岐阜県の関ヶ原町に来ました。今日はいよいよ関ヶ原の戦いの古戦場にやって来ました。
JR関ヶ原駅
1600年に行われた天下分け目の戦いを巡礼していきます。名古屋から意外に近いですね。東海道本線で約45分でした。
関ヶ原古戦場
とりあえず車でまわっていきます。主だった陣跡はだいたい10キロ範囲内にあるようです。
徳川家康の最初陣地
まずは桃配山の徳川家康最初陣地です。
1600年9月14日、家康率いる東軍は西軍が籠城する大垣城をスルーして、西に進軍する構えを見せました。
慌てた西軍は関ヶ原に着陣。家康は得意の野戦に誘い出すことに成功しました。
このへんの陽動作戦は、三方ヶ原の戦いで武田信玄にやられた経験を戦訓としているのでしょうね。
桃配山とは、7世紀にこの関ヶ原で起きた壬申の乱の際に、天武天皇が兵士に桃を配った故事に由来しているそうです。
壬申の乱も関ヶ原が戦場だったのね。
関ヶ原は交通の要地だからね。壬申の乱、南北朝、慶長の関ヶ原と、何回も大きな戦が起きてるんだ。
ここは山内一豊(東軍)陣地です。「山内一豊の妻」のエピソードによって、むしろ女房の方が有名なくらいなので扱いも軽いですね。石碑すらない。
岡山烽火場
次に岡山烽火(のろし)場に上がっていきます。
標高164メートルの丘陵です。
竹林、美しいね。
ここは黒田長政(東軍)と竹中重門(東軍)の陣地跡です。黒田長政は有名な軍師・黒田官兵衛の嫡男で、家康の信頼を得て筑前福岡藩初代藩主となる人物です。
戦場が見渡せます。午前8時頃、ここから戦闘開始の狼煙が上げられました。
正面が松尾山です。
この松尾山こそが、合戦の帰趨を決めた小早川秀秋(金吾中納言)が布陣した場所です。
松平忠吉と井伊直政の陣地
ここが家康の四男・松平忠吉と井伊直政の陣地です。
この二人が同じ東軍の福島正則を出し抜いて、西軍に最初の攻撃を打ち掛けたのです。
関ヶ原開戦地
ここは関ヶ原開戦地です。
この地で家康四男・松平忠吉と井伊直政軍は、福島正則に抜け駆けして西軍に鉄砲を射掛けました。これが関ヶ原の最初の一発となったのです。
豊臣家恩顧の大名・福島正則に一番槍の栄誉を与えるわけにはいかず、何としても徳川の身内で出し抜く必要がありました。
小西行長の陣地
ここが小西行長(西軍)の陣地です。
小西行長はキリスト教信者のためか、敗走後も自刃を選択せず斬首されます。
福島正則の陣地
ここは猛将・福島正則(東軍)の陣地です。
先陣争いこそ出し抜かれたものの、東軍の主力として奮迅の戦いをします。
ここには樹齢八百年の月見の大杉があります。
関ヶ原後の福島正則は、安芸広島藩50万石を与えられましたが、広島城修築が武家諸法度違反として咎められます。正則は台風による雨漏りを修繕しただけと弁解するも、将軍秀忠は認めず、結局広島藩を召し上げられます。
藤堂高虎・京極高知の陣地
ここは藤堂高虎(東軍)らの陣地です。藤堂高虎は戦国きっての築城の名手とされます。
また主家を転々とした人物として知られ、浅井家、織田家、豊臣家、徳川家と主家を次々に乗り換えながら大大名に出世していきました。
藤堂家は幕末に戊辰戦争が起こると、徳川家を真っ先に見限り官軍に味方しました。「藩祖・高虎公の教えがよく受け継がれてる」と皮肉られたと言われます。
石田三成の陣地
ここが笹尾山。
西軍の指揮官・石田三成(治部少輔)の陣地です。関ヶ原巡りのメインがここでしょうか?
三成は豊臣家を守るため忠義を尽くしましたが、人望はありませんでした。加藤清正や福島正則など豊臣家恩顧の武将の多くは三成を嫌い、東軍に味方しました。
謀略ではやはり家康の方が一枚上でした。家康は秀吉の未亡人・北政所ねねを味方につけ、清正や正則を取り込むことに成功したのです。
さあ、見えてきました!
三成はここで腹痛や島津、小早川の動向に悩まされたのです。密かに家康と内通していた小早川秀秋や吉川広家は、三成の再三の督戦を無視し、動こうとしませんでした。
関ヶ原後は敗走し、潜んでいたところを捕われ、斬首されています。
ここが三成麾下の武将・島左近の陣地です。笹尾山の麓に着陣しました。
「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」と謳われたほどの名将でした。左近は関ヶ原で奮戦するも、無念の討ち死にをします。
島津義弘の陣地
ここは島津義弘(西軍)陣地です。薩摩勢は三成の再三の督戦を無視して、様子見を決め込んでいました。徳川と内通していたわけでなく、単に三成が気にくわないような感じだと思いますが。
が、あまりにのんびりし過ぎて、気がつけば西軍は壊滅。薩摩勢は逃げ場を失いました。
窮地に瀕した薩摩勢が選んだ選択肢は、なんと徳川本陣の中央突破でした。これぞ薩摩隼人。膨大な犠牲を出しながらも、大将の義弘は脱出に成功しています。これが歴史に名高い「島津の退き口」です。
なんと今なお関ヶ原からの薩摩勢退路ツアー?が行われているようですね!毎年夏休みに関ヶ原から大阪までの薩摩勢退路を踏破しているそうです。達成者は碑にその名が刻まれているようです。
薩摩に帰った島津勢は武備を解かず、和戦両構えで徳川との講和に臨みます。一旦は島津討伐を命じた家康も、島津の強硬な態度に怯み、島津家存続と本領安堵を認めざるを得ませんでした。
宇喜多秀家の陣地
ここは備前岡山藩主・宇喜多秀家(西軍)の陣地です。
神社の敷地の中にあるみたいですね。
宇喜多秀家は1万7千の大軍を率いて、西軍の主力として奮戦しました。が、小早川の裏切り以降は総崩れして敗走することになります。
敗走後はしばらく薩摩にかくまわれたりしていましたが、やがて幕府の知るところとなり八丈島に流されることになります。
しかし秀家は八丈島で80歳を超える長寿を達成しました(関ヶ原参陣の武将では最長寿)。秀家が亡くなったのは1655年で、すでに四代将軍家綱の時代になっていました。
宇喜多家は「浮田」と名を変えながら、明治維新を迎えます。今も八丈島に分家が残っているとか。
大谷吉継の陣地
さてここから西軍の将・大谷吉継(刑部少輔)の陣地巡りをしていきます。これは結構大変でした。
まずは東海道本線の踏切を越えます。その奥の若宮八幡社からかなり歩いていきます。
大谷吉継は早くから秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦い、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と武功を重ね、越前敦賀5万石を拝領します。
関ヶ原の時は、当初は家康の上杉討伐に参戦するつもりでした。大谷刑部は家康とも関係が良かったのです。
その途中、友人の石田三成を佐和山城に訪ねます。そこで三成に挙兵の意向を告げられ、驚きます。
「家康には勝てっこない」と刑部は三成を再三説得します。しかし三成の意志は固く、刑部の方が折れました。
刑部は敗戦を覚悟しながらも、三成の熱意に打たれ西軍での参戦を決意したのです。
ありました。
ここが大谷刑部の陣地です。
関ヶ原の武将の中でも、大谷刑部はかなりの人気。ドラマや映画で美化されるからか?歴女たちの巡礼も絶えないようです。すれ違った人はみんな女性でしたね。さてここからさらに山奥へ、大谷刑部の墓所へと向かいます。
関ヶ原での大谷刑部は奮戦するも、小早川秀秋の裏切りに遭いました。
小早川の寝返りを予期していた刑部は、しばらく持ち堪えましたが、脇坂、朽木らがさらに寝返り、これには耐えられず壊滅します。
癩病を病んでいた大谷刑部は醜い顔を晒したくないと、自刃後に自分の首を誰にも渡さないよう家来に厳命しました。
やっと着いた!大谷墓所です。
となりが介錯した家来・湯浅五助ですね。
何と大谷刑部は顕彰碑まで立っていました。さすが一番人気です。
関ヶ原決戦場
ここが関ヶ原決戦場です。
ここが小早川らの裏切りで両軍大乱戦となったところです。やがて大谷勢は持ち堪えられず崩壊。
西軍は総崩れとなります。
徳川家康の最後陣地
ここが徳川家康の最終陣地ですね。家康軍は午前11時ごろ桃配山からここに移動します。
一進一退の戦況に苛立った家康は、松尾山の小早川勢への威嚇射撃を命じます。
効果はてきめんで驚いた小早川勢は大谷勢へ突進。関ヶ原の大勢は決したのです。
ここは床几場といわれます。
戦い終わって日が暮れて、ここで家康が首など検分を行いました。
東首塚
ここが東首塚です。
大量の戦死者が出た戦いでしたが、日本武士の美徳で、終戦後は敵味方関係なく手厚く葬ります。
この井戸水で首を清めたと言います。
観光案内所
観光案内所でお土産も買えます。
武将コインロッカー。兵力によって大きさが違います。
どん兵衛も東西決戦か。
関ヶ原古戦場巡り、充実していました!
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