずか273メートルだそうです。

この狭い入り口を、古い船を沈没させて閉鎖して、ロシア旅順艦隊が出撃できないようにしようとした作戦が「旅順口閉塞作戦」です。しかし後に軍神と言われる広瀬武夫少佐の戦死などもあり、この作戦は失敗に終わりました。

 

そして次に検討されたのが、陸軍の力を借りた「203高地の争奪」だったのです。ここを取れれば旅順軍港は丸見え。ここを観測所として使い、旅順軍港のロシア艦隊の位置を把握。砲撃をかけて粉砕するという作戦でした。

 

ロシアの大砲です。150mmキャノン砲で、ロシア軍も203高地を死守しようとしました。

日露の凄まじい争奪戦となり、日本陸軍最強と言われる旭川第7師団がわずか5日間で5分の4の戦力を喪失するという、信じられない死闘になってしまいました。

 

これは日本軍の大砲ですね。28cm榴弾砲です。

もともと日本の海岸沿いに設置された対艦砲でしたが、乃木第三軍に計18門送られました。

最大射程は7800メートルです。

実際には、観測無線にしたがって平地から砲撃していました。

 

お土産も売ってました。

弾丸まで売ってるのか?いくら?と聞いたら非売品だったみたい。

冷静に考えればこんなもの買っちゃったら出国できないよな。

 

その代わり「ロシア・アイス」を食べました。

203高地でロシアを食おう!

水師営会見所

次に水師営会見所へと向かいます。

ちなみにこのへんは日本人しか来ない観光地のようです。周囲は貧困地帯っぽい。

旅順軍港が近いためか、1990年代初頭までこの辺は外国人に開放されてなかったみたいですよ。

 

 

 

旅順包囲戦の死闘の末、ついにロシア旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏の申し出をしました。1905年1月1日のことでした。ここ水師営は日露両軍の停戦協定が結ばれたところです。

 

 

1996年の復元のようですね。普通の農家みたいです。

日本人観光客を見込んで、復元したものらしい。

 

 

チャイナ女性ガイドも日本語うまかった。さまざまなパネルがあって、日露戦争の経緯を学ぶことができました。

旅順口。

旅順口閉塞作戦の広瀬武夫。

203高地砲撃。

28㎝榴弾砲ですね。

水師営会見所のようす。白い馬に乗っているのがステッセル中将。

この白馬は後に乃木大将にプレゼントされた。

 

二列目の左から二番目が乃木大将。右から二番目がステッセル中将。前の晩は両軍ともだいぶ飲んでたみたいですね。前列のやつ、明らかに酔っ払ってるよ。

乃木将軍は敗軍の将ステッセルに帯刀を許し、敵将の名誉を守りました。この会見を経て二人は真の武人として尊敬し合う仲となりました。

 

帰国後に戦犯として裁かれそうになったステッセルの、特赦の働きかけを行ったのは乃木将軍。または明治帝に殉死した乃木将軍に、匿名で多額の弔慰金を送ったのはステッセルでした。

 

 

日露両軍の「会見場」も復元されてましたが、なぜか撮影禁止でした。その代わり日露戦争時代の新聞やポスター、コインなどあって、それを売りつけようとしてましたw

 

このナツメの木のあたりが日露両軍の将軍が記念撮影した場所。

ステッセル将軍もアラブ産の白馬を乃木将軍に贈り、ここにあったナツメの木に繋がれたそうです。

 

水師営会見所の石碑が、隅っこで斜めにされています。

日本人しか来ない観光地なんだから、ちゃんと展示してもらいたいもんですね。

水師営を立ち次の目的地へと向かいます。

 

ここが旧・旅順ヤマトホテルです。車窓撮影です。

 

ここが旅順駅ですね。ここは東清鉄道の終着駅で、1906年に満鉄がロシア人設計士に作らせたものの再建です。

 

さあ、満洲といえばアカシアです。最後の観光地・・

アカシア通りを散策してみました。開花時期は5月頃で、綺麗な白い花を咲かせます。

 

サザンオールスターズ流れる雲を追いかけて

 

流れる雲を追いかけて

アカシヤの丘  異国の地よ

 

冷たい時間(とき)に耐えかねて 

つれぬ世の運命(さだめ) 

 

 

ただ見果てぬ夢を追えば 

大連の橋の上

 

ああ せつない胸を抱いて 

母の顔がチラホラリ 

 

 

連鎖の街にあの人と 

手に手をつなぎ歩いた夜

 

ダンス・ホールに行こうかな 

あの頃はもう帰らん

 

 

まだ幼いこの子を連れ 

ハルビン行きの列車

 

ああ お前の名前すらも 

きっとあの人は知らず

 


進軍ラッパがプププププ・・

ツバメのダンスにゃホロホロリ

 

 

だけどホラあの人に会える 

その日まで

ゆらゆら通せんぼ

 

毎年5月の開花時期に大連ではアカシア祭りも開かれるそうです。その時期にまた来てみたいですね。

これで満洲の観光はすべて終了です。ホテルのある大連に帰ります。

 

夕暮れの黄海です。

軍艦がいきなりある。老朽艦だから展示用かな。

晩御飯はしゃぶしゃぶ食べました。

 

翌朝は8時台の飛行機で帰国です。バスで空港まで向かいます。

これ、一瞬だけ偶然撮れたのを拡大したんですが、空母じゃないですかね!?

スキージャンプ型艦首。「001A型」というのが大連港にいるはず。多分これじゃないかなぁ(後に空母「山東」と名付けられる艦と判明)

悪いけど大陸国家が海軍力を強化しても、成功した試しがないんだけどね。(第一次大戦のドイツ、冷戦のソ連などたいてい失敗する)

大連国際空港

大連国際空港に到着しました。

 

 

 

で、あっさり成田に到着。まだお昼前です。アジアは近くていいですねえ。

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