県都・広島市を観光していきます。
広電に乗って、まずは原爆ドームです。
原爆ドーム
1945年8月9日、B29爆撃機「エノラゲイ」号が広島市街地に人類初の核攻撃を行いました。
原子爆弾は上空600メートルで爆発。広島を業火が襲いました。
後遺症の病死も含めると、20万人の未曽有の被害をもたらしました。
戦争末期、無抵抗になった日本に対して、果たしてここまでする必要があったのかと思います。
原爆なんて使わなくても、鈴木貫太郎内閣なら充分終戦に持っていけるのはみえていた。アメリカのこの攻撃は、非人道的で「戦争犯罪」と断ぜざるを得ません。
すさまじい爆風で、木造の部分と中にいた人間は全滅し、厚く造られていた側面の部分だけが残ったということです。
この瓦礫は最初に見たときは衝撃的でしたねえ。
再建説も出たようでしたが、保存方式で「負の遺産」として語り継ぐようにしたのは正解だったと思います。
経年劣化が心配されており、戦後四回ほど補強工事が施されているそうです。
直近は2〜3年前の耐震化工事だそうです。
相生橋です。原爆はこの橋を目印に落とされました。
平和祈念公園にはさまざまなモニュメントがありました。
動員学徒慰霊塔ですね。
動員学徒の女神像です。
学徒動員で働く若者たちのレリーフですね。
学徒動員自体は総力戦においては珍しくもなく、どこの国でもやっていたことです。
ですがちょうど始業時間帯に爆撃されたことによって、動員作業中の若者たちの多くが犠牲となってしまったのでした。
「原爆の子の像」です。
原爆症にかかり、折り鶴を織り続ければ治ると信じながらも、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの死をきっかけにつくられました。
この銅鐸には湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和を」の字が刻まれています。(これは複製)
広島の子供達はみんなで折り鶴を織って、平和を祈ります。
平和観音像です。
平和祈念像です。母に抱かれた子供が、平和のラッパを吹いています。
この三日月もいつかは満月になる、という平和への祈りが込められています。
平和の池と、平和の灯ですね。
原爆死没者慰霊碑です。
平和の池を挟んで、遠くに原爆ドームを望むデザインはすごい。
でも碑文、これだけは違和感があるんですよね。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」広島大学の雑賀教授が考えたものらしいけど。「過ちはアメリカがしたんだろ?」というツッコミは建設当時からあったと言います。
祈りの像です。
「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」という長い名前が、ふと目に留まりまして、入ってみました。円形なのが不思議な感じです。
円の中には被爆時刻の午前8時15分で止まった時計があります。
時計の周りには、出土した被爆瓦を置いてあります。
地下へ向かうグルグルの回廊は、何なんでしょうか。ちょっと不気味なイメージです。
地下の追悼空間の壁面は、約14万個のタイルで造られており、1945年末までに原爆によって亡くなった人数と同数になっているそうです。
不思議な空間でした。
なお、出口のそばで上映していた「広島市立高等女学校慰霊碑」の映像を見て、泣けてしまった。
昭和天皇の「終戦の詔勅」通りですね。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻(しきり)に無辜(むこ=罪の無いという意味)を殺傷し」と仰っている。市立高女は676人という市内の学校最大の犠牲者を出しました。何の罪もない子達が爆殺された。その原爆使用の非道性を、玉音放送の中で昭和天皇ははっきりと批判していたわけです。あまりにも酷いので、市立高女の慰霊碑を探して手を合わせて来ました。
このE=MC2って何かと思ったら、アインシュタインの相対性理論から取られた原子力エネルギーの公式ですってね。
この慰霊碑ができた1948年は、まだアメリカの占領期だったことで、「原爆」の表現を避けて刺激しないようにしたそうです。
「嵐の中の母子像」です。
乳飲み子を必死に守る母の像。
作者は札幌出身の本郷新さん。今までも当ブログでは何度も登場しています。
平和記念ポスト!こんなものまであるとは。
平和の像「若葉」です。
「まがつび(災害のこと)よ ふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」という湯川秀樹博士の歌が刻まれます。
湯川博士も物理学の学者として、原爆について複雑な思いがあったんでしょうね。
「教師と子の碑」です。
ちょうど学校で被爆した子供もたくさんいて、多くの教師は子供たちを身を挺してかばおうとしました。
別日に朝の原爆ドームの様子も写してみました。
平和祈念公園の様子も写してみました。
朝の清掃中です。お疲れ様です!
平和記念資料館
今は本館が耐震工事中ということで、端っこの入り口から入館しました。
平山郁夫さんの絵「平和のキャラバン」が出迎えてくれます。オバマ大統領がここを訪問した時に、この絵の前で、安倍総理とともにメッセージを書いた場所ですね。
まずは被爆前の広島市の写真の展示。広島県産業奨励館からです。
相生橋ですね。この特異な形状ゆえに、爆撃目標になったのでした。
完全に「この世界の片隅に」の世界です。
運命の時。ここからは被爆後の世界が始まる。
映像でも再現です。
いや、言葉を失いますね。
一番赤いところは全壊・全焼で、オレンジのところは全壊だそうです。
対して長崎の被害マップ。なるほど、長崎のプルトニウム弾の方が強力だったのにもかかわらず広島よりも被害者数が少ないのは、この山がちの地形が関係していたのですね。
瓦の被爆前の状態です。
瓦の被爆後の状態です。
ガラス瓶の被爆前の状態です。
ガラス瓶の被爆後の状態です。
広島・長崎の悲劇の後も、冷戦開始とともに米ソの核開発レースが始まりました。水爆実験ブラボーの「死の灰」を浴びたのは、日本の漁船「第五福竜丸」でした。
オバマ大統領がアメリカの現職大統領として初めて広島を訪問し、折り鶴を折ったことは印象的でした。
元々オバマ大統領はチェコのプラハで「核なき世界」を訴え、原爆加害国としてのアメリカの責任に言及しました。確かに画期的な発言だったんですが、その演説だけで「ノーベル平和賞」を受賞してしまった。
2017年核兵器禁止条約が採択されました。
女生徒の日記、8月5日で終わってしまってるのが悲しい。
アメリカ軍は原爆攻撃目標の都市(広島、京都、小倉、新潟、長崎など)には空襲を禁じてました。だから8月5日までは平和だったんですね。
三人の中学生の遺品です。帽子、学生服、ゲートル、それぞれ別の子の遺品なんですね。
三輪車です。
8時15分で止まった時計。
中学1年生の女の子の服と最後の日記。やはり8月5日で終わってしまってる。この子は最後まで行方がわからなかった。
「黒い雨」の残る衣服です。
「原爆の子の像」の由来となったエピソードです。2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気に成長しました。ところが、10年後の小6の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後、1955年10月に短い生涯を終えました。禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、1300羽以上の鶴を折り続けました。
禎子さんの同級生たちは、慰霊碑の建設を全国へ呼びかけ、やがて募金活動が始まり、国内外からの支援により、あの像が完成したのです。
ショップでも千羽鶴関連のものが多かったですね。
地球平和監視時計ですか。
これも平山郁夫の「広島生変図」ですね。地下1階にあります。
またありました。被爆前の写真と、
被爆後の写真の比較。
被爆前の写真と、
被爆後の写真の比較。
展示はやはり衝撃的で、辛いものがありました。ショップでは広島名物「熊野筆」のエンピツ型を買ってみました。
なるほど、五角形で合格か。値段も550円と安い。資料館は生徒たちも平和学習に来るから、これならお求めやすいですね。
この辺りが元・広島市民球場の跡地になります。
昔市民球場は来たことがあるんだよなあ。いい球場だった。下が在りし日の広島市民球場です。
子供が楽しそうで、市民の一体感があった。
レリーフが残ります。
シリーズではなかなか勝てないんですね。近鉄との「江夏の21球」は名勝負でしたが。
鉄人・衣笠祥雄さんは、永遠にカープファンの記憶に残るでしょう。
今もライトスタンドは残してあるんですね。この日はなぜか中古車フェアとかで使用されていましたが、いつもは自由に入場できるみたいです。
広島城
この安芸の地は、古くは毛利元就、関ヶ原の後は猛将・福島正則、福島家転封後は浅野家が代々治めました。
別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれ、これが広島カープの語源となりました。確かにお堀に鯉が泳いでましたよ。国宝指定されてましたが、原爆によって全ての建築物は倒壊・焼失しました。今の広島城は1958年以降に再建されたものです。
まずは二の丸表御門です。
二の丸表御門は16世紀末の建築以来、350年存続していましたが、原爆で焼失してしまいました。現在のものは焼失を免れた礎石を土台に、残された資料をもとに平成になって復元されたものです。
二の丸櫓です。
これも原爆によって焼失したものを、表御門と同じタイミングで復元したものです。
なんだかんだ言って平成になってから、全国で史跡の復元事業がかなり進んでいる感がありますね。
二ノ丸前の番所跡です。
週末は天気が崩れるという予報でしたが、ポカポカでミニお花見も楽しめたよ。
これから本丸へと向かいます。
中御門跡です。
本丸に入ってすぐ広島護国神社がありました。
鯉が守り神ですか!撫でるとご利益あるっぽいです。
カープの選手も毎年来ているみたいですね。
護国神社ならではの英霊碑です。
本丸広場には何か卵だか風船だか丸いものが、大量にありました。
これ夜にライトアップして光祭りとするみたいです。
旧広島大本営跡です。
日清戦争時に、国家の総力をあげて戦うため、明治天皇は一時的に広島にお移りになりました。
その時置かれたのが、この広島大本営です。
広島大本営跡前に、被爆クロガネモチがあります。
確かに煤けてますね。
さていよいよ天守閣に上っていきます。
原爆で消滅後、1958年に再建されました。一見木造っぽいけど外観だけですね。鉄筋コンクリートで再建されてます。
内部は歴史コーナーや武具・刀剣などが展示されてましたが、基本は撮影禁止でした。撮影可の武家屋敷や、商人屋敷だけ、撮影していきます。
展望台は最上階の5階でした。広島市内が一望できます。お堀巡りの舟も出てますね。
これは戦国武将の福島正則が、自ら破壊したと伝わる石垣です。
福島正則は、広島城の無断修復の罪で転封となっています。(実は本多正純にハメられた冤罪と言われる)
お城のそばに公園がありますね。中央公園のようです。
お城を背景にいい感じです。
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