松山巡り【道後温泉、正岡子規、坂の上の雲】

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JR松山駅

松山は文学の町として知られます。松山出身の文学者としては、正岡子規が有名ですね。

「春や昔 十五万石の城下哉」

道後温泉

市電を使ってまずは「道後温泉」つかりにいきます!

これが「道後温泉」駅。風情がある駅舎やね。

駅前に機関車が?「坊ちゃん列車」ですね。

松山は、夏目漱石「坊ちゃん」の舞台にもなりました。

「坊ちゃんカラクリ時計」がありました。

坊ちゃんのキャラクターがいろいろ出てきますね。

足湯もあったで。

「正岡子規」の像です。なぜか野球のユニホーム?

子規は学生時代、ベースボールに夢中になっていました。

子規は本名「昇(のぼる)」といいますが、「野球(の・ボール)」というペンネームを用いたと言われます。「打者」「走者」「直球」などの訳語を作ったのも子規だそうですね。

さあ、「道後温泉」が見えてきました。

道後温泉は「風土記」にも紹介される、日本でも最も古い温泉の一つです。もちろん「坊ちゃん」にも登場します。

「道後温泉本館」は明治から大正にかけて建築されました。

とりあえずこの時も入浴したような気がします。(もう覚えてない) 道後温泉のHPから拾い画像。坊ちゃんがつかった「神の湯」です。

2階の休憩所。ケチって行かなかった記憶があります。

「聖徳太子・道後温泉碑」です。596年に聖徳太子も温泉に来たそうですね?

さて一夜明けて、松山市内を観光していきます。

秋山兄弟生誕地

松山出身の帝国陸海軍人・秋山好古秋山真之兄弟の生家を復元したものです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公となったことで、全国的に知名度が上がりました。

こちらが兄の秋山好古陸軍大将。

フランスに留学し、日本陸軍騎兵の父となります。

最大の戦功は、日露戦争において世界最強と言われたロシア・コサック騎兵を打ち破ったことですね。

こちらは弟の秋山真之海軍中将です。

連合艦隊先任参謀として、ロシア・バルチック艦隊を日本海海戦にて葬り去りました。

見つめ合う兄弟像。いい構図です。

兄弟そろって、日露戦争の戦勝に大きく貢献しました。

この生家は設計図がなくなっていたのですが、写真や遺族の証言などから復元されたものです。

秋山兄弟に関する貴重な資料が展示されます。

ボランティアの方々が、懇切丁寧に説明してくださいますよ。

弟の真之は大学予備門(現在の東大教養学部)に進むほどの秀才でしたが、貧しかったため路線を変更して、海軍兵学校に入学。「帝国海軍の頭脳」と言われるほどの知将に成長します。

兄・好古は陸軍を予備役になった後は、松山に戻り北予中学校(現在の松山北高)の校長となりました。

生誕地には「武道場」が設けられ、今も郷土の若者たちが、柔道と合気道を学びに来ます。

北庭には「秋山両将遺邸の碑」があります。お庭には好古が好んだイチジク・ざくろ・キンカンなどが植えてあります。

「秋山兄弟産湯の井戸」です。江戸時代から同じ場所にある井戸です。今も使える。

松山城

松山城へロープウェイで上がっていきたいと思います。

ロープウェイ乗り場のビルは、秋山兄弟!

坊っちゃんと記念撮影もできる。

マドンナたちが出迎えてくれます。

正岡のぼさんと、秋山兄弟です。

ロープウエイで出発します。約3分でお城の本丸まで行けます。

ちなみにリフトもあります。

石垣が見えてきました。

松山城名物の「登り石垣」です。

「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている」(「坂の上の雲」より)

重文「隱門」です。

「太鼓門」です。

これから松山城・天守に向かっていきます。

中央は大天守です。大天守は江戸時代に建築された「現存十二天守」の一つです。

一ノ門です。

二ノ門です。

三ノ門です。

筋鉄(すじがね)門東塀です。

ここから鉄砲をうちかけるんですね。

筋鉄(すじがね)門です。昭和のはじめに放火で焼失したのを復元したものだとか。

小天守も放火で焼失したものの復元です。連続放火魔による犯行で、のち捕らえられて死刑になっています。

さあ、いよいよ天守に侵入していきます。

「狭間」や・・

「石落とし」は当然ありますね。

松山城は関ヶ原の戦いで加増され、松山領主になった加藤嘉明によって築城されました。

その後、蒲生家、久松松平家と領主を変え、明治を迎えます。

展望層から松山市街を見てみましょう。

春や昔 十五万石の城下哉

雄大ですねえ。

帰りはリフトで行ってみよう。

松山城周辺を散策していきます。

萬翠荘(ばんすいそう)

国指定の重要文化財になっています。

「愛松亭」跡とあります。愛松亭とは、夏目漱石が旧制松山中学校の英語教師として赴任した際に、下宿したところ。つまり「坊っちゃん」の舞台なんですね。

漱石の書簡が碑文になってます。愛松亭から東京の恩師に宛てて着任の報告をした書簡だそうです。

さあ、萬翠荘!見えてきました。

萬翠荘は、1922年に旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が、別邸として建設したものです。

陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風建築で、当時の名士たちの社交の場として利用されました。

さあ、入館していきます。

踊り場のステンドグラスは、久松定謨がフランス・サンシール陸軍士官学校に入校するための渡航をイメージしているとも考えられます。この時、松山藩出身の陸軍士官・秋山好古が随行しています。

これが久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵。当時の帝国陸軍の主流派はドイツに留学していましたが、松山藩は戊辰戦争の「賊軍」とされたため、久松伯はフランスに行くしかなかったようです。

お!この肖像は?

昭和天皇ですね。

こちらは若き日の昭和天皇。摂政宮時代ですね。1922年の松山訪問の際、こちらに滞在されたそうです。

バルコニーに出てみました。

さてそのまま「坂の上の雲ミュージアム」の裏口に入れます。

坂の上の雲ミュージアム

明治陸軍の軍馬の高さを体験できます。久松定謨のフランス留学に随行した秋山好古は、主流派から外れた形になりましたが、どっこいフランスの優秀な騎兵システムを学び、帰国後は騎兵の第一人者となります。

広々とした館内をスロープでまわっていきます。モダンですねえ。安藤忠雄の設計らしい。

??これは「坂の上の雲」が連載されていた当時の産経新聞。

すごい量ですね。文春文庫8冊分だからなあ。

正岡子規の系図です。「坂の上の雲」には序盤、子規も準主役で登場します。

こちらは秋山家の系図です。

秋山真之と正岡子規は学友。松山中学校、東大予備門でともに学び、一時は同居していたこともあります。

「のぼさん(正岡昇)」「じゅんさん(秋山淳五郎)」の仲だったんですね。

また出たw のぼさんの野球姿。

愛媛県庁です。

松山城二ノ丸史跡庭園

林泉庭の上に「勝山亭」があります。

松山市立子規記念博物館

34歳の若さで早世した子規の生涯を、様々な展示で紹介します。

愚陀佛庵です。夏目漱石が英語教師として松山中学校に赴任した際、下宿していた上野家の離れを当時の雰囲気そのままに復元したものです。

正岡子規が療養のために居候し、1階に正岡子規、2階に夏目漱石が住み、52日間共に過ごし、俳句づくりに没頭しました。

もともとは萬翠荘の裏手に復元されていましたが、2010年に松山を襲った記録的豪雨で全壊してしまいました。

今は1階の一部が、子規記念博物館に復元されているのみ。

これが全壊前の「愚陀仏庵」です。

松山もなかなか見どころたっぷりの街でしたね。

坊っちゃん列車です。

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