JR両国駅
東京の両国にやってきました。両国といえば相撲のメッカ。
昭和の名横綱・千代の富士。引退時の、絞り出すような「体力の限界・・!!」の名言が忘れられない。
国技館が見えます。その向こうには江戸東京博物館が。今回はそのどちらもスルー。
「北斎通り」を発見。
この通りを行くと北斎美術館にたどり着きます。
緑町公園
北斎美術館の前の公園ですが・・
江川太郎左衛門の屋敷跡!
江川家は代々、伊豆韮山の代官の家系ですが、特に幕末の太郎左衛門英龍は開明的で有名。
韮山反射炉(世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」)を築くわ、日本で初めてパンを焼くわ、日本近海に接近した英国船を説得して追い払うわ、卓越した能力を持った人物でした。明治まで生きられたらどれほどの仕事をしたか。
今回の主役・葛飾北斎生誕の地もここです。
墨田区に生まれた浮世絵師の葛飾北斎(1760年〜1849年)は、90年にも及ぶ長い生涯で3万点を超える膨大でハイレベルな作品を残し、世界の偉大な芸術家として広く注目されています。
すみだ北斎美術館
いよいよ入場していきます。
ここがエントランスです。
北斎の絵は1867年のパリ万国博覧会で、ジャポニスムの一大ブームを巻き起こしました。
北斎に影響を受けた画家には、ゴッホやドガなどがいます。音楽家のドビュッシーも「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に発想を得て、交響詩「海」を作曲したとされています。1998年には、『LIFE』誌の「最も重要な功績を残した世界の人物100人」の中で、日本人で唯一北斎が選ばれています。
「須佐之男命厄神退治の図」(推定復元図)
北斎86歳の時に描かれた作品で、牛嶋神社に奉納されていた作品ですが、1923年の関東大震災で焼失してしまいました。残されたモノクロ写真を元に復元されました。
入場していきます。ここは撮影可能なスペースです。
「富嶽三十六景」の版木です。
18世紀の終わりには、多色刷り木版画の「錦絵」が誕生します。カラフルで美麗な木版画が大量生産され、現在の価値で言うと1枚数百円で庶民の手に入りました。
「四代目岩井半四郎 かしく」(1779)
北斎デビュー当初の作品。勝川派の絵師として、役者絵などを描いていました。
「あづま与五郎、残雪」(1801〜1804)
勝川派を去った後、北斎は江戸琳派の頭領となります。この時代は独自の「宗理様式」を完成させます。
「賀奈川沖本杢の図」(1804〜1807)
後の「富嶽三十六景」を予感される作品。これが40代の作品で、70代であの「神奈川沖浪裏」を描くのです。波の表現が衝撃的に変わっていったのがわかります。
「北斎漫画」(1812〜1829)
北斎は「絵手本」の制作に情熱を注ぎました。「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に知られるようになりました。
「百物語 さらやしき」(1831〜1832)
「芙蓉に雀」(1833〜1834)
これは北斎のコレクターで知られるピーター・モース寄贈の作品の一つ。彼のコレクションがこの美術館の根幹をなしています。ピーター・モースは、大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースの親類。
「諸国瀧廻り 下野黒髪山きりふりの滝」(1833頃)
人気シリーズの一つ。日光の滝を描いた。
「富嶽三十六景 甲州石班沢」(1831頃)
36景と言いながら、ヒットを見越して当初から46枚描かれていました。後に続編として102枚の「富嶽百景」が描かれています。
「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(1831頃)
これは世界で一番有名な絵の一つです。「賀奈川沖本杢の図」から30年を経ての進化が分かる。
北斎のアトリエ再現
北斎は80代の頃、娘のお栄とともに住んでいました。その様子を門人が絵に残しているのですが、それを元に再現した模型です。北斎はいつもコタツで寝ながら作品を描いていたといいます。
北斎の名言。死の床につきながら「後10年、いや後5年生きられれば葛飾北斎は本物の絵描きになれるのに」というものでした。あくなき執念は凄い。
娘のお栄も「葛飾応為」の画号で、北斎と共同作業をしていました。応為の現存する作品は10数点と少ないが、色彩や陰影の表現は素晴らしいものがあります。北斎の天才の血を受け継いでいたのでしょう。新藤兼人監督の映画『北斎漫画』では田中裕子が演じていて最高でした。
この汚さ。天才にありがちですが、北斎は奇行が目立ちました。片付けは出来ず、汚れてくるとすぐ引っ越します。生涯93回引っ越したことで知られます。
撮影不可なものにも素晴らしいものが多く、堪能できました。
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