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沖縄歴史巡り⑤【沖縄平和祈念公園、ひめゆりの塔】

沖縄旅行記です。沖縄平和祈念公園〜ひめゆりの塔へと移動していきます。

1945年4月から沖縄本島の地上戦が始まりました。嘉数高台、前田高地、シュガーローフなどの防衛線を、激戦の末突破され、首里攻防戦も苦戦の日本軍は1945年5月末に首里の放棄を決定。梅雨の豪雨のなか、南部の喜屋武半島へと撤退します。

 
現在の南風原(はえばる)小学校前を通過しました。車窓から撮影しました。
沖縄戦当時、この地には陸軍病院壕があり、ひめゆり学徒隊として知られる県立第一高等女学校や師範学校女子部の女学生たちもここで勤務していました。
 
軍の南部撤退に伴い、看護学生の多くもそれに連れ従うことになります。重傷兵の多くは連れて動かすことが出来ず、その場に放置。多くは自決の道を選んだと言われます。南風原の戦跡もいつかじっくり訪問してみたいと思います。
 
さて、しかし南部での戦闘は、「決戦」というようなものにはなり得ず、米軍による「掃討」の性格を色濃くしていきます。まるでアイロンをかけるようと形容された入念な艦砲射撃と空襲で、日本軍の拠点は一つ一つ潰されていきます。
そして6月23日、摩文仁(まぶに)にて陸軍32軍の牛島満司令と長勇参謀長が自決して、沖縄戦の組織的戦闘は終結します。
 

 

沖縄平和祈念公園

さて沖縄戦終焉の地として、糸満市の沖縄平和祈念公園を訪れました。
平和祈念公園は広大なため、園内乗り放題の100円バスが便利です。今回は観光バスツアーで時間がないため、見やすいところを選んで見るしかなかった。
平和祈念塔です。
「命(ぬち)どぅ宝」の碑です。「命どぅ宝」は命こそ何より大切である、と言う意味です。戦後の沖縄反戦平和運動のスローガンとして使用されています。
こちらが平和の礎(いしじ)。外国人含めた沖縄戦の戦没者の名前が分かる範囲で全て刻まれます。その数は、24万を超えます。大東亜戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設されました。
 太平洋が見えます。平和の広場です。平和の広場は、断崖絶壁から海岸線、波打ち際を眺望できる位置に設置されています。
 
 平和の広場の中央には「平和の火」が灯されています。
この「平和の火」は、沖縄戦最初の上陸地の座間味村阿嘉島において採取した火と、被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」を合火し、1991年から灯しつづけた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものだそうです。
 
遠くに見える建物は平和祈念資料館です。今回は見学する時間がありませんでした。
 丘陵地帯には各県、各部隊の将兵ごとの慰霊碑が建ち並びます。
当時の沖縄県知事・島田叡(あきら)知事を慰霊した碑です。
その前の知事がほぼ逃亡のような形で本土に戻ってしまった後、島田知事が後任を引き受けます。既に米軍来寇は必至で、命の保証はない状況でも「誰かがやらなければならない」と引き受け、赴任後は停滞していた県民保護に全力を尽くし、最後は祖国に殉じました。
 
 「島守の塔」は島田知事を初めとする県庁職員戦没者458名を合祀した塔です。
霊域園地には各県、各部隊の慰霊碑が並びます。下は栃木の塔です。
 式典広場には平和の丘彫像がありました。この広場で毎年6月23日慰霊の日に、全戦没者追悼式が開かれます。
正面遠くに平和祈念堂が見えます。
とにかく観光ツアーなので見学時間が少なく、そこはものすごく不満です。土産物屋とタイアップしているから、どうしても戦跡見学時間が削られて、興味もない土産物屋に1時間も立ち寄ることになる。結局黎明の塔周辺は行けませんでした。
 
 
引き続いて、ひめゆりの塔、梯梧の塔を訪問しました。
梯梧之塔(でいごのとう)です。ひめゆりの塔の近くにひっそりとあります。私立沖縄昭和高等女学校の生徒・教職員62人を祀っています。
ざわわ、ざわわとひめゆりに移動していきます。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔に来ました。ひめゆり学徒隊は、県立第一高等女学校及び師範学校女子部で組織され、大きな犠牲を払いながら沖縄戦を戦ったことで有名です。
ひめゆりの塔は、ひめゆり学徒隊の最期の地の一つである伊原第三外科壕のガマ(自然洞窟)の上に建てられた慰霊碑です。
陸軍病院第三外科職員の碑とあります。
 いわまくらの碑です。ひめゆり学徒隊の引率者だった教諭の仲宗根政善さんが、1946年の第1回の慰霊式で、戦死した教え子を悼み、霊前に捧げた歌です。

「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」

 良く見慣れた「ひめゆりの塔」についにたどり着きました。
 「刻銘碑」です。1947年の建立の時点で判明していた、女子師範学校・第一高女の教師・生徒の戦没者名が刻まれています。
 これが1946年につくられた初代「ひめゆりの塔」です。付近の村民により建立されています。
 1957年に建立、2009年に改修された新しい「ひめゆりの塔」です。「ひめゆりの塔」って2つあったんですね。 
学徒戦没者の名前が刻まれ、女子師範学校・第一高女のシンボルの百合の花のレリーフが飾られます。この塔の裏側には納骨堂が置かれています。
このガマ(自然洞窟)の中にひめゆり学徒隊の伊原第三外科壕が置かれました。
同壕は沖縄陸軍病院第三外科勤務の職員や、ひめゆり学徒隊が南部撤退後に避難した壕で、1945年6月19日朝、米軍の攻撃(ガス弾を使用)により、多くの生徒や教師が亡くなりました。ガマに入っていた約100名のうち約80名(うちひめゆり学徒隊は42名)が犠牲になりました。
 このガマは1975年、来沖した皇太子殿下(現在の上皇陛下)と皇太子妃美智子殿下(現在の上皇后陛下)めがけて、火炎瓶が投げ込まれた場所としても知られます。(ひめゆりの塔事件)
新左翼のテロリストたちはこの壕に1週間潜んで、テロの機会を待ったとされます。とんでもないことですが、要人警備の基準も、まだまだ甘かったんでしょうね。大きな責任があるはずの屋良朝苗知事が、辞表すら出さなかったのも許し難い。
 
ひめゆり資料館では、アニメ上映、写真資料など充実していました。入場料は310円。なんといっても見所は、南風原の陸軍病院壕の一部や伊原第三外科壕内部を再現した実物大のジオラマですね。
 館内は撮影禁止だったので、HPから画像を拾ってきました。
「病院壕」のジオラマです。
「伊原第三外科壕」のジオラマです。ここがひめゆりの悲劇の地となりました。

 

民間人含めた徹底した抵抗が、硫黄島や沖縄で行われたことは、アメリカを戦慄させました。沖縄でのアメリカ軍の死傷者は9万人にのぼり、最高指揮官のバックナー中将まで戦死しています(偶然の砲撃でなく、日本軍は狙撃して討ち取っている)。

 沖縄だけでこの惨状なら、もし本土決戦となったら一体どれほどの犠牲を払うのか?それまで「無条件降伏以外認めない」という頑な態度だったアメリカが、以後は妥協し「ポツダム宣言」の提示につながっていきます。

 

さて南部戦跡ツアーを終え、那覇に戻ってきました。那覇の繁華街・国際通りを散策して、買い物や食事をしていきたいと思います。

ここから国際通りですよね。

 

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