今回は歴史の復習のパート2です。室町時代から江戸時代までです。
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室町時代・・将軍と守護大名の政治
鎌倉倒幕後に後醍醐天皇による建武の新政が行われますが、武士を軽視したため、すぐに足利尊氏らの離反を招きます。以後、足利派の京都北朝と、後醍醐派の吉野南朝に分かれ、60年にもおよぶ南北朝の動乱が始まります。
この動乱の中で、尊氏が守護に大きな権限を与えたため、守護は地頭を支配し、守護大名となっていきます。室町幕府は征夷大将軍の力はそれほど強くなく、守護大名による連合政権の色彩が強い政体でした。
将軍は最盛期の3代将軍・足利義満と、衰退期の8代将軍・足利義政を覚えておきましょう。対にして覚えるのが良いかも。
戦国時代・・下剋上の世の中
応仁の乱の後、100年もの戦国時代に突入します。下剋上の風潮が高まって、多くの戦国大名が出現しました。毛利元就、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗・・これほどの英雄・豪傑が一時代に集中したのは世界史的に見ても稀のような気がします。
忘れられがちですが、戦国大名たちは領国を治めるため、それぞれ分国法を定めました。今川仮名目録や信玄家法が有名ですね。
戦国時代に海外から伝わったものとして、①キリスト教②鉄砲の2つを押さえておきたいところです。特に鉄砲は戦い方そのものを変化させる影響を与えました。足軽鉄砲隊や城の石垣などです。
これらを伝えたのは南蛮人と言われるポルトガル人、スペイン人(カトリック)でした。少し遅れて来日するプロテスタントのオランダ人、イギリス人は南蛮人と区別して紅毛人と呼ばれました。
安土桃山時代・・信長と秀吉の政治
織田信長の生涯は地図と絡めて覚えたいところです。
地図のア〜エは織田信長と関係がある場所だよ。どこかわかる?
解答はこちら
ア・・桶狭間の戦い(1560年)
イ・・長篠の戦い(1575年)
ウ・・安土城(1576年)
エ・・本能寺の変(1582年)
織田信長は「天下布武」の印を使い、乱世を武力で統一しようとしました。
信長の城・安土城天守の再現
信長の食卓(商人津田宗及の日記からの再現模型)
楽市の風景(模型)
↓現在の安土城下。この通りに楽市楽座が置かれたという。
信長は徹頭徹尾「革命家」でした。楽市楽座、関所の廃止、比叡山焼き討ちなど、古い秩序や既得権益を徹底的に破壊しました。信長は秦の始皇帝、チェーザレ・ボルジアなど海外の英雄と比較されることが多いですが、やはりちょっと日本人離れした感覚の持ち主ですよね。
その信長の跡を継いだのが豊臣秀吉。関白・太政大臣となり、大阪城を築城。天下に号令します。
秀吉は刀狩令や太閤検地など、身分の固定につながる政策を打ち出しています。
農民に近い下層階級から、成り上がって天下人になった秀吉は、自分が天下をとった後はすかさず身分の固定をしていきます。これを兵農分離と言います。
江戸は政権担当者を漢字1字でキャラづけしよう
清水寺で年末に、その年を象徴する漢字1字を発表してますよね。「絆」とか。あれを真似して、江戸時代を人物ごとに整理していきます。人物ごとに漢字1字でキャラづけして、整理していきましょう。
初代将軍・徳川家康⇨「待」
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」が有名ですね。
歴史ドラマや漫画では、家康というと陰謀を張り巡らせる腹黒タヌキというイメージが強いです。武将ファンの小学生はいっぱいいますけど、「家康が好き」って子はあまり見たことないですね。でも考えてみれば戦国の世を終わらせ、その後に260年もの太平の世を開いたんだから、本来なら「国父」として、銅像が立ちまくっていてもおかしくないぐらいの存在のはず。
三河の小大名に過ぎなかった家康が天下を取れたのは、長命であったことが大きいと思います。「鳴かぬなら鳴くまで待とう、ホトトギス」って本当に言い得て妙です。武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、みんな家康よりも早く亡くなりました。このうち一人でも長生きしていたら、徳川の天下はなかったかもしれません。
2代将軍・徳川秀忠⇨「法」
秀忠と言うと、上田城の真田昌幸に足止めを喰って、「関ヶ原の戦い」に徳川本隊を遅参させた、間抜けなイメージが強いですね。ですが、家康が死んでからは徳川幕府の体制を固めました。「法」とは「武家諸法度」のこと。これで大名を統制するシステムが構築されます。
3代将軍・徳川家光⇨「鎖」
やっぱり家光の時代に、鎖国の体制が固まった。1637年の「島原・天草一揆」でキリシタンによる宗教戦争の怖さを知って、1639年ポルトガル船の来航を禁止します。以後はキリスト教国との交易はオランダのみになります。(オランダは布教を捨てて、出島に押し込められる屈辱に耐えても、対日交易独占の旨味を選んだ)
5代将軍・徳川綱吉⇨「犬」
極端な動物愛護令の「生類憐みの令」を命じたことで知られます。また貨幣の質を下げて経済の混乱を招いた、とかほとんど悪い文脈で語られることが多いですね。
ただもともと「生類憐みの令」は、江戸に蔓延していた野犬対策として始まったらしいですし、貨幣の質を下げたことも「信用経済の先取り」とも言えるとか、擁護する説が近年は出てきています。綱吉政権の勘定奉行・荻原重秀に至っては、「天才経済官僚」と評価されるようになってきている。また綱吉の時代は、元禄というバブル時代で、上方中心の町人文化(元禄文化)が繁栄します。
6、7代将軍に仕えた儒学者・新井白石⇨「正」
この人自体に権力はないんです。甲府からやってきた6、7代将軍のブレーンとして「正徳の治」と言われる改革を行った儒学者です。正徳だから「正」。または混乱を招いた5代将軍の政策を正した、という意味もあります。つまり5代将軍綱吉の政策を裏返すと、正徳の治になります。「生類憐みの令」の撤廃(綱吉は遺言で永遠に続けるよう言い残したが、死去後は一瞬で廃された)や、貨幣の質を戻すことなどをしました。また現在の皇室に連なる閑院宮家の創設に尽力したことでも知られます。
8代将軍・徳川吉宗⇨「米」
紀州和歌山藩から40代の働き盛りで、将軍の座をゲットしました。早速新井白石ら前政権の一派を一掃し、将軍自らによる親政を行います。これを「享保の改革」と言います。「米価」の動向に心を砕いたことから「米将軍」と呼ばれました。
老中・田沼意次⇨「商」
とにかく田沼というと、ワイロ政治でカネまみれのイメージが強いですね。老中の時に「天明の大ききん」や「浅間焼け」などがあったことから、「世の中が乱れるのは、すべて田沼が悪い」みたいな世論が醸成され、当時から人気のない政治家でした。
ですが、吉宗にくっついて紀州からやってきた小役の家柄から大名になり、老中にまで昇りつめたのは、この人物の並々ならぬ才覚を示すものだと思われます。同業者組合の「株仲間」を認めたことも、商業資本家との結託!みたいなイメージで、不人気の原因となりました。ですが、時代の移り変わり(百姓の時代⇨商人の時代)を見極め、最も富裕層になりつつあった商人から課税する手段を探ったという意味で、再評価されつつあります。
老中・松平定信⇨「学」
その田沼の政敵であったのが松平定信です。徳川吉宗の孫ですからエリート意識はすごい。徳川定信として、将軍職を望んでいたとも言われます。それが白河藩に左遷された。これは田沼の陰謀だ!と復讐の鬼となるわけです。そして田沼派との壮絶な政争に勝ち、わずか30歳そこそこで老中として、「寛政の改革」を行います。
ただこの人自体、相当な教養人なので、学問へのこだわりが強かった。朱子学以外を幕府の学問所で教えることを禁じ、文武を奨励します。祖父の吉宗は蘭学を解禁して、日本の近代化の萌芽を開いたのにね。
そしてだんだん民衆は、定信の統治に息苦しさを感じるようになります。有名な狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし 文武というて夜も寝られず」とか「白河の清きに魚も住みかねて もとのにごりの田沼恋しき」などと歌われるようになってしまいます。しかし昔の人の皮肉のセンスってすごいね。結局定信は11代将軍家斉を小僧扱いして、くどくど言ったことが煙たがられたのか、わずか7年ぐらいで政権の座を追われてしまいます。
老中・水野忠邦⇨「株×」
唐津藩⇨浜松藩から老中となり、「天保の改革」を行います。でもほとんど水野忠邦の政策って成果を上げてないんですよ。2年ぐらいで失脚してるし。
内容としては田沼と対比して理解するのがいいんではないでしょうか。田沼の逆をイメージするとわかりやすい。「江戸幕府はあくまで百姓から徴収する年貢を基とする農業政府である」ことを志向している感じです。だから「株仲間の解散」を命じますし、農村で食えなくなって都市住民となった連中を「人返しの法」で帰農させたりします。ただやはり時代の流れに逆行するような政策は、長くは続かない。
15代将軍・徳川慶喜⇨「返」
これはわかりやすいですね。政権を返すってこと。慶喜は1867年「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上しました。ただ恐ろしく頭の切れる人ですから、実際に政権を返すと言っても「朝廷は何もできないだろう、結局は徳川に頼らざるをえなくなる」とか色々計算していたと思います。武力倒幕をするつもりだった薩摩・長州の機先を制した感じです。焦った西郷・大久保は、徳川の官位や領地を没収するという挑発を行い、事実上の倒幕戦である「戊辰戦争」を強引に引き起こしていきます。
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