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長野駅から「川中島古戦場史跡公園」にやってきました。こちらはご存知、戦国大名の武田信玄VS上杉謙信の頂上決戦が行われた場所です。もともと「八幡原古戦場史跡公園」という名でしたが、2017年より現在の名称に変わりました。
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川中島古戦場史跡公園
アクセスはJR長野駅からアルピコ交通バス「古戦場経由松代」行き、「川中島古戦場」バス停下車すぐ。長野と松代という2つの観光地に挟まれるという恵まれたロケーションで、人気のある観光地です。
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永禄4年(1561)に武田・上杉両軍は、ここ川中島の八幡原で激突しました。全部で5回戦われた「川中島の戦い」のうち、最大の戦闘となったこの戦いは、一般に「第4次川中島の戦い」または「八幡原の戦い」と言われます。
越後・春日山を発った上杉軍1万3千は、まず信濃善光寺に後詰めとして5千を残す。残り8千は、武田兵3千が守る海津城(のちの松代城)をスルーして武田領深く進行し、妻女山に布陣する。これが永禄4年(1561)8月16日のこと。
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一方、甲府を発った武田本隊1万7千は8月24日に川中島に到着し、茶臼山に布陣した。(後に海津城に移動する) 必勝を期した信玄は、甲州・駿河国境の兵力も含めほぼ全兵力を動員したと言われる。
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以後、両軍は膠着状態になるが、9月9日に行われた武田軍軍議で、山本勘助から「啄木鳥戦法」の献策が出され、戦局は動き始める。その戦法とは、武田軍を2つに分けて、別働隊1万2千が霧の夜を利用して妻女山を奇襲し、上杉軍にパニックを起こさせ、ふもとの八幡原へと逃げさせる。→そこには信玄の本隊8千が待ち受け、それを殲滅する、という手はずであった。決戦は9月10日未明。
しかし敵もさるもの。上杉軍は武田別働隊の襲撃の前に、妻女山を秘かに下山していた。妻女山はもぬけのからであった。翌朝午前8時、霧が晴れた八幡原に上杉軍が突如出現し、武田本隊は驚愕する。上杉軍は車懸かりの陣を張り、武田軍に猛攻撃を加える。武田は防戦一方となってしまい、山本勘助や、信玄の弟・武田典厩信繁までもが討死する事態となる。
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乱戦の中、手薄になった信玄本陣に謙信が切り込みをかける。謙信は三太刀切りつけ、信玄は軍配でこれを受け止める。戦国最高の名場面である。
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午前10時ごろ、妻女山から急行していた武田別働隊が八幡原に到着、形勢は逆転する。不利を悟った上杉軍は善光寺へと退却し、戦国最大の名勝負は終わった。
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打ち掛かっている右が上杉謙信、軍配で受け止めようとしている左が武田信玄です。
武田の家臣・高坂弾正が、約6000と言われる合戦の亡骸を敵味方の別なく埋葬したと伝わる「首塚」の一つです。
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これを知った敵将・上杉謙信はいたく感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「我信玄と戦うも、それは弓矢であり、魚塩あらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたとされます。この美談が「敵に塩を送る」という言葉のもとになったとか。
「執念の岩」と言われる岩。信玄・謙信一騎討ちの際に、武田家臣の原大隈は馬上の謙信向けて、槍を突き出しましたが惜しくも逸れて、打ち損じました。原大隈は、傍らの岩を槍で突いて悔しがったとされます。
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謙信は信玄に向けて三回太刀を振り下ろし、信玄はそれを軍配で受け止めました。後で軍配を調べると、七つもの刀跡があったそうな。この一騎打ちの跡を「三太刀七太刀之跡」と言います。
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川中島古戦場史跡公園には、「長野市立博物館」もあります。川中島の戦いに関する展示も少しありました。
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ま、時間も遅かったんで、20〜30分程度ふらついてみました。
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史跡公園はなかなか爽やかで、市民の憩いになっているようでした。
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幕末の先駆者・佐久間象山の銅像もありました。勝海舟や坂本龍馬にも影響を与えた英才です。
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