北海道 稚内歴史巡り【稚内公園 氷雪の門】

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羽田空港

羽田を出発します。

稚内空港にANAでやって来ました。

稚内は普段はANAの便しかないみたいですけど、夏休みなど繁忙期にはもう一つどっかの会社の便もあるみたいです。 

稚内空港


空港から稚内駅前まで連絡バスが出ています。600円でした。

JR稚内駅

JRの稚内駅まで20〜30分で到着します。さあ着いたぞ。駅周辺を観光の拠点としていきたいと思います。

なんと最北端の線路が!面白いわ。


おお、薩摩半島の西大山駅と繋がるのか!実はGW中に西大山駅もぶらりと訪れており、意図したわけではないのですが、最北端と最南端を制覇していることに気づきました。

稚内のゆるキャラは「りんぞうくん」ですか〜。ご存知、間宮林蔵がモデルですね。お隣はロシア軍団かな?確かに樺太がすぐそばですからね。ロシア人との交流も多いんでしょうね〜。

南樺太はかつては日露戦争の戦勝により日本領でしたが、1951年のサンフランシスコ条約において、我が国は領有権を放棄しています。しかし、ロシア(当時はソ連)は同条約の締約国ではなく、国際法的にはロシアが領有権を保持しているとは言えません。ですから日本国内発行の地図では、北緯50度以南の樺太は、日本ともロシアとも違う色で塗られているのです。

(ただし最早ロシアは70年以上も実効支配していて、実質はロシア領サハリン州となっています。日本も領事館を置いています。悔しいですが。)

 稚内駅で「利尻昆布そば」をサクッと食ってみました。いきなり立ち食い。


利尻昆布は名産品です。立ち食いで急いだのは、バスツアーに参加するための集合時間が迫っていたからでした〜。

さて今回は宗谷バスの定期観光ツアーに参加してみました。稚内コースは14時発〜18時15分着のたっぷりの旅でした。3600円でしたが、ガイドさんの話も楽しく充実していましたよ!

北防波堤ドーム

バスはまず稚内港の北防波堤ドームへ。北海道遺産らしい。まず「稚泊航路(ちはくこうろ)記念碑」という碑が目につきました。

かつては稚内港から樺太の大泊(おおどまり)に定期航路便があったらしいですね。稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)という船便が出ていて、9時間くらいかかったとか。

当時の稚内港埠頭の写真です。

冬には砕氷船が出ていたらしいです。ここが桟橋で、樺太との物流拠点になっていたということですか。

 当時の樺太・大泊(現在はコルサコフと改称されてしまったようです)

なんか平和の鐘っぽいものがあって、みんなとりあえず鳴らしてました。


ヨーロッパの神殿みたいなアーチ状の防波堤で迫力あるわ。ギリシャかローマかって感じですねえ。

稚内の北埠頭が、旧樺太航路の発着場として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、1931年から1936年にかけ建設された防波堤なんですって!


高さ13.6m、総延長427m、柱の総数70本とのことです。この高さでも、冬の大波が越えてくることもあるんだって!津波かいな!

とにかくいい天気です。

稚内公園

さて次にバスは、一気に高台へと向かって行きます。まずは稚内公園内の、「稚内開基百年記念塔」へと向かいます。

稚内開基百年記念塔

1978年に稚内の開基100年を記念して建てられたとか。開基って意味がよくわからなくて、調べてみたんですが、和人が役場をおいたのが1879年でそこから100年目だということらしい。

地上80メートルの記念塔です。70メートルの高さのところに展望台があり、町を一望出来るようです。


記念塔前に謎の銅像がありました。

さあ、早速エレベーターで登ってみましょう。


展望塔からは遠く樺太(サハリン)が見えるそうです。水平線の彼方にぼんやりと見えるかな?私にはよくわからなかったけど。

野寒布(ノシャップ)岬が見えます。↓これは後に訪れることになります。

利尻島はさすがにすぐわかる。特徴は利尻富士という大きな山があることです。

北方記念館

記念塔の1階は「北方記念館」です。

伊能忠敬とその弟子である間宮林蔵の、偉大な師弟コンビから始まる、蝦夷地開拓の歴史を学ぶことが出来ます。

 有名な「伊能図」の稚内〜宗谷地域の地図ですね〜。この正確さにはいつも驚きます。


間宮林蔵の像もありました。


樺太が島であることを発見(間宮海峡と名付けられる)、カムチャッカ半島にまで渡った間宮の超人的な活躍は、吉村昭の名著「間宮林蔵」で知ることが出来ます。

間宮林蔵も、樺太からカムチャッカ半島の探検では、何度も危険な目にあってますね。カムチャッカでは現地民族に暴行・監禁され、殺害されかかっています。すごい冒険譚です。

北の人びとの暮らしや、北の生きものたちの剥製など楽しめました。

これは「寝棺」ですね。江戸時代の寛政の頃より、主に国防上の必要から、蝦夷地探検が盛んになります。しかし蝦夷の寒さは、防寒のノウハウを持たない和人にとっては脅威でした。(寒さにより全滅した探検隊もある)この棺桶の中に、まず笹の葉を敷き、次に熊の毛皮、布団にくるまり、蓋をして寝ていたとか。

様々な民具です。

 


北の生き物たち。何?この変な生き物。こんなヒグマいるの?

昔は日本にもオオカミがいたんですね。


これは展望台から降りてからの画像ですが、稚内公園自体が海抜240メートルの高台にあるので、雄大な景色を楽しむことができます。

あれはさっき行った北埠頭ドームだな。
 

氷雪の門

稚内公園の最も厳粛な場が「氷雪の門」です。大東亜戦争末期、当時日本領であった南樺太に日ソ中立条約をやぶったソ連軍が侵攻しました。

女性の像の向こうには、遠く樺太が望めます。
氷雪の門」は、その際に犠牲になった日本人の慰霊碑です。両側に高さ8mの門(望郷の門)があり、中央に2.4mの女性の像があります。


 女性の像については、上を向いた顔は戦争で受けた苦しみによる涙が溢れないように、手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったことを、足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを表しているとされています。札幌出身の彫刻家・本郷新氏によるものです。

九人の乙女の像

氷雪の門のすぐ側に「九人の乙女の像」があります。

1945年8月20日、樺太真岡へのソ連軍侵攻に際し、真岡郵便電信局にて連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうちの、9人が青酸カリなどを用い自決しました。

「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
有名な最期の言葉が刻まれています。この碑の乙女の顔も本郷新氏によるものです。

戦後、彼女らを英霊として顕彰しようとの機運が関係者・遺族の間に起こり、地元の樺太関係者と遺族の手によって「氷雪の門」と「九人の乙女の像」が建立され、ともに1963年8月20日に除幕されました映画「氷雪の門」として映画化もされている事件ですね。

しかしこの映画が上映公開された1974年、ソ連は「日ソ友好に反する」として上映中止の圧力を各方面からかけてきました。東宝も最終的にはそれに屈し、長い間幻の映画となっていた作品です。上映が再開されたのはなんと2010年のことでした。今は靖国神社の遊就館で、時々上映しているみたいですね。 

行幸啓記念碑 

1968年9月5日 昭和天皇と香淳皇后は稚内市を訪問し、氷雪の門と九人の乙女の像の前で深く頭を垂れました。

昭和天皇御製「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねせまりくる」
香淳皇后御歌「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」

天皇・皇后両陛下が行幸啓してくださったのは、乙女たちへの最高の手向けになったでしょうね・・と涙。

南極樺太犬の像」がありました。稚内は樺太犬の訓練場があったみたいっすね。

稚内南極祭り

 そのためか稚内の夏祭りは「稚内南極祭り」というみたい。

行った日にたまたま南極祭りで、大盛り上がりでした。

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