ロンドン・ユーストン駅
ユーストン駅からヴァージン・トレインを利用して、リバプールへと遠征しました。
リバプールは歴史ある海商都市であり、そしてなんと言っても世界一有名なロックバンド、ザ・ビートルズの出身地として知られています。
海外特急列車!車窓から眺めるだけでも楽しいです。
リバプール・ライムストリート駅
2時間ちょっとでリバプール・ライムストリート駅に到着しました。
夢にまで見たリバプールに来れましたよ。
マシュー・ストリート
まず何はともあれマシュー・ストリートに向かいました。ビートルズ銀座ともいうべき場所か?
マシュー・ストリートも雑然とした感じがロック的です。ビートルズにちなんだお店がうじゃうじゃですw
謎の女の子の像です。調べて見たらシラ・ブラックだった!
シラ・ブラックは元キャバーンクラブの店員だったが、ビートルズに才能を見出され歌手としてデビュー。ビートルズのカバーもたくさん歌ってます。
さあ、ここがキャバーンクラブです。ビートルズが若き日に出演していた有名なライブハウスです。ここは帰りに寄る予定。
ジョン・レノンの像です。
アルバム「ロックン・ロール」っぽいですね。
ハードデイズナイト・ホテル
マシューストリートを抜けるとすぐ、ビートルズがテーマの高級ホテル「ハードデイズナイト・ホテル」がありました。
こんなホテルに泊まれたらファン冥利に尽きるね。でも、お高いんでしょうね。
図々しくも侵入していきます。
「ハードデイズナイト・ホテル」前に、ビートルズ巡礼専用タクシーが止まってました。
リバプール大聖堂
さてこの後、ちょっと余裕があったので、20分くらい歩いてリバプール大聖堂にやって来ました。
20世紀になって建設されたそうですね。
ステンドグラスが美しい。
海外旅行でも、自然よりも建築に目が行きますね、私は。
いつもながら荘厳な気持ちにさせられました。
しかし教会のショップでもビートルズグッズがあるところなどは、さすがリバプールですw
アルバート・ドック
リバプール大聖堂の観光の後で、港の方に戻ってきました。アルバート・ドックです。
海商都市として発達したリバプールの繁栄の象徴ともいうべきか。
18世紀には奴隷貿易の中心地として繁栄したという闇の面もある。
1980年代以降は、エンタメの本拠地として再開発されました。カフェやレストラン、美術館など楽しめる場所がいっぱいです。
19世紀以来の歴史あるドックは大切に保存、利用されているようです。
謎の観覧車です。
ビートルズ・ストーリー
アルバートドックにはビートルズ博物館の「ビートルズ・ストーリー」があり、見学しました。日本語オーディオガイドもあるので、勉強になりました。知ってそうで詳しくは知らなかった、ビートルズの歴史を一通り学べました。
まずは四人の生い立ちから。
卒アルですか!
ジョンがいますねえ。
ポールとジョージ。 真ん中はポールの弟さんかな。
ポールの最初のギターです。
ジョージの最初のギターです。
西ドイツ・ハンブルグの劣悪な環境で、若きビートルズが腕を磨いたことは有名です。
1日8時間も演奏したとか。ハンブルグも港町で、荒くれ船員たちがお客ですから、激しい表現力を身につけていきます。
50年代末から60年代初めにかけて、リバプールには400ものビート・バンドがあったと言われます。明らかに新しい音楽の潮流が生まれつつありました。その時代の流れを捉えたのが、音楽専門紙「マージー・ビート」紙です。
マージー・ビート紙のオフィスが再現されています。
初期のビートルズを広めていく上で、大きな影響力を持っていました。
ビートルズ初期の敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインも「マージー・ビート」紙を読んでビートルズに注目するようになります。
マシュー・ストリートの再現です。
初期ビートルズがホームとしたキャバーン・クラブがあります。
シラ・ブラックはキャバーンのクローク係でした。
NEMS(ネムズ)という企業のレコード部門を担当していたのが、ブライアン・エプスタインです。
ある日、ある若者がトニー・シェリダンの「マイ・ボニー」というレコードを探しにNEMSを訪れます。
この曲の伴奏をビートルズが演奏していて、それをきっかけにブライアンはビートルズに興味を持ちます。
キャバーン・クラブでのビートルズの演奏に感銘を覚えたブライアンは、ビートルズとマネージメント契約を結びます。
ここからはEMIのスタジオの様子です。
ビートルズは1962年10月にデビュー。
デビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」は17位。
2曲目「プリーズ・プリーズ・ミー」が1位を獲得し、一躍スターダムにのし上がります。
3曲目「フロム・ミー・トゥ・ユー」は7週連続1位。
「シー・ラブス・ユー」1位。
「抱きしめたい」1位。
1963年デビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」が発売され、30週連続1位。そしてそれを押しのけセカンドアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」が21週連続1位。
大スターになったビートルズの最大の目標は、アメリカ進出でした。
世界最大の市場であるアメリカで売れるかどうか・・、
その心配は杞憂に終わりました。渡米直前のフランス公演の最中に、「抱きしめたい」が全米ナンバー1を獲得したことが伝わり、メンバーは狂喜します。
全米で最も注目されるTV番組「エド・サリバン・ショー」に出演。
ここでブライアンのマネージメントが光ります。1回の出演料を低く押さえ、その代わり3回出演させるよう要求したのです。大事なのは目先の金でなく、より多く露出することだと考えたのです。この作戦は功を奏し、4月には全米チャート1位〜5位までをビートルズが独占します。
「ビートル・マニア」という言葉が生まれ、社会現象的な人気を得ていきます。
女性たちの狂乱は凄まじい。
「ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK」というドキュメント映画が、当時の狂乱の雰囲気をよく伝えてくれます。
この映画を観ると、ビートルズがライブツアーを続けることができなくなった理由がよくわかります。普通の神経を持った人間なら、ヒステリー状態になった何万人もの群衆に囲まれる恐怖に耐えられない。
1967年以後、ビートルズはライブ活動を停止。レコーディング活動に専念します。そして凝りに凝ったスタジオワークで、歴史的名盤を次々に作り出していきます。
ポップス史上最高のアルバムと言われる「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」のジャケット再現です。
この像の男はミックジャガー?
イエロー・サブマリン。
マジカルミステリー・ツアー。
インドの神秘的な精神世界にも魅せられます。
インドのラヴィ・シャンカールは、ジョージに大きな影響を与えました。これはシタールという楽器で、「ノルウェイの森」などでも使用されました。
ラヴィ・シャンカールの娘が、あのノラ・ジョーンズです。
そしてグループ最後のライブ演奏となったルーフ・トップ・コンサート。
警察にも無許可で行われたゲリラ・ライブでした。映画「レットイットビー」で使われました。「あの映画は本当は僕らが警察に逮捕されるシーンで終わる予定だったんだ」とメンバーは語っていました。
ジョンが「イマジン」のビデオで弾いていた白いピアノ。
これでおしまいです。ビートルズの歴史が年代順に追えて、なかなか良かったですよ。
カフェです。
ここはショップです。チョコレートか。
なんと日本公演のTシャツ!
マジカルミステリーツアー
リバプールのビートルズ巡礼バスツアー「マジカルミステリーツアー」の時間がやってきました。ここがチケット引き換え所です。
ここで日本語ガイドを1ポンドで購入できます。
これがチケットです。
これがバス!まさにマジカルミステリーツアーそのものです。
参加者の多くは高齢の白人でした。東洋人は私だけでした。
さあいよいよ発車!
リンゴの母の職場
まずはリンゴ・スターの母親エルシーが働いていた「エンプレス・パブ」です。
これ、リンゴの「センチメンタル・ジャーニー」というアルバムのジャケット写真に使われた建物ですね。1970年にリリースされたリンゴ初のソロ・アルバムでした。
ジョージの生家
ここはジョージ・ハリスンの生家です。ここは下車できました。
12番という住居です。今も誰か一般人が住んでるそうです。
ペニー・レーン
この標識前で下車できました。
「ペニーレーン」はポール作で、リバプールへの郷愁を歌ったナンバーです。
ここが曲冒頭の床屋barberです。
On the corner is a banker with a motorcarと歌われる街角の銀行です。
セント・ピーターズ教会
さてここが、ジョンとポールが初めて出会った教会です。
1957年7月6日。友人とセント・ピーターズ教会のパーティーに参加した15歳のポールは、16歳のジョンと出会います。エディ・コクランの「Twenty Flight Rock」を演奏したポールを見たジョンは意気投合し、ポールを自身のバンドに引き入れるのです。
ストロベリー・フィールド
ストロベリー・フィールドには下車できました。
永遠の名曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の舞台はここ。
昔は孤児院だったところで、幼き日のジョンはいつもここに遊びにきていたそうです。
ちょうど私が訪問した2日ぐらい前に、ビジターセンターがオープンしたみたいです。ツアーで行ったので入場する時間はありませんでした。
ミミおばさんの家
ジョンが育った、ミミおばさんのメンディップスの家です。車窓撮影です。
ジョンは1946年に離婚した母ジュリアから、彼女の姉ミミの元に預けられ、この家に引っ越してきます。1963年に結婚するまで、青春時代をこの家で暮らしました。
ジョンの部屋は2階の左端です。おそらくあの部屋で「プリーズ・プリーズ・ミー」が作られました。
厳格なミミおばさんは、ジョンが音楽に夢中になるのが気に入らなかったようです。「ジョン、ギターは大いに結構だけどね、それで食べてくなんて絶対に無理よ」
この家はジョンの未亡人オノ・ヨーコによって、ナショナル・トラスト(ボランティア保護団体)に寄付されました。
ポール青少年時の家
ポール青少年時の家です。ここも下車できました。
ポールがリバプールで最も長く暮らしたのが、このフォースリン・ロードという住宅街にある家です。
ここでポールはジョンとともに曲作りに没頭し、おそらく「アイ・ソー・ハー・スタンディングゼア」もこの家で作られました。
このポールの家もナショナル・トラストに寄付されてるみたいですが、内部見学ツアーなどもあるようです。
マジカルミステリー・ツアーも終了です。
キャバーン・クラブ
マジカルミステリー・ツアーはマシューストリートそばで解散になり、そのままキャバーン・クラブに入場できます。
かなり地下深く潜って行きます。もともと戦争中、防空壕としてつくられたものをクラブにしたとか。
ジャズ・クラブとしてスタートしましたが、やがてマージー・ビートと呼ばれるリバプール・サウンドの発信地となっていきます。
キャバーンに来る日が来るなど、夢にも思わなかった。
ビートルズは1961年にここで演奏していたところを、ブライアン・エプスタインに見出されマネージメント契約を結びます。
これが1962年にビートルズとブライアン・エプスタインが交わしたマネージメントの契約書です。
2015年にオークションに出され、6600万円で落札されました。キャバーンが持ってたんですね。私がこれを見てたら、白人のおっさんが「This is important!」とか熱くなって語りかけてきた。6600万円じゃあ確かに重要だ。
ビートルズ以外にも、ローリングストーンズ、ヤードバーズ、ザ・フーやクイーンなどがキャバーンに出演していました。
ドリンクも楽しめます。しかし女性店員は後からきた白人を優先して私を後回しにした。
けっこうレアな展示がありますね。ボ・ディドリー、リトル・リチャード、BBキングか。
スティーブ・クロッパー。MG’sも「アビイ・ロード」のカバーアルバム作ってましたね。かなりの傑作でした。
ウィングスですね。
シラ・ブラックのステージ衣装だ。彼女はもともとキャバーンのクローク係出身ということで、讃えられていますね。
キャバーンクラブ特製グッズもいいのがあります。また帽子を買っちゃいました。ニット帽が欲しかったんですが売り切れで、普通のキャップを買いました。
ビールを飲みながら、ミュージシャンたちによるビートルズのカバー演奏を楽しめます。
バンドでなくソロ弾き語りでしたね。ビートルズ以外にも、オアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」とか、サイモンとガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」とか演奏してて楽しかったです。
ちなみに「マジカルミステリー・ツアー」参加者は、店員さんにいえばキャバーンのポストカードをもらえます。
さよなら、リバプール。18時過ぎだけどまだ明るいですね。
帰りもヴァージントレインでロンドンまで帰ってきました。
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