長野市松代にやってきました。
松代は人気のある大名・真田氏の城下町として知られます。有名な真田幸村(左衛門佐信繁)のお兄さんの真田信之(伊豆守信之)が、1622年に上田から松代10万石に移封され、その後、松代藩は真田家によって10代約250年の間治められ、明治維新を迎えることになります。
旧松代駅
旧松代駅前に着きました。2012年に長野電鉄屋代線が廃線となり、松代駅も廃駅となりました。駅の残骸?もひなびた感じで、なかなか良い感じ。
これは「小松姫」のキャラかw 小松殿は、前出の真田信之の正室であり、女傑としても歴史ドラマではお馴染み。
何気なく入った蕎麦屋さんの階段に「真田太平記」のポスターが飾ってあったw 懐かしいです。
真田宝物館
「真田宝物館」にやってきました。隣接の「真田邸」「文武学校」と3施設共通券で見学できます。バス停「松代駅」から徒歩3分くらいのところにあります。
真田宝物館は真田家に伝わる大名道具の収蔵・展示しています。1966年に12代当主・真田幸治氏から伝来の道具類が松代に一括で譲られ、これを契機に開館しました。撮影禁止のため、外観だけお伝えします。展示内容は、古文書・武具・婚礼道具など様々でした。
真田邸
真田宝物館と隣接して「真田邸」があります。
真田邸は江戸時代は「新御殿」と呼ばれていました。1862年に参勤交代が緩和され、藩主の妻子が国許に帰ることが許されたため、9代藩主・幸教は義母の貞松院に新しく御殿を建て住まいとしました。
しかし、翌年の1月、朝令暮改で参勤交代の制度が旧に復すると、すぐに江戸に戻されました。その後、真田邸は藩主の座を退いた幸教の私邸(隠居所)として使われます。
全国でも数少ない御殿建築の遺構と言われます。
昭和に入り、松代城の「附(つけたり)」として、国の史跡指定を受けています。
大河ドラマ「真田丸」で使われた真田信之の名乗りですね。
文武学校
真田宝物館、真田邸と隣接して「文武学校」があります。
藩士の子弟の学問・武芸の奨励のため、8代藩主・真田幸貫(ゆきつら・白河藩から養子・松平定信の息子である)は、藩士の佐久間象山の意見を受けて、蘭学や西洋砲術などを積極的に取り入れた、藩校としての「文武学校」の建設を目指しました。
剣術所です。
教室である「東序」です。向かいに「西序」もあります。
ここでは8歳から14歳までは文芸を、15歳以上は武芸を習ったと言われます。明治の廃藩置県後は近代の学校として使われ、松代小学校の校舎にもなりました。
中心になる「文学所」です。
藩主・真田公への講義も行われました。
弓術所です。
槍術所です。
柔術所です。
開設当時のままの藩校を、完全な形で保存している全国でも貴重な施設です。
松代城
「松代城跡」にやってきました。バス停「松代駅」から徒歩5分の位置にあります。
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信と「川中島の戦い」を戦った際に、武田方の前進基地として築かれた「海津城」がその始まりと言われます。
永禄3年(1560)頃に普請は完成したと言われます。1622年に真田信之が上田より移封されて以降、松代藩真田10万石の居城となりました。
1872年に廃城となり、石垣などが残るだけでした。(ちなみに廃城の際の、城地・武器の受け取りに当たったのはのちの陸軍大将・乃木希典です)
1981年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。現在の櫓や木橋、土塁などは2004年に復元されたものです。(平成の大普請)
海津城址の碑がありました。
現在の姿は江戸時代後期に近い姿で復元されていると言います。
松代象山地下壕
大東亜戦争末期、本土決戦の拠点として、極秘のうちに大本営、政府各省をこの地に移すという計画が立てられました。(善光寺平遷都)
いわゆる「松代大本営」の名で知られる地下壕群は、1944年11月11日から翌年の終戦の日まで、およそ9ヶ月の間に建設され、全工程の約8割が完成していました。
戦後は忘れ去られていましたが、1980年代に調査と保存運動が進められた結果、貴重な戦争遺跡として1989年から壕の一部が公開されています。見学料は無料!
もうひとつの歴史館・松代
松代の地下壕は象山地下壕(イ地区)、舞鶴地下壕(ロ地区)、皆神山地下壕(ハ地区)の三箇所が建設されました。現在見学できるのは象山地下壕(イ地区)の約500メートルの区間です。
いよいよ地下壕に入ります。安全のため、ヘルメットを必ず着用します!すごい!
総延長は6㎞で、政府官庁の一部とNHKラジオ、中央電話局(現在のNTT)が入る予定でした。
ちなみに舞鶴地下壕(ロ地区)は、大本営と天皇御座所、宮内省が入る予定で、現在は気象庁の精密地震観測室として使われています。皆神山地下壕(ハ地区)は倉庫として使う予定でした。
中はめちゃ涼しいというか、寒いぐらいだった。
ちなみに昭和天皇は、この「善光寺平遷都」には反対のご意向であったそうです。「自分は帝都を離れない。国民と苦労を共にする」と仰せられたそうな。
先読みの鋭い昭和天皇のことですから、「自分があえて東京を離れないことによって、陸軍に本土決戦をさせない」くらいのことはお考えになられたのではないかと思っています。
山寺常山邸
山寺常山(やまでらじょうざん)は幕末の松代藩の中級武士で、佐久間象山や鎌原桐山とともに「松代の三山」と称えられた人物だそうです。
「山寺常山邸」は江戸末期から明治初期に建てられた「表門」と、大正~昭和初期に建てられた「書院」が残されています。
まったく知識も期待もないまま、なんとなく入館したんですが・・・。
これがいい味出してるんですよ。
なかなかいいですよね?
書院いいです!
象山神社
幕末の先駆者・佐久間象山を御祭神とします。「象山神社」は1938年に創建されました。知恵の神・学問の神とされます。
佐久間象山は1811年に松代藩士・佐久間一学の長男として生まれ、幼い頃から学問・武術に親しみ、松代藩きっての秀才として知られるようになります。
漢学・蘭学・砲術・科学、あらゆる分野で卓越した才能を発揮し、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬・橋本左内・河井継之助・山本覚馬(新島八重の兄)など維新の英才に教えを説きます。
54歳の時、幕府の命で京都に上り、活躍するも、尊王攘夷派に暗殺され、非業の死を遂げます。人格的にはやや傲岸不遜なところがあり、人と衝突することも度々であったらしい。(有名なのは江川太郎左衛門との喧嘩別れか)しかし、学識・見識はずば抜けており、横浜開港も象山の進言によるものとか。
蟄居中の象山は来客があると、この「高義亭(こうぎてい)」で応対したそうな。
高杉晋作・久坂玄瑞・中岡慎太郎などが面会に松代を訪れています。
佐久間象山の生誕の地らしい。礎石の一部と古井戸が残っています。
象山記念館
佐久間象山の遺品を公開するため、1965年に作られました。
象山は日本で初めて電信通報の実験に成功したと言われます。その当時使われたと考えられる指示型電信機の模型です。
佐久間象山が電信通報の実験を行ったとされる「旧松代藩鐘楼」です。
松代駅から徒歩5分の松代総合病院の東の道路脇にあります。
象山は1849年に、この鐘楼から「サ、ク、マ、シュ、リ」と発信し、約70メートル離れた藩屋敷で受信に成功しました。ペリーがモールス信号を伝える4年前に、象山は電信に成功していたのでした。
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