堺市巡り【大仙古墳、千利休、与謝野晶子】

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目次

南海堺駅

大阪は堺市にやってきました。

大阪のもう一つの政令指定都市であり、長い歴史と文化を誇る由緒ある町でもあります。

これはフェニックス・アーチというモニュメントです。

堺には「フェニックス通り」もあった。大阪夏の陣の際、堺は焼き払われており、そこから不死鳥のように蘇ったことに由来しているのだとか。

南海電車の堺駅周辺を観光の拠点にしました。

駅前のおかんの像は・・?

堺出身の歌人・与謝野晶子の像です。

堺アルフォンス・ミュシャ館

JR堺市駅の近くにあります。南海の駅前からバスで移動しました。

堺市が所蔵するミュシャの関連作品約500点は土居君雄氏が収集したものです。

土居君雄氏とは「カメラのドイ」の創設者です。ミュシャの紹介者として、チェコから文化勲章をもらっているようです。

堺アルフォンス・ミュシャ館では、ミュシャの初期から晩年期にまでわたる作品を展示しています。

館内は撮影禁止でした。

ミュシャ・エレベーター。

過去の特集のポスターなどは写せました。

サラ・ベルナールなどミュシャ作品を間近で堪能できたので満足でした。

今なおミュシャは世界中の人々を魅了しています。

お土産に好きな「JOB」のポスターを買いました。

さて翌日、堺市内を観光していきます。

堺駅そばをうろちょろしていると、南蛮橋を発見。

このおっさんはパードレ?

パードレとはカトリックの神父。

堺は戦国時代に南蛮貿易の中心地として栄えた歴史があります。

千利休・屋敷跡

千利休の屋敷跡を発見しました。

千利休は1522年、堺の豪商の長男・与四郎として生まれました。武野紹鴎に師事し、わび茶を大成させました。

椿の井戸です。

利休は茶の湯をもって織田信長に接近し、その死後は豊臣秀吉の茶頭として仕えながら天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、後に秀吉の怒りにふれ自刃しました。

実際には利休の屋敷はこの10倍もあったそうですね。堺の町は大坂夏の陣の際にすべて焼き払われ、いったん失われているのです。

与謝野晶子・生家跡

与謝野晶子の生家跡を発見しました。

与謝野晶子は堺の菓子商駿河屋の三女として生まれてから、歌人・与謝野鉄幹に出会い家を出るまで堺ですごしました。

明治・大正・昭和を短歌とともに生き「情熱の歌人」と呼ばれ、11人の子どもたちの母でもありました。

海恋し潮の遠鳴り数えては少女(おとめ)となりし父母の家

さかい利晶の杜

与謝野晶子と千利休の博物館がありました。

1Fは千利休のコーナーです。

オランダ船リーフデ号10分の1推定復元模型です。

1600年この船は豊後の臼杵に漂着。船員のウィリアム・アダムズとヤン・ヨーステンが徳川家康の外交顧問となります。

10分の1?この大きさの10倍程度の船でよく外洋を渡って来れましたね!

なぜ堺にリーフデ号が出てくるのか分からんが、戦国時代に南蛮人紅毛人の来航は文化的に大きかったということか?

利休の茶室(堺 今市屋敷四畳半)

床部分の再現です。

利休の茶室(京 聚楽屋敷四畳半)

秀吉が造営した聚楽第付近の周辺屋敷の茶室再現です。

利休の料理・菓子の再現

天正十八年茶会における料理の再現です。

2Fは与謝野晶子コーナーです。

日露戦争反戦の「君死にたもうことなかれ」は最も有名な作品です。大阪歩兵第8連隊の一員として、日露戦争に従軍した弟を心配して歌われています。

晶子の孫の政治家・与謝野馨氏が自民党を裏切り、民主党内閣の大臣になったときに「君、裏切りたもうことなかれ」と言われてて笑った。

ただし晶子はゴリゴリの反戦論者ではありませんでした。後の大正・昭和の戦争では戦意を鼓舞するような作品を歌ったりもしています。

晶子の書斎の再現

愛用の品々の複製です。

晶子作品の装丁

「みだれ髪」の装丁は藤島武二が担当しました。アール・ヌーヴォーの影響が大きい。

「恋衣」

「常夏」

「青海波」

「夢の華」

パリの空気にも触れ、女性権利拡張運動に賛同するなど「進んだ女」だった晶子らしいハイカラぶりです。

晶子生家「駿河屋」の再現

羊羹で有名な和菓子屋でした。

1945年の堺大空襲で全焼したそうですが。

この家が「少女となりし父母の家」なのです。

まあまあ良かったです。

山口家住宅

 歴史ある堺の町家建築を見学していきます。

山口家住宅の主屋は1615年、大坂夏の陣の戦火により市街地が全焼した直後に建てられました。

豪商の町らしい。

国内でも現存する数少ない江戸初期の町家のひとつとして1966年に国の重要文化財に指定されています。

堺の町家暮らしの雰囲気を今日に伝える、全国的にも極めて貴重な民家です。

ボランティアガイドのおじさんが詳しく説明してくれます。

ミュシャ手拭い!

江戸時代には「京の着倒れ。大坂の食い倒れ」とともに、「堺の建て倒れ」と例えられたように、堺衆は建物に贅を凝らしたといわれていますが、この建物はその名残りを示すひとつです。

お庭も味がありました。

一枚板ですね!まさに建て倒れ。

 次は妙国寺に行きます。ボランティアガイドのおじさんに「妙国寺見たか?見とけ!」と言われたので行ってみることにしました。

妙国寺

妙国寺は本能寺の変の時に、徳川家康が逗留していたそうです。

家康は明智の追手を逃れて、神君伊賀越えをしていきます。

妙国寺は1562年、日蓮宗の学僧日珖が開いたとされ、境内には樹齢1100年を超えるソテツが見られます。

蘇鉄の枯山水も見れるそうです。

拝観しませんでしたが。

堺事件の殉難者の墓です。

1868年、堺港に上陸してきたフランス兵に対し、堺の警固にあたっていた土佐藩士が阻止しようとしてフランス人22名を殺傷したのが堺事件です。

土佐藩士11名が責任をとって切腹した地としても有名です。土佐藩士の壮絶な切腹を見て、フランス人たちは圧倒され切腹を途中でやめさせました。

大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)

堺駅からのルートですが、バスの直行便すらありませんでした。

「せっかく世界遺産になったのになんで公共交通機関の一つも整備しないのか?」と観光案内所で疑問を呈したところ、去年までは直通バスを用意していたらしいのですが、まるきり利用者がいなくて廃止になったようです。

仕方ないので猛暑の中、レンタサイクルを利用することにしました。

ここから拝所です。

クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓ですね。5世紀中ごろの築造とされ、全長約486mの日本最大の前方後円墳と言われます。

仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。

墳丘は全長約486m、高さ約35mの規模で3段に築成されています。

せっかくチャリをレンタしたので、一周していきましょう。

ひたすら森とお堀が続く。

普段は堺市役所展望ロビーで上から眺められるのですが、今は閉鎖中でした。

ジョギングする人がいるのは皇居と同じですね。

ぐるり一周戻ってきました。

ここから大仙古墳の南の「大仙公園」に入っていきます。

堺市博物館

大仙公園内の堺市博物館を見学していきます。

これは明治5年に大仙古墳で発掘された長持型石棺の複製です。

これは同じ年に発掘された金銅製甲冑の複製です。

これらは渡来人のもたらした技術で焼かれた須恵器です。

古墳に葺石を置く様子。

古墳には埴輪が置かれていました。

堺といえば、鉄砲の生産が盛んでした。

これは堺商人の店構えです。

商都であった堺は硝石など必要な物資を入手しやすかったため、鉄砲づくりが盛んになりました。

これらが百舌鳥古墳群の俯瞰画像です。

堺市博物館ではVR体験も楽しめました。ドローン上空映像や、古墳時代再現映像も見れました。

千利休像もありました。

大仙古墳周辺の観光を終えて、再び南海堺駅方面に戻ります。

堺旧港

龍女神像が見えます。

明治36年の内国勧業博覧会で大浜水族館前に設置され「乙姫さん」の愛称で親しまれました。

平成12年市制110周年記念事業で復元建設されました。

「呂宋助左衛門(るそん すけざえもん)之像」です。

呂宋助左衛門は、戦国時代の堺の伝説的貿易商人でルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得ました。

乙姫さんに手を振るすけざw

旧堺燈台です。

堺旧港南波止場に明治10年に築造された高さ11mの六角錘形の灯台です。

役割を終えた後、堺のシンボルの一つとして保存、現地に現存する日本最古の木造洋式灯台として国指定史跡になっています。

巨大壁画も見れます。

堺伝統産業会館

堺の伝統産業を一堂に集めた施設です。お土産品もここでゲットできます。

爪切り買いました。

ミュシャの手拭いも購入。

打ち刃物は堺の伝統。日本のプロの料理人の90%以上は堺の包丁を使うとか。

自転車生産も盛んですね。

刀鍛冶、鉄砲鍛冶以来の物づくりの伝統は、今も受け継がれているのです。

堺の観光も終了。関西国際空港から空路で帰還します。南海空港線で空港へ。ここは岸和田駅。清原の地元か。

関西国際空港は海上空港です。

空港駅は広大ですね。

切符でアート!ルノワールか。

ミレー。

モナリザです。

関西国際空港

無事到着しました。

出発します!関西にサヨナラ。

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