会津若松巡り【鶴ヶ城、白虎隊】

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目次

JR会津若松駅

会津松平家の城下町です。忠義の会津藩士は今も市民の誇りか。

まずは会津の象徴・鶴ケ城にやって来ました。

鶴ヶ城

天守閣

鶴ヶ城の生みの親は、戦国時代の武将・蒲生氏郷と言われます。豊臣秀吉の命で、それまで伊達政宗が統治していた会津に入った氏郷は、1593年に今よりも高い七層の天守閣を完成させ、名前も鶴ヶ城に改めさせました。

江戸初期の1643年、2代将軍秀忠の子である保科正之が会津に23万石で入封します。のちに保科家は松平の名を与えられ、徳川の最も忠良な藩屏と成っていきます。そしてそれが幕末の会津松平家の悲劇を生むことに繋がっていきます。

2011年に天守閣屋根瓦は赤瓦に葺き替え工事され、幕末当時の姿が再現されました。

天守閣の1層目は塩蔵になってました。内陸の会津では貴重な塩を、冷涼な下層部で保存しているのですね。塩は越後から阿賀川の舟運を利用して運ばれました。阿賀川とは、阿賀野川の福島県での呼び名です。

最上階の5層目が展望所となります。

白虎隊の自決で知られる飯盛山が見えます。白い線が見えるところ。

飯盛山

飯盛山は戊辰戦争の時に、白虎隊の悲劇があったことで知られます。バス停「飯盛山下」から徒歩5分です。

ここがバス停からすぐそばの入り口で、登っていきます。

悲劇の白虎隊も現代では観光名所です。

スロープコンベアがありました。これ、テレビで見たことある! 初号機かw

切符入れがとても原始的。

ベルトコンベアがなんかペラペラした感じでした。

登ってみると、ローマ市寄贈の碑がありました。ファシスト党時代のイタリアから。

白虎隊の武士道精神に共感してとの寄贈らしいですね。

この柱はポンペイの廃墟から発掘されたものらしいですよ!

いよいよ自刃の地へ。

16~17才の少年たちによって編成された白虎隊は、猪苗代湖畔・戸ノ口原合戦から退却し飯盛山にたどり着きます。

しかしそこで、鶴ヶ城の天守を覆い隠す、激しい炎と濛々たる黒煙を目にします。その時、隊士の間では帰城し戦うか、敵陣に斬り込みをかけるか、激論が交わされました。

結果、彼らが選んだのは自刃でした。捕らえられて生き恥をさらすより潔く死を選ぶ、という結論でした。

実際には城は落ちてはおらず、周辺の武家屋敷から昇っていた煙だと言われています。

白虎隊でたった一人一命を取り留めた少年がいました。飯沼貞吉という人物です。彼は一人だけ生き残った悔恨の念から、二度と会津の地を踏むことはありませんでした。そして晩年になって重い口を開き、白虎隊の悲劇は後世に伝えられることとなりました。飯沼は1931年に仙台で亡くなりましたが、戦後多くの友が眠る飯盛山に墓碑が建てられました。

白虎隊十九士の墓です。

藩主・松平容保の白虎隊に向けた弔歌の碑です。「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世世に朽ちじとぞ思ふ」

その他、様々な慰霊碑があります。

白虎観音です。

会津藩殉難烈婦碑です。戊辰戦争では会津の婦女子も230名が、戦死または自刃しています。そういえば大河ドラマ「八重の桜」も会津の娘の話でした。

会津さざえ堂という有名なお堂がありました。

会津さざえ堂は1796年に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。国重要文化財に指定されているそうです。

上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるそうです。

戸ノ口堰洞穴(とのぐちせきどうけつ)

猪苗代湖畔・戸ノ口原の戦いで破れた白虎隊士ら20名は、鶴ヶ城を目指して、この長さ約150メートルの洞穴を潜り、飯盛山の中腹へと戻りました。

白虎隊記念館です。

会津駅前で喜多方ラーメン食べました。美味しかった〜!

会津松平家墓所

会津藩9代目藩主・松平容保(かたもり)は、幕末会津藩の悲劇のプリンスですね。

何と遠く見える山全体が、会津松平家墓所です!

1657年以降、会津松平家の墓所として、藩祖の保科正之を除く歴代の藩主が眠っています。

墓域の総面積は、約4万5千坪という広大な広さで、全国的にみても、大名御廟の中で類を見ないほどの規模を誇ります。参拝し終えるまでどうみても2時間くらいはかかりそう!しかも「クマ出没危険」の貼り紙が!

今回はクマよけの準備も無かったので、残念ながら入り口撮影だけで撤退します。最近、東北では熊による被害が増えているのでマジで怖い。今回はここで撤退!

会津武家屋敷

思ったより充実してました。

まずは西郷四郎の像を発見。西郷頼母の養子であり、小説「姿三四郎」のモデルとなった人物です。

会津武家屋敷は幕末の会津藩家老・西郷頼母(たのも)の家老屋敷を中心に構成されています。

家老屋敷に入っていきましょう。さすがご家老屋敷、280坪あるみたい。江戸時代中期の和様建築を復元したものです。

先ずは表玄関。侍女のお出迎え。ここからは上級武士だけが通されます。

御成りの間です。殿様がおいでになった時だけ使用されました。

いましたよ。9代目会津藩主・松平容保公です。

自刃の間です。西郷頼母一族の妻女総勢21名は、会津戦争勃発時に足手まといにならないために、自害して果てました。

その中には4才や2才の子供もいたと言われます。会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれています。

西郷頼母の妻・千重子(享年34才)です。千重子が自害の前に詠んだ辞世の句「なよたけの風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」は会津婦道の精神を示す歌として知られます。

藩米精米所です。これが東北一の精米所らしい。石臼が16あって、1日に16俵精米できるそうです。水車は直径4メートルとか。

会津歴史資料館。白壁土蔵造りですね。

会津を舞台にした大河ドラマ「八重の桜」はなかなか面白かったですね。下の写真は、主演の綾瀬はるかさん。ここで撮った一枚らしい。

第二資料館では、西郷家一族の自刃が再現されています。

会津城下に攻め込んだある土佐藩士が西郷邸に入ると、すでに血の海と化していました。その中で死に切れず苦しんでいる少女がいました。土佐藩士に気がつくと、その少女は「あなたは敵か味方か」と尋ねたので、少女を哀れに思った土佐藩士が「味方だ」と答えると、懐剣を差しのべます。介錯を望んでいると判断した土佐藩士は、すぐに介錯をしてその場を離れます。

大山捨松さん。会津国家老の娘でしたが、会津戦争後に岩倉使節団の留学生募集に応募します。

「賊軍」会津からも応募は認められたんですね。津田梅子らとともに、アメリカに留学し、10年以上を過ごします。看護学校などで学んでいたようです。帰国後、薩摩の大山巌(日露戦争の満洲軍総司令官、陸軍元帥)の後妻になります。「鹿鳴館の花」と言われた社交力、国際感覚を活かし、赤十字などの社会奉仕で功績を残しました。

弓道体験もできます

近藤勇の墓

新選組の近藤勇の墓が会津にあるそうなので、行ってみました。

天寧寺というお寺らしいですが。。

道標に従って、どんどん山奥へ。

けっこう遠くて、きつい。雨の日などはかなりぬかるみそうです。

ようやく到着や!

このお墓は、新選組の副長・土方歳三が建てたとされています。会津戦に参加していた土方歳三が、松平容保に頼み、会津城下を見渡すことができるこの場所に近藤勇のお墓を建てたそうです。その際に近藤勇の遺髪を埋葬したと伝えられています。

左が近藤勇のお墓。右は明治になってたてられた土方歳三のお墓です。

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