長春巡り【満州国首都】

  • URLをコピーしました!
スポンサーリンク
目次

成田空港

満洲(現在はチャイナの東北部と呼ばれる)を中心に歴史巡りをしていきたいと思います。まずは成田から中国南方航空を利用して、長春へと向かいます。

不思議なことに、チャイナって預け入れ荷物にマッチとライター厳禁なんですよね。

だいたい3時間ぐらいのフライトです。機内食も出ました。

長春龍嘉国際空港

空港で「地球の歩き方」を持ってると捕まるらしい!マジか。

結構冷涼な気候ですね。札幌より北にあるからね。

長春は吉林省の省都です。意外に歴史は浅く、19世紀になってから清朝によって開発されました。

本格的な発展を遂げたのは、1932年に満洲国が建国され、その首都となってからです。当時は「新京」と名付けられ、日本資本によって計画的に都市づくりがなされました。

現在の長春では、現代的な建築だけでなく、往年の満洲帝都の繁栄を思わせる古い街並みを見ることが出来ます。

いかにも誰も使ってなさそうなビル街。チャイナの各都市の駅付近にけっこう多いですね。まさにバブルの残骸。

吉林省でも有名な東北師範大学の附属中学校です。

偽満洲国司法部旧趾です。現在の中華人民共和国では、満洲国の歴史を黒歴史として、すべてに「偽」の枕詞をつけます。

これが司法部の昔の姿。21世紀に入っても日本時代の建築がしっかり残っています。

偽満洲国国務院旧址

国務院とは満洲国の行政機関でした。まあ、内閣というところか。

ここに国務総理というただ一人の国務大臣がいて、日本人の総務長官とともに行政を司りました。満州国の行政の実務は、実際のところ日本人官僚たちによって進められていました。

1936年竣工ということは、日本の国会議事堂と一緒の年ですね。どおりで似てる!

左サイドには岸信介の執務室があったそうです。戦後、日本がなぜ急速に復興できたかというと、満洲国でいっぺん国づくりを経験していて、それが生きたのだと思います。岸ら優秀な行政官たちは、近代国家形成のノウハウを知っていたんですね。

この銅像のおっさんは、カナダ人の共産主義者の医師ノーマン・ベチューンとかいう人だそうです。

調べてみたら第二次大戦中に、シナ共産党の本拠地延安にわたり医療行為に従事したとか。毛沢東はベチューンに感謝し、各地に銅像を作らせたみたいです。

現在は吉林大学や一部博物館として利用されているとか。

これが在りし日の国務院です。

旧関東軍司令部です。関東軍とは満洲の日本陸軍。関東軍主導で満洲事変が起こされ、満洲国建国の原動力となりました。

日本のお城みたいですね!大陸にはなんか合わない感じw

今は共産党吉林省委員会として使われているとか。

在りし日の関東軍司令部です。

旧関東軍司令官邸

このレンガ造りは立派ですね。

晩飯は長白料理です。

中華では回転寿司ならぬ回転料理で、ぐるぐる回して好きなものを食べていきます。

長春ではホテルらしからぬ外装のホテルに泊まりました。

中身はわりかしまともだった。

テレビは大抵こんなのばっかり。

やっとCMになって女性がw 安心したよ。

字幕が出るのは、チャイナが多言語国家だから。北京語と広東語、上海語などが主な言語ですね。北京語が普通話(共通語)とされます。各方言はなんと文法すら一致せず、会話はほとんど通じないが、文字(漢字)は全国共通なので字幕を出してるんですね。

困ったのはネット環境が規制されていること。SNS、Gメール・・何も使えない。

偽満皇宮博物院

満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が、満洲国の建国から滅亡まで過ごした場所です。溥儀は映画「ラストエンペラー」で有名ですね。

愛新覚羅溥儀は1906年生まれ。わずか3歳で清朝(満州人の王朝)の皇帝になります。しかし1911年に辛亥革命が勃発。清朝は崩壊してしまいます。

その後もしばらくは溥儀の「皇帝待遇」は守られますが、1924年にクーデターが発生。溥儀家族は北京を追われ、天津の日本公使館に匿われます。ここから日本との繋がりができます。

満洲は19世紀末まで漢民族はほとんど住んでおらず、満洲民族の聖地でした。

日本による1932年の満洲国建国には、さまざまな目的がありましたが、日本は国際世論(欧米白人国家から)の批判も恐れていて、満洲に親日国家をつくるための大義名分が必要でした。

そこで「清朝」の聖地である満洲に、清朝の後継の帝国をつくるというストーリーを考えた。溥儀としても願ったり叶ったりで、飛びついて協力したのです。名前も「後清」にしたかったみたいですね。

庭園があります。1938年につくられた東御苑です。趣きありますね。

ここが「天照大神防空壕」です。1940年につくられました。

隣の神社の御神体を避難させるための防空壕だったみたい。

「建国神廟」の礎石です。

1940年につくられた木造の神社がここにあったそうです。

この中が「御用防空壕」。中は鉄筋コンクリートの部屋があり、溥儀とその家族が避難するためのものでした。

プールもあったんですね。溥儀はイギリス人家庭教師レジナルド・ジョンストンの教えを受け、西洋文化に憧れを抱いていました。

もっとも自分自身は泳ごうとせず、他の人が遊ぶのを見てプールサイドでくつろぐのが好きだったみたいです。

同徳殿

1938年に竣工しました。溥儀の官邸のようなものでしょうか。

入場してみます。

日本間です。

ビリヤード室です。

ここはピアノ室。

左奥にピアノがありますね。孤独な裸の王様には、様々な慰めが必要だったようですね。

ここは中国間。

「便見室」です。溥儀が非公式会見(密談?)などに使用したとか。

これがラストエンペラー溥儀です。

「映画ホール」です。

ここで映画を見たり、バドミントンをしたりしたそうです。溥儀の伝記っぽい映画も上映してましたね。

「参拝室」です。来賓との会見や、朝貢を受けるのに使われるはずでした。実際には使用されてないとか。

「大広間」です。

ここで溥儀は祝日と誕生日の朝貢を受けました。

これで同徳殿の見学は終了です。下がかつての同徳殿です。

緝熙楼

長春門をくぐると、溥儀やその家族が過ごした緝熙楼(しゅうきろう)が見えます。

緝熙楼(しゅうきろう)は溥儀と皇后婉容(えんよう)の住居とされ、日常生活を過ごしていました。

2階が溥儀と皇后婉容の居住エリアです。ここが溥儀の寝室。

溥儀のバスとトイレ。

溥儀の理髪室。

溥儀の書斎。

溥儀の仏間です。

溥儀の皇后婉容(えんよう)の応接間です。

婉容のアヘン吸引室です!溥儀は生まれながらの皇帝のため、妻といえども奴隷と同等にしか見なさず、婉容にも愛情を注ぐことは少なかったようです。

やがて孤独に苛まれた婉容は阿片に手を出し、中毒状態になっていきます。

1階は皇妃(側室)譚玉玲(たんぎょくれい)の居住区でした。この人は早逝してしまいます。

ラストエンペラー溥儀の後半生は劇的なものでした。日本の敗戦とともに皇帝を退位。日本への亡命を図りますが、ソ連軍によって拿捕されます。

その後は東京裁判に出廷し、「自分は満洲国の皇帝になどなりたくなかった。日本人に強制された」と証言します。本当はノリノリだったくせにね。保身のための偽証だったことを、後に本人も認めています。

皇后・婉容の最期は悲惨なものでした。孤独から阿片への依存度を高めた婉容は、精神錯乱をきたし、視力も失います。そんな状態の婉容に、溥儀は全く関心を示しませんでした。

戦後は共産シナにとらわれ、放置死されたと言います。婉容のご遺体は、行方不明になり骨も残っていません。

一番左が日本女性・嵯峨浩(さがひろ)で、溥儀の弟・溥傑の妻です。日本の侯爵家からお嫁入りしました。溥傑との仲は円満で、二人の子供をもうけました。日本の敗戦後、ソ連軍・中共軍の暴虐が吹き荒れる中、廃人となった婉容に最後まで寄り添ったのは嵯峨浩だったのです。

勤民楼です。ここでは公式行事などが行われました。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次