パリのチュイルリー庭園をぶらり散策していきます。
カルーゼル凱旋門
ルーヴル宮の西にカルーゼル凱旋門がありました。
ナポレオンの命によって、アウステルリッツの戦いの戦勝記念で造られたのは、もともとこちらでした。
建築を担当したのは、ルーヴル美術館の初代館長ドゥノンでした。ルーヴルのドゥノン翼に名前を残す人物です。
「勝利」の戦車に、「平和」の像が乗ります。
ナポレオンはこの凱旋門のコンパクトさ(高さは19メートル)に不満を抱きます。そしてもう一つの巨大な凱旋門の建設を命じます。それがあのエトワール凱旋門でした。(いわゆる有名な方の凱旋門)
凱旋門をくぐって振り返ると、ルーヴル宮が見えます。
チュイルリー庭園
さらに西の方向に歩いていくと、チュイルリー庭園の敷地に入っていきます。
チュイルリー庭園は、もともとあったチュイルリー宮殿の庭として設計されました。
チュイルリー宮殿は、ヴェルサイユを追われたルイ16世一家が一時宮殿としたところですね。1871年のパリ・コミューンの際に焼失しました。
左右対称のフランス式庭園です。
中央の散歩道の脇に左右に、美しい木々と像が立ちます。
市民や観光客の憩いの場です。
オベリスクが見えますね!
庭園を出てオベリスク見てみます。
コンコルド広場
このオベリスクは1836年にエジプトから贈られたものです。
高さ22メートル程度あります。
オベリスクはエジプトの記念碑です。
ヒエログリフというエジプトの神聖文字が刻まれています。
この広場はもともとは「ルイ15世広場」と呼ばれていましたが、革命によってルイ15世の騎馬像は撤去され、「革命広場」と改称されます。そして騎馬像の代わりに「ギロチン台」が置かれ、ルイ16世、マリー・アントワネット、デュバリー夫人、ロベスピエールなどが次々と処刑される場となります。
この広場は、あまりにも血なまぐさい記憶を消し去るためか、その後「コンコルド広場」と改称され、現在に至ります。
国民議会
セーヌ川対岸には「国民議会」が見えます。フランス国会の下院です。ブルボン宮殿を下院として利用しています。
反対側にまわって見ました。
フランスではこの下院に優先権が与えられ、上院は諮問機関の役割を果たすようです。
セーヌ川はいつもクルージングでにぎやか。
左岸にオルセー美術館が見えます。
チュイルリー公園からコンコルド広場には行かず、左側のスロープを上がっていきます。
オランジュリー美術館
ここが名高いオランジュリー美術館です。
けっこうコンパクトな美術館ですね。もともとオレンジの温室があったことから、オランジュリーと呼ばれるようになった土地だそうです。
まずは地下2階に印象派以降のコレクションがあります。オランジュリーというと、モネの睡蓮が有名ですが、それだけじゃない。素晴らしいコレクションがあります。
オーギュスト・ルノワール「ピアノを弾く少女たち」
1892年の作品です。
オーギュスト・ルノワール「二人の少女の肖像」
1890~92年の作品です。
オーギュスト・ルノワール「足を拭く水浴の女」
1883年の作品です。
オーギュスト・ルノワール「長い髪の浴女」
1895~96年の作品です。
オーギュスト・ルノワール「ピアノに向かうイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロール」
1897~98年の作品です。
オーギュスト・ルノワール「若い男の子と女の子の肖像画」
1875~80年頃の作品です。
オーギュスト・ルノワール「花束」
1900年頃の作品です。
オーギュスト・ルノワール「苺」
1905年頃の作品です。
オーギュスト・ルノワール「手紙を持つ女性」
1890年頃の作品です。
オーギュスト・ルノワール「遊ぶクロード・ルノワール」
1905年頃の作品です。モデルはルノワールの三男・クロードです。
オーギュスト・ルノワール「花瓶の花」
1896~98年頃の作品です。
オーギュスト・ルノワール「桃」
1881~1882年頃の作品です。
オーギュスト・ルノワール「ガブリエルとジャン」
1895~1896年頃の作品です。次男ジャン・ルノワールは後の大映画監督です。
オーギュスト・ルノワール「ピエロ姿のクロード・ルノワール」
1909年の作品です。
ルノワール作品は充実していました。
アンリ・マチス「灰色のキュロットのオダリスク」
1927年の作品です。
アンリ・マティスはフォーヴィスム(野獣派)のリーダー的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けました。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」とうたわれました。
アンリ・マチス「Nu drapé étendu」
1923年〜1924年の作品です。
アンリ・マチス「青いオダリスクあるいは白い女奴隷」
1921年〜1922年頃の作品です。
アンリ・マチス「三姉妹」
1917年の作品です。
アメデオ・モディリアーニ「若い見習職人」
1918~19年の作品です。
アメデオ・モディリアーニ「赤毛の女の子」
1915年の作品です。
アメデオ・モディリアーニ「アントニア」
1915年の作品です。
マリー・ローランサン「マドモワゼル・シャネルの肖像」
1923年の作品です。
モデルは有名なココ・シャネルですね。しかしシャネルはこの作品の出来上がりに満足をせず、受け取りを拒否。ローランサンはシャネルを「田舎娘」と揶揄しました。
マリー・ローランサン「犬を抱く女性」
1924年〜1925年の作品です。
マリー・ローランサン「ポール・ギョーム夫人の肖像」
1924年の作品です。
オランジュリー美術館の基礎となったのは、画商ポール・ギョームのコレクションですが、この作品はギョームの妻・ドメニカを描いたもの。ギョームの急死や、再婚相手ヴァルテルの不審死などに、ドメニカの関与があるのでは?と当時から疑われており、「メスカマキリ」と呼ばれていた伝説的悪女。
アンドレ・ドラン「大きな帽子を被るポール・ギョーム夫人の肖像」
1928〜1929年の作品です。ローランサンのより、こっちの方がドメニカの悪女な味が現れていますね。
アンドレ・ドラン「アルルカンとピエロ」
1924年頃の作品です。ドランはフォービズムの代表的な画家です。
二人の道化師を描いた作品で、ドランの代表作と言われます。
アンドレ・ドラン「座る画家の姪」
1931年の作品です。
姪のジュヌヴィエーヴ・ジェリーを描きました。
アンドレ・ドラン「ポール・ギョームの肖像」
1919年の作品です。このギョームのコレクションが、オランジュリー美術館の礎となったのです。
モーリス・ユトリロ「サン・ピエールの教会」
1914年の作品です。
ユトリロ作品の多くは静かな街並みを描いた風景画です。彼はもともとはアル中の治療として絵画をはじめました。
モーリス・ユトリロ「ベルノ商店」
1924年の作品です。
モーリス・ユトリロ「クリニャンクールの教会」
1913年〜1915年の作品です。
モーリス・ユトリロ「旗のある市庁舎」
1924年作品です。
モーリス・ユトリロ「ノートルダム」
1910年作品です。
モーリス・ユトリロ「モン・スニ通り」
1914年作品です。モンマルトルの丘に向かっていく通りを、ユトリロは好んで描いています。
ポール・ゴーギャン「家族の外出」
1901年の作品です。
ポール・セザンヌ「庭のセザンヌ夫人」
1879年〜1882年頃の作品です。
ポール・セザンヌ「セザンヌ夫人の肖像」
1890年頃の作品です。
ポール・セザンヌ「リンゴとビスケット」
1879年〜1880年頃の作品です。
ポール・セザンヌ「梨と青りんごの静物」
1873年頃の作品です。
ポール・セザンヌ「画家の息子」
1881年~1882年頃の作品です。
アンリ・ルソー「田舎の結婚式」
1905年の作品です。
アンリ・ルソー「人形を持つ子供」
1892〜1893年の作品です。
アンリ・ルソー「ジュニエ爺さんの馬車」
1908年の作品です。
アンリ・ルソー「アルフォールヴィルの椅子工場」
1897年の作品です。
アンリ・ルソー「嵐の中の船」
1896年の作品です。
パブロ・ピカソ「白い帽子の女」
1917年の作品です。
ルノワールを模写?するちびっ子。楽しそうです。
クロード・モネ「アルジャントゥイユ」
1875年作品です。
地下1階はカフェとミュージアムショップがあります。
さて、0階がオランジュリー美術館の至宝、モネの「睡蓮」です。
クロード・モネ「睡蓮」
80歳近くなったモネは、一時は白内障でほとんど目が見えなくなっていました。しかし白内障の手術に踏切って見事復活。
この「大睡蓮」は復活したモネが、友人であるクレマンソー首相の依頼に応じて、フランスの第一次世界大戦の勝利を記念して、国家に寄贈したものです。
まず第1室です。「日没」
「朝」
オランジュリー美術館は、この「睡蓮」のために改造して、空き部屋にして作品の完成を待っていました。
モネは1926年に86歳で死去するまで、この作品の仕上げに力を尽くしました。
「緑の反映」
「雲」
もう一つ、奥に睡蓮ルームがあります。第2室です。
「樹木の反映」
「柳のある明るい朝」
「2本の柳」
パリの美術館は、子どもたちや学生たちの見学が多かったですね。
「朝の柳」
モネの世界を堪能しました。
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