島原駅
島原市にやってきました。旅の目的は原城跡。島原・天草一揆の古戦場めぐりです。
武家屋敷っぽい駅舎で、さすが城下町です。
島原駅付近にある平成溶岩です。平成噴火活動の際の溶岩の一つを移したもので、とにかく巨大です。
1990年から始まった雲仙・普賢岳の噴火活動は大きな被害をもたらしました。
特に1991年6月の火砕流災害は、報道関係者や地元警察、消防団ら43名が死亡・行方不明となるという衝撃的な大災害でした。
その平成の噴火活動により、新たに隆起、長崎県最高峰になったのが、平成新山ですね。自然の脅威を忘れないために、その火をともし続け、絶やさないようにしています。
島原城
島原城にやってきました。
島原城は江戸初期に築かれ、廃藩置県後いったんは廃城になりましたが、昭和戦後になって再建されました。
お堀のハスが綺麗ですね。
忍者か?いや、石垣のお掃除中でした。お疲れ様です。
入場していきます。
お城内部は現代の世界。鉄筋コンクリートの復元城です。5階建てで1~4階は資料展示室になっています。特に、1階のキリシタン資料展示は見応えあって良かったです。
天草四郎肖像画です。天草四郎は益田四郎時貞とも言います。島原・天草一揆のリーダーに担がれたキリシタンの少年です。
キリシタンが隠れ信仰したマリア観音の数々ですね。観音様と見せかけて、実は聖母マリア様の像だと言う・・。
これは完全な聖母子像ですね。
隠しマリア聖像です。江戸っぽいマリアです。
これは島原城大手門の戦いですね。そもそもこの一揆は、島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生したものです。
一揆勢は最初は島原城を攻撃しましたが、攻略できずに原城での籠城戦へと移行します。
原城出土の砲弾です。幕府はオランダ海軍に依頼し、有明海側から砲撃を加えてもらいました。
プロテスタントとはいえ同じキリスト教国から攻撃を受けたことは、一揆側に精神的ダメージを与えました。(砲撃の効果自体はあまり上がらなかった)
島原でもキリシタンたちは棄教を強要され、迫害を受けていました。その様子は、こういった版画などでヨーロッパ諸国にも知られ、衝撃を与えました。
隠れキリシタンを見つけ出すための「踏み絵」です。
お城の5階は展望所でした。
島原城天守閣から見える山は、眉山(まゆやま)です。
この眉山が200年前、島原に大災害をもたらしたのでした。1792年の「寛政の大地変(島原大変・肥後迷惑)」です。
この年、突如大地震発生→眉山が山体崩壊→大量の土砂が城下を襲う→土砂が有明海に流れ出る→津波が発生し、対岸の肥後・天草を襲う→さらに返し波が再度島原を襲う・・という災害フルコースのような状況になり、対岸の肥後・天草の被害と合わせて1万5千人もの犠牲者を出すことになったのです。
島原城は被害こそ免れたものの、城下町はほとんど消滅し、我が国火山災害史上最大の被害を出すことになりました。
雲仙地獄
次に雲仙地獄付近にやってきました。すごい煙が道路に押し寄せてきている!
この岩は「湯神少彦(スクナヒコ)大神」という温泉の神様のご神体のようです。
ミニ地獄巡りしてみます。
硫黄の匂いと煙が凄いです。
島原城に絵がありましたが、この雲仙にキリシタンを連れて来て、拷問にかけたというから恐ろしいものです。
原城跡
いよいよ原城跡に着きました。
原城は島原半島の南、南島原市にあります。
ここが有名な島原・天草一揆の古戦場跡です。
島原・天草一揆とは1637年10月から翌年にかけて、九州の島原・天草地方に起こったキリシタン信徒を主とする内戦です。
現在は、土塁と堀跡を残すのみで、殆ど何もないですね。
島原・天草一揆では、幕府の禁教政策と領主の過酷な統治に対し、16歳の天草四郎時貞をリーダーとする約3万7千人の農民・浪人が原城に籠城し、徹底抗戦しました。
一揆勢と幕府軍の戦いは熾烈を極め、1638年1月1日には、幕府軍の司令・板倉重昌が戦死してしまいます。
幕府の新司令官は、「知恵伊豆」の異名を取る老中の松平伊豆守信綱でした。知恵伊豆は戦闘方針を変更します。一揆勢の海上補給路を絶って、兵糧攻めへと切り替えました。
知恵伊豆の兵糧攻めによって一揆勢は飢え、疲弊し、ついに2月末に原城は落城。一揆勢はほぼ全滅したと言われます。
以後、原城は一度も再建されることはありませんでした。再建されず往時の姿を留めたからこそ、「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして、世界遺産に登録されたわけです。もっともこの時点(2014年)ではまだ候補でしたが。
この天草四郎像は、長崎平和祈念像を作った島原出身の芸術家・北村西望氏によるものです。
天草四郎墓碑もあります。天草四郎はこの本丸で、死去しました。自害か殺害か諸説あるようですが、死後は長崎で晒し首にされました。
原城本丸跡には、十字架が立ちます。
これは胸を打つ1枚です。三人の像が有明海の向こう・天草を向いています。この像はザビエル・天草四郎・四郎姉です。四郎の家族も連座して処刑されたのでした。四郎の姉は最初はしらばっくれるつもりでしたが、四郎の生首を見せられ、泣いてしまったために、正体がバレてしまったそうです。
空堀です。ここに非戦闘員3000人が潜んでいたと言います。原城には1万人以上の非戦闘員が籠城していました。
破壊された石垣内隅部です。乱後の戦場片付けがかなりいい加減なものであったため(穴を掘って遺体を放り込んで、上から石垣を砕いたものなどで埋めただけらしい)、発掘調査では多くの人骨が出土しています。
一揆には半島南部の集落が殆ど参加し、殆ど全滅したため、戦場片付けをする人夫もいなかったのです。
そして、この後の10年、島原半島南部はほぼ無人地帯に成り果てました。後に小豆島から強制移民させ、無人状態を解消したそうです。
また出土した人骨の多くに残忍な殺傷痕が見られました。キリシタン=妖術というイメージがあり、幕府軍にとって得体のしれぬ恐怖があったのでしょう。日本戦史上類を見ない凄惨な戦闘であったと言えるでしょう。
江東寺
江東寺にやってきました。江東寺には板倉重昌の墓があります。
板倉重昌は島原・天草一揆において、幕府軍の最初の司令官となった人物です。しかし九州の諸大名は重昌を「小物」と侮って指示に従わず、原城攻略は難航しました。
そのうち業を煮やした幕府は、老中・松平信綱(知恵伊豆)の派遣を決定します。重昌は「なんとか老中の到着前に、乱を鎮撫しないといけない」と焦りまくります。
1638年1月1日、重昌は原城総攻撃を命じました。自らも突撃を敢行しましたが眉間に銃弾を打ち込まれ、壮絶な最期を遂げてしまいました。
初代藩主・松倉重政の墓です。
苛烈な徴税とキリシタン弾圧で、島原・天草一揆の遠因をつくった人物です。ただし重政自身は乱の数年前に死去しています。
その息子の2代目藩主・松倉勝家が父をも上回る苛烈な統治だったため、民衆の怒りが爆発し、大乱を引き起こしたのです。松倉勝家は乱鎮定の後に、切腹さえ許されず斬首の刑に処されています。切腹は武士に与えられた最後の名誉であり、大名が切腹を許されず斬首刑に処された例はこの一件だけです。
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