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島原歴史巡り①【島原天草一揆】

島原市にやってきました。

諫早駅から発の島原鉄道に乗って、島原駅まで向かいます。

 

高校サッカーの強豪・国見も通過。こんなところにあったのね。

島原駅

島原駅に着きました。

武家屋敷っぽい駅舎で、さすが城下町です。

もうお城が見えます。

駅からは島鉄観光の150バスを利用しました。

このバスは150分で島原半島の観光地を周遊するというバス。ガイドさんもいて、客がわたしだけだったに関わらず、懇切丁寧に対応していただきました。

周遊コースは①島原城②島原港③雲仙④原城跡⑤口之津港です。私の目的は原城跡島原・天草一揆の古戦場めぐりです。

島原城

まずは島原城です。ここは外観だけで入場はしません。駅から近いので、ツアーから戻った後に、改めて入場したいと思います。

 

入り口付近の赤い人は何者?

忍者さんかな?

 

 

次に島原港付近にやってきました。

熊本行きフェリーが出ています。このフェリーに乗って熊本へ渡り、最終的に高千穂峡へと向かう予定でした。

 

 

しかし台風接近中のため、欠航。結局熊本へは渡れず、そのまま帰京することになります。

 

雲仙地獄

次に雲仙地獄付近にやってきました。すごい煙が道路に押し寄せてきている!

この岩は「湯神少彦(スクナヒコ)大神」という温泉の神様のご神体のようです。

 

ミニ地獄巡りしてみます。

 

 

 

硫黄の匂いと煙が凄いです。

ちなみにこの雲仙にキリシタンを連れて来て、拷問にかけたというから恐ろしいものです。

 

バスは次の目的地へと進みます。

原城跡

いよいよ原城跡に着きました。

原城は島原半島の南、南島原市にあります。

ここは有名な島原の乱(島原・天草一揆)の古戦場跡です。島原の乱とは、1637年10月から翌年にかけて、九州の島原・天草地方に起こったキリシタン信徒を主とする百姓一揆(というより合戦に近い)です。

現在は、土塁と堀跡を残すのみで、殆ど何もないですね。 

 

 

 

有明海が見えます。

 

 

再建されず往時の姿を留めたからこそ、「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして、世界遺産に登録されたわけです。もっともこの時点ではまだ候補でしたが。

島原の乱では、幕府の禁教政策と領主の過酷な統治に対し、16歳の天草四郎時貞をリーダーとする約3万7千人の農民・浪人が原城に籠城し、徹底抗戦しました。

天草四郎像です。長崎平和祈念像を作った、島原出身の芸術家・北村西望氏によるものです。

天草四郎墓碑もあります。天草四郎はこの本丸で、死去しました。自害か殺害か諸説あるようですが、死後は長崎で晒し首にされました。

 

 

原城本丸跡には、十字架が立ちます。

 

これは胸を打つ1枚です。三人の像が有明海の向こう・天草を向いています。

この三人とは、ザビエル・天草四郎・四郎姉です。四郎の家族も連座して処刑されたのでした。四郎の姉は最初はしらばっくれるつもりでしたが、四郎の生首を見せられ、泣いてしまったために、正体がバレてしまったそうです。

 


一揆勢と幕府軍の戦いは熾烈を極め、1638年1月1日には、幕府軍の司令・板倉重昌が玉砕するかのように戦死してしまいます。

幕府の新司令官・松平伊豆守信綱(知恵伊豆)は、戦闘方針を変更。持久戦へと切り替えます。兵糧攻めで、一揆勢は飢え、疲弊し、ついに2月末に落城し、一揆軍はほぼ全滅したと言われます。原城には1万人以上の非戦闘員が籠城していました。

 

空堀です。ここに非戦闘員3000人が潜んでいたと言います。

 

一揆軍敗北時、女子供含めたそのほとんどが虐殺されています。

 

徹底的に破壊された石垣内隅部です。

乱後の戦場片付けがかなりいい加減なものであったため(穴を掘って遺体を放り込んで、上から石垣を砕いたものなどで埋めただけらしい)、発掘調査では多くの人骨が出土しています。

 

一揆には半島南部の集落が殆ど参加し、殆ど全滅したため、戦場片付けをする人夫もいなかったのです。

そして、この後の10年、島原半島南部はほぼ無人地帯に成り果てました。後に小豆島から強制移民させ、無人状態を解消したそうです。

また出土した人骨の多くに残忍な殺傷痕が見られました。キリシタン=妖術というイメージがあり、幕府軍にとって得体のしれぬ恐怖があったのでしょう。日本戦史上類を見ない凄惨な戦闘であったと言えるでしょう。

 

骨かみ地蔵です。戦死者を弔っています。

 

 

史跡と言うより、凄惨な戦場跡を見た感じでした。この後は島原駅前に戻って、駅付近を観光します。

 

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