ハワイ旅行記の最大の目的、真珠湾歴史巡りに向かいます。アリゾナ・メモリアルの開場は朝7時から。
送迎バスの集合は朝6時でした。まだ暗い。
真珠湾
無事到着する頃には明るくなってました。
けっこう並びます。アメリカ人の客も多い。ちなみに軍施設なので、バッグの持ち込みは禁止です。基本は手ぶら。帽子、カバーを付けないカメラ、携帯電話、透明なボトルに入った水、ポケットに入る財布、の持ち込みは許されます。
まずは「パールハーバー・ビジターセンター」に入場して、映画を見せられます。映画の予約時間は7時30分なので、周辺を散策していきます。
これは「戦艦アリゾナの錨」ですね。アリゾナは火薬庫が誘爆したため、大爆発を起こしました。この錨は90メートル以上離れたところまで吹っ飛んでいたのを、発見されたようです。
これは「孤独な水兵の像」です。
遠くに戦艦ミズーリとアリゾナ・メモリアルが見えます!
これは「潜水艦ボーフィン」です。これを保存しているのか。ボーフィンは1944年に「対馬丸事件」を起こした艦です。
1944年8月、対馬丸は那覇国民学校の学童を乗せた疎開船にもかかわらず、ボーフィンの魚雷攻撃を受け沈没。多くの児童たちが犠牲になってしまいました。1400名以上の乗員乗客が死亡している傷ましい事件でした。
アメリカ人は第二次大戦中の、日本人民間人攻撃について、なんだか今でもあまり罪悪感は無さそうなんですよね?
アリゾナ・メモリアル
映画上映の時間になりました。
ここでは大東亜戦争の経緯や、真珠湾攻撃についてのドキュメント映画を見せられます。
当時の記録フィルムなどを基に、コンパクトにまとめられていましたね。
映画を見たら、そのままアリゾナに向かうボートへと乗り込みます。
映画→アリゾナがセットなのです。
戦艦ネバダの海上記念碑?ネバダは真珠湾攻撃で座礁しています。
1941年12月8日(アメリカ時間では7日)、日米和平交渉の決裂を契機に、帝国海軍はハワイ作戦を発動。
航空機を活用して戦艦を撃沈する、という従来では考えられなかった戦法で、アメリカ太平洋艦隊を壊滅に追い込みました。戦艦4隻撃沈、1隻座礁、3隻損傷など。
石油の対日輸出全面禁止という、事実上の宣戦布告をして待ちかまえていたルーズベルト大統領も、おそらくこれほどの損害は予期していなかったに違いありません。ルーズベルトは日本人をバカにしきってましたから。一報を聞いて、顔面蒼白になったそうです。
ルーズベルトは「汚ない騙し討ち」をした日本を非難し、「リメンバー、パールハーバー」の宣伝文句のプロパガンダで、非戦論一色だったアメリカ世論を転換させることに成功します。
「アリゾナ・メモリアル」に着きました。
戦艦アリゾナは、真珠湾攻撃における最大の被害艦となりました。
燃料や火薬庫に引火したために、大爆発をおこし、1100名以上の乗員が戦死したのです。
これはアリゾナの砲塔跡のようです。
海面下には艦影が見えます。
アリゾナとともに多くの兵士達も眠っています。
それにしても兵士の遺骨収集を徹底して行う米軍が、アリゾナだけは放置しているのも不思議です?真珠湾攻撃(日米開戦)には未だ謎と闇が多い。
今も艦から漏れ出す油は、「アリゾナの涙」と呼ばれます。
「アリゾナ・メモリアル」は厳粛な慰霊の場なのです。
国旗を折りたたんでいます。
今もアメリカ海軍では、真珠湾に入港する際に甲板の縁に整列し、アリゾナに敬意を表します。帝国海軍の末裔たる海上自衛隊もそうしている。
日米両軍の英霊に手を合わせることができてよかった。
戦艦ミズーリ
「アリゾナ・メモリアル」慰霊の後は、フォード島に渡って「戦艦ミズーリ」を見学しました。ちなみにフォード島へと渡る橋の近辺は、写真撮影が厳しく禁止されています。確かに強襲揚陸艦など碇泊していました。
戦艦ミズーリ入り口には、チェスター・ニミッツ元帥の像が迎えます。真珠湾の責任で解任されたキンメル大将の後釜として、太平洋艦隊司令官に大抜擢されました。(その際、少将から特進で大将に昇進)
ニミッツはその期待に応えて、日本海軍を壊滅に追い込みました。
ただしニミッツ元帥は、日本の東郷平八郎元帥に心酔しており、その尊敬は日本と戦争をしても変わることはありませんでした。戦後に横須賀港で放置されていた戦艦三笠を、記念艦として顕彰することに尽力したのはニミッツなのです。
アメリカ国旗が両側に並びます。
これらは織られたもので正式な国旗だということです。
対日戦勝時の有名なヴィクトリー・キッスの人形が!
このことからわかるように、ミズーリは対日戦勝と大いに関係があります。1945年9月2日、東京湾に浮かんだミズーリ艦上で、日本軍の降伏文書署名が行われたのです。
戦艦ミズーリは1944年1月に進水しました。進水式にはメアリー・マーガレット・トルーマンが参加しています。対日戦勝の時の、トルーマン大統領の娘です。
大戦末期に実戦投入され、活躍しました。
40.6㎝主砲の威容は凄い。
終戦直前の1945年には室蘭や日立を艦砲射撃しています。
ミズーリはいったんは予備役になったものの、約30年のブランクの後に近代化改装し、再就役。湾岸戦争でも活躍。トマホークでイラクを攻撃しています。
再退役後の1999年からは記念艦として、「アリゾナ・メモリアル」のそばに展示されるようになりました。
アリゾナの隣にミズーリを置くというのは、いい意味に考えれば「戦争の始まりと終わりの象徴」とも受け取れます。
ここはミズーリ艦上の、日本軍降伏文書調印の場です。この上に机が置かれて調印式が行われました。
1945年9月2日のことでした。これがミズーリ号艦上の降伏書類調印の場面です。
晒し者にされてますね。アメリカには武士の情けが無いのかね。日露戦争でのステッセルやロジェストヴェンスキーへの扱いとはえらい違いだ。
これは1853年ペリーが来航した時の国旗レプリカです。マッカーサーは何故ペリーを持ち出したのか?
いい意味に考えれば「憎しみの時代は終えて、新たな日米関係を始めよう!」みたいな意味なのでしょうか。
これが降伏文書のレプリカです。
そしてこの日、9月2日で第二次大戦は正式に終了します。ただし千島列島でのソ連軍の侵攻は、8月15日以降も続くことになります。
1945年4月17日、この凹んだところに日本の特攻機が突入しました。
ミズーリへの特攻機の突入。
この特攻はミズーリの外壁を凹ませただけに終わってしまったが、戦死した日本パイロットの上半身がミズーリ艦上に投げ出されました。
水兵たちがその遺体を投棄しようとしたところ、ミズーリのキャラハン艦長は「その日本兵を敬意を持って葬れ」と命じ、翌日海軍式の水葬が行われました。
米兵の中には、敵を丁重に葬ることに違和感を感じる者もいました。が、キャラハン艦長は「国のために命をかけた点で、諸君らと何ら変わりない」と諭しました。
水葬は御遺体を国旗に包んで行いますが、ミズーリに日本の国旗などある筈もない。米兵達はわざわざ徹夜で旭日旗を作って、日本の英雄を葬いました。この日本人パイロットは、石野節雄二等兵曹である可能性が濃厚だということです。
この美しいエピソードに救われる気がしますね。アメリカ軍にもニミッツやキャラハンのように、武士道がわかる人もいたんです。
ニミッツ提督は終戦の際に、「海軍士官が関わった限りにおいて、この戦争はファイン・ウォーだった」と発言しました。一見ファイン・ウォー(素敵な戦争)って何よ?って思ってしまいます。
推測するに、日米両軍ともギリギリの戦いの中にも人間性を捨て去ることなく、国のために死力を尽くした!というような意味ではないでしょうか?
士官室です。
作戦室?
太平洋航空博物館
戦艦ミズーリ見学の後は、同じフォード島にある「太平洋航空博物館」を見学します。
そもそも日本海軍は「日本近海で戦う想定で設計された軍隊」です。日本から5400キロ離れたハワイで戦うことなど、到底不可能と考えられていました。
1941年11月26日に択捉島単冠湾を出航した機動部隊の航跡です。
30隻もの大艦隊を隠密のまま、ハワイ近海まで持っていくことは至難の技。そのためあえて荒海で知られる「冬の北太平洋航路」を選択し、米軍に察知されないようしていました。幸い奇跡的に全く気づかれず、ハワイ近海まで到達。
12月2日には大本営から連合艦隊へ、「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号が打電されました。対米開戦確定、12月8日から交戦せよ、との合図です。
12月8日(現地時間7日)早朝、この山々を目標に、帝国海軍の航空隊は突入してきました。
太平洋航空博物館の床には航空写真がありますね。
これはさっき行ったアリゾナ・メモリアルとミズーリです。
このへんが海軍ドックと石油タンクです。
この博物館では、第二次大戦前後の機体を見学できます。これはご存知、零戦です。
三つぐらいの零戦の部品を合体して、復元したそうです。零戦は真珠湾での制空を確保。攻撃機の掩護を行いました。
九七式艦上攻撃機です。どうしてもここまでしか復元出来なかったようですね。
艦攻は敵艦への「水平爆撃」と「雷撃」を担当します。ハワイ作戦の主目的である敵艦隊殲滅を、実行する機がこの九七式艦攻でした。艦攻の向こうに「航空魚雷」が見えます。
真珠湾は水深が浅いため(わずか12メートル)、当初雷撃は不可能と考えられていました。魚雷は水中でいったん沈んでから敵艦にぶち当たります。真珠湾くらいの浅い海だと、魚雷が海底に突き刺さってしまうのです。
しかしハワイ作戦の言い出しっぺの連合艦隊司令長官・山本五十六は、簡単には諦めませんでした。魚雷の改良に成功するとともに、鹿児島湾を「仮想・真珠湾」に見立てて猛訓練を行うよう、命じました。その甲斐あって、開戦の頃には日本海軍パイロットの技量は「神の技」と言われる程に成長していました。
アメリカ練習機Interstate Cadetです。
真珠湾攻撃に出くわしたにも関わらず、撃墜されず着陸に成功した機です。操縦士はコーネリア・フォートという女性でした。奇跡の機として、長く英雄視されていた機ですね。
カーチスP40です。大戦初期の米軍主力戦闘機です。
赤いルートが日本軍第一次攻撃隊の進入路です。
第一航空隊総隊長の淵田美津雄は、ハワイ上空にカーチスがまったくいないのを見て、全軍に命じました。
「ト・ト・ト(全軍突撃せよ)」
まず高橋赫一少佐の九九式艦爆隊、続けて村田重治少佐の雷撃隊が突撃します。そして淵田総隊長は数分後、空母赤城に有名な打電を行います。
「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功せり)」
アメリカ太平洋艦隊は一日にして壊滅。
「航空機で戦艦を撃沈する」という、従来の戦争の常識を覆す戦いでした。
これはハワイのニイハウで見つかった零戦の残骸のようです。
B25双発爆撃機です。ドーリットル空襲仕様のようです。
ドーリットル空襲とは、1942年4月に行われた日本本土の空襲です。
ジミー・ドーリットル大佐率いる16機のB25が空母ホーネットから飛び立ち、日本を空襲し、そのまま中国大陸に着陸したという離れ業でした。
空襲の損害は軽微だったものの、初めて帝都を攻撃された衝撃は大きく、焦った山本五十六はミッドウェー作戦に前のめりになっていきます。
SBD5ドーントレスです。
ダグラス社が開発し、第二次世界大戦期にアメリカ海軍で運用された偵察爆撃機です。ドーントレスはミッドウェイ海戦で、日本海軍機動部隊の隙をついて急降下爆撃を敢行。
日本海軍の至宝・空母赤城、加賀、蒼龍を一気に仕留めたことで知られます。
ちょうど兵装転換時で、爆弾や魚雷に誘爆したことが日本三空母の運命を決めました。誘爆がなければ急降下爆撃くらいでやられるわけなかった。
アメリカ海軍にとっては、真珠湾で戦艦を失ったことで、逆に思い切って空母機動部隊中心に戦術転換がしやすかったのかもしれません。・・というかそうするしかなかったのかも。
一方で日本海軍は、ハワイ作戦で航空兵力の優位を証明しながら、世界最大の戦艦・大和と武蔵を保持していたことで「大艦巨砲」の考えも捨てきれず、開発が後手後手に回っていくことになります。
ブッシュは二度も撃墜されて、生き残ったらしいですね。
カーチスP40のフライング・タイガース仕様みたいです。
フライング・タイガースとは、支那事変に「アメリカ義勇兵」として参加の準備がなされていた対日戦闘部隊のことです。
太平洋航空博物館別館
別館の79号館も見学できました。
ヘリがいっぱい。こちらは第二次大戦後の機体が多いようですね。
このガラスの破損は、真珠湾攻撃の時に撃たれたものだという説があります。
F 16A Viperです。
F15A Eagleです。
F14D トムキャットです。
F4C ファントムです。
B52 Stratfortressの機首の部分です。
中を覗けました。
日本海海戦と並ぶ、帝国海軍の偉業「ハワイ作戦」を巡礼出来て、今回の目的はほぼ達成出来ました。
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