神戸を散策しています。住吉川と六甲ライナー沿いに10分くらい北上すると、倚松庵(いしょうあん)に到着しました。
倚松庵
倚松庵は、文豪谷崎潤一郎の旧居です。ここで執筆された代表作にちなんで「細雪の家」とも呼ばれています。庵号は夫人の名前「松子」さんからとられています。
谷崎は1936年11月から1943年11月までここに居住しました。
実際はもっと南に立地していたそうですが、都市計画で平成の初めに現在の位置に移築したそうです。
引っ越し好きの谷崎にしては最も気に入っていた家のようで、7年も住み、出来ればずっと住みたかった家のようでした。
最後は大家の都合で退去を命じられているのですが、なかなかその指示に従わず抵抗したり、増築代を支払わせることに執着したり、かなり愛着があったようですね。
さあ入館していきます。
この額の字は、谷崎の(三番目の)奥さんの松子さんの字らしいですね。
まず1階の応接間(洋間)は、細雪の家族が最も長い時間を過ごす部屋です。
暖炉があるんだよねえ。
応接間の向こうに食堂があります。
この食卓は実際に谷崎家の人々が使用していたものだそうです。
食堂のさらに奥に、「西の部屋」があります。西の部屋は和室です。「細雪」の三姉妹は夏の間、この部屋に涼を求めに来ます。
和室から見た庭です。「テーブルに庭の風景が映って、これがええんよ」と、管理の女性に言われて、その方の演出に従って、私がテーブルも運ばされて写した1枚ですw
下手な素人写真ですが「ちゃんと撮れてたら送って」とお願いされてしまったので拙い写真で恥ずかしいんですが、送ることにしました。
後日、お礼のお手紙をいただきました。実はこの旅行の2日後に「台風21号」が関西を襲うことになります。大変心配していたんですが、大事はなかったとのことで、安心しました。
庭から家屋を眺めてみました。
廊下です。
お風呂。五右衛門風呂ですね。
妙子(こいさん)がラジオを聴くために、戸を開けっ放しにしながら入っていたお風呂ですね。
台所です。
奥は女中部屋ですが、今は管理人室として使われています。女中は数人いたのに、3畳の狭さですから、夏場になるとみんな胸まではだけてパタパタやっていたとか。おおらかですね。
電話もある。さすがです。なんでもある。
いよいよ二階へ!
まずは「幸子の部屋」(『細雪』に登場する次女・幸子のモデル=松子夫人の部屋)です。市川崑版では佐久間良子が演じてました。
「細雪」の冒頭のシーンはこの部屋から始まります。
「こいさん、頼むわ。―――」
鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、
「雪子ちゃん下で何してる」
と、幸子はきいた。
隣が「悦子の部屋」です。悦子は幸子と夫・貞之助の娘ですね。谷崎の著作の初版本や、阪神大水害などについての展示がありました。
「阪神大水害」とは、1938年7月3~5日、六甲山系の豪雨が土石流を引き起こし、約700人の死亡・行方不明者を出した大事件でした。
「細雪」の作中で、「阪神大水害」の様子が描かれていますが、この倚松庵は無事だったようです。
倚松庵の管理の女性の方から色々話を聞いたのですが、谷崎という人は、抜け目がないというか、慎重というか、安全な立地をちゃんと調べた上で、この家を借りたそうです。
外国語版も出てるようですね。
様々な書簡ですね。
2階いちばん奥が「こいさんの部屋」です。
移築前の屋根瓦だそうです。
棟方志功の挿絵が味があったよなあ。
「細雪」の世界を存分に堪能しました!また読み返してみたくなりましたね。お土産にうちわをいただきました。
倚松庵を出て、住吉駅に戻ります。東灘区区役所前で「祈りと復興」のブロンズ像を発見しました。
1995年の阪神淡路大震災では、この東灘区を震度7の大地震が襲いました。
1400名以上の死者を出すという悪夢から、復興を遂げたのです。
味わい深い神戸・灘周辺でした。さて住吉駅を離れ、いったん三宮に戻ります。
で、神戸といえば「有馬温泉」ですね。行ったことはなかったので、今回初めて行ってみることにしました。
三宮から市営地下鉄に乗って、谷上駅で神戸電鉄有馬線に乗り換えです。
谷上で乗り換えます。
有馬温泉駅まで30分くらいで着けた。
有馬温泉
まずは温泉街を散策します。太閤橋です。太閤とはもちろん豊臣秀吉のこと。
有馬川の流れが変な形で区切られてますが、これはひょうたんの形ですね。
千成瓢箪が秀吉の馬印でした。
ここはゆけむり広場というところです。ここにありました。豊臣秀吉像。
有馬温泉は「日本書紀」の昔から名湯として知られていましたが、長く続いた戦国時代に荒廃してしまいました。
それを再興したのが、豊臣秀吉だったのです。1583年に秀吉は有馬を訪れ、長らく続いた戦で疲れた心身を、天下に名高い有馬の名湯で癒そうとしたそうです。その後も秀吉は再三有馬を訪れており、有馬に対してさまざまな援助を行っています。
この橋は「ねね橋」といいます。
ねねとは秀吉正室・北政所の事です。
温泉街を進んでいきます。土産物屋が並ぶこの通りは太閤通りといいます。
金の湯
有馬温泉の名湯といえば、「金の湯」ですね。
太閤泉です。金の湯の前にありました。飲料泉らしい。
金の湯はオレンジ色で、濁っていて、身体はまったく見えません。含鉄ナトリウム塩化物強塩高温とのこと。よくわからんが、腰痛にも効くらしい。44度のあつ湯浴槽と、42度のぬる湯浴槽がありました。
「金の湯」のあとは、石段登って「銀の湯」に向かうのが定番です。
これは行基像です。行基は奈良時代の高僧で、有馬に温泉寺を建立したとあります。
極楽寺です。594年聖徳太子によって創建されたと伝えられます。1996年発掘調査の過程で、豊臣秀吉の湯山御殿跡が発見されたそうです。
太閤秀吉の碑もつくられています。
念仏寺です。秀吉の正室・北政所の別荘跡と伝えられます。
銀の湯
「銀の湯」です。温泉街からは少し離れた場所にあります。銀の湯は炭酸泉とラジウム泉の混合だって。無色透明で普通のお湯かよ、と思いましたが、温泉なんだって。
「銀の湯」と「金の湯」の両館共通利用券もありました。大変いいお湯だったです。
御所泉源です。金泉はここから供給されているらしいですね。
帰りはバスで新神戸まで直行。そのまま新幹線で帰ってきました。
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