福岡市巡り【元寇防塁、金印公園】

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JR博多駅

福岡県のもう一つの政令指定都市・福岡市にやって来ました。

九州一の大都市の地方中枢都市です。さすがに大都会。

さて福岡みたいな大都会に来ても、とりあえずやることは歴史巡りです。まずは元寇の史跡を探索していきたいと思います。地下鉄空港線・西新駅から向かいます。

まずは元寇防塁の探索です。元寇防塁とは、鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)の際に築かれた石垣のことです。

名門校・修猷館(しゅうゆうかん)高校

なんと防塁が地名か!

ここが元寇防塁入り口です

西南学院がありました。私立の名門校ですね。この西南学院の体育館の敷地内に元寇防塁はありました。

元寇防塁

防塁の高さは2.5m~3m程と考えられています。

この防塁が約20キロにわたって築かれていたようです。効果は実にてきめんで、元軍はついにこの防衛線を突破できなかったそうです。

石塁は、江戸時代初期にだいぶ無くなってしまったそう。黒田官兵衛が福岡城を築く時の石垣としてリサイクルしてしまったそうな。

この後は福岡タワー方面へぶらぶら歩いて行きました。

福岡市博物館

何と言っても、この博物館には国宝・金印があります。

早速入館してみます。

金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。

金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。中国の歴史書『後漢書』には57年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるています。

金印が志賀島で発見された時の、福岡藩への口上書です。発見した百姓は甚兵衛という人物で、この人名がその昔早稲田大学の日本史の入試問題に出題されたとかいう話を聞いたことがあります。

福岡平野の古代国家の模型です。集落と甕棺墓を埋葬したところですね。

これはずいぶん時代が後になりますが、遣唐使船ですね。

博多といえば祇園山笠祭りです。

この金印はレプリカで、売店で購入できます。

かなり精緻なもののようです。

よくみると蛇の顔してますね。

福岡市博物館のそばに、「サザエさん発案の地」の碑がありました。

別日に志賀島を訪問してみました。

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Wikipediaより

志賀島は福岡県福岡市に属しています。実は完全な島でなく、「海の中道」という砂洲で本土と陸続きになっています。

砂洲とは、細長い砂の堆積構造のことです。天橋立をイメージするとわかりやすいかも。というわけで、陸続きの志賀島へは西鉄バスや、JR線などで行けてしまいます。今回はJR線を利用してみました。

西戸崎駅

博多から鹿児島本線で香椎駅まで、香椎で香椎線に乗り換え、西戸崎(さいとざき)駅まで行きます。西戸崎駅から西鉄バスに乗り換え金印公園を目指します。

金印海道という海岸沿いの道を走って行きます。志賀島付近のめちゃ狭い道!海が両側から迫る!

金印塚バス停です。

金印公園

ここが志賀島の金印公園です。

この地が金印発掘の地ではないかと推定され、公園となっています。

金印の碑です。

実物は福岡市博物館に展示されている国宝・金印。後漢書東夷伝によれば、西暦57年、日本の奴国の王が、漢の光武帝に与えられたとされていたが、その実物が江戸時代にここ志賀島で偶然発見されたのです。

誰もいない。寂しい公園だった。

でもこういう誰も来そうもない場所に来て悦に入る、ってのもいいもんですよね。

方位広場。志賀島中心に古代の東アジア秩序が一望できる。なるほど。

奴国は福岡平野にあり、志賀島は弥生時代当時は本土と繋がってなかったそうなんです。なぜ金印がこの島から出土したのか?謎は多いのです。

能古島(のこのしま)が見えました。

菜の花など花の名所らしいです。

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