長崎市巡り【平和公園、大浦天主堂】

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長崎平和公園

長崎平和公園にやってきました。松山町電停(現在は「平和公園」電停に改称)のすぐそばにありました。

平和公園は、原子爆弾の爆心地とその周辺地域に作られています。地図を見ると長崎市内の中心地ではないんですね。

米軍は当初は小倉を爆撃予定でしたが、当日の8月9日は雲がかかっていて、攻撃目標を長崎に変更しました。

当日は8月7とか8日で、祈念式典の直前で大わらわの雰囲気でした。

平和教育として見学に来る学校もたくさんあるようですね。

有名な平和祈念像です。

各国から寄贈された様々なモニュメントがあります。

浦上天主堂の遺構がありました。

爆心中心地です。

毎年8月9日には平和祈念式典が開催されます。

楽しげな子供達。子供達の笑顔を守るために、日本への核攻撃を二度とさせないよう努力していかなければなりません。

平和公園内・松山町防空壕跡です。

戦後、アメリカ軍は壕内の被害程度を調査し、核シェルター造りの参考にしたそうですね。

広島でも長崎でも、アメリカは原爆に関するあらゆる調査データを本国に持ち帰っています。

浦上天主堂

浦上天主堂にやってきました。平和公園から徒歩10分くらいで着きます。


石垣の上に建っていました。

1925年に完成し、当時は「東洋一の教会」と言われました。

いきなりすごいものが。「拷問石」です。明治のはじめ、キリシタンたちに改宗を迫って、この石に座らせて拷問をしたのです。

明治維新になってキリスト教は解禁になったイメージがありますが、そんなことは全然なく、民衆には「一揆とキリスト教の禁教」が厳しく宣せられました。むしろ長崎では明治になってからの方が弾圧が厳しくなった風潮があります。これを「浦上崩れ」といいます。

浦上天主堂は原爆遺構として知られます。1945年8月9日アメリカ軍は長崎市を原子爆弾で爆撃。浦上地区上空で爆発し、浦上天主堂は崩壊しました。

長崎市は広島市の原爆ドームのように被害を保存する方針はとらず、浦上天主堂は戦後再建されました。

しかし、遺された幾つかの原爆遺構からも、核兵器の凄まじい破壊力をうかがうことができます。

天主堂の旧鐘楼です。

被爆した像。

そしてこれが被爆マリア像です。木製のマリア像で原爆のため消失したと思われていましたが、頭部が瓦礫の中から発見されました。

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ポストカード撮影です。

天主堂そばの公園に名曲「長崎の鐘」の音符が刻まれてましたね。原爆で妻を亡くして、自分も病に倒れた永井隆博士が随筆「長崎の鐘」を書き、1949年にベストセラーになりました。翌年、同名の歌謡曲も大ヒットしたのです。

国宝・大浦天主堂

大浦天主堂は、長崎市のカトリック教会で、幕末の1865年に建立されたわが国現存最古のキリスト教建築です。

天主堂建築に尽力したフランス出身の宣教師・プティジャン像です。

プティジャンは、「信徒発見」の歴史的場面に立ち会ったことで知られます。

幕末に大浦天主堂が築造されると、近くに住む日本人たちが「フランス寺」と呼び、見物に訪れるようになりました

1865年のある日、15人ほどの男女が教会を訪れました。その中のひとりの女性がプティジャンに近づき、「私たちの信仰はあなたの信仰と同じです」とつぶやきました。彼らは幕府による禁教260年7世代もの間、キリスト教の信仰を守っていた潜伏キリシタンだったのです。プティジャンは大変驚き、喜びました。これはローマ教皇にも伝えられ、「東洋の奇蹟」とされました。

わざわざ漢字で「天主堂」と表記したのは、信徒来訪または布教を期待していたからと言われます。

ローマ教皇ヨハネパウロ二世の像です。1982年の訪日を記念しての像です。

大浦天主堂は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして、2018年7月に世界文化遺産に登録されました。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教が禁じられている中で、長崎と天草地方において、信仰を続けた潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統のあかしとなる遺産群です。

隣接する資料館では、禁教時代の様々な物品を見ることができます。

踏み絵ですね。これを踏ませて、信者かどうかチェックしたという。

これがマリア観音。

キリシタン禁制の高札です。これが明治時代に出されたものだということが驚きでした。

明治になってもすぐキリスト教は解禁にならず、信徒は流刑になったりしてたんですね。

引き続いて長崎市内の唐人屋敷跡を巡ってみたいと思います。まず中華街を通っていきます。

長崎では鎖国中であった江戸時代においても、オランダと清だけは貿易が行われていました。

現在もチャイナタウンが栄えているようです。

唐人屋敷跡

唐人屋敷とは、江戸時代に貿易のために来日した中国人たちの居留地のことです。この区域を竹矢来で囲み、出入り口には番所も設けられ、行動は制限・監視されていました。この区域には一度に2000〜3000人の中国人を収容できたそうです。

土神(どじん)堂です。土の神を祀ったお堂だとか。

何度も焼失したり復元したりを繰り返して、現在のものは1977年の再建です。

次は天后(てんこう)堂です。南京地方の人々が航海安全を祈願して「天后聖母」を祀ったのが起源だとか。

現在のものは1906年に改築されたものです。

次は観音堂へと向かいます。

現在の建物は1917年に改築されたものです。

観世音菩薩と開帝が祀られています。

次は福建会館へと向かいます。

1897年に建てられました。これが正門です。

本館は原爆により倒壊しましたが、現存する天后堂及び正門は、市指定文化財に指定されているとか。これが天后堂です。

境内には孫文の像が建てられています。

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