成田国際空港
イタリア・フィレンツェ紀行です。
まずは成田国際空港にやってきました。これからスイス・エアラインズで、チューリッヒを経由し、フィレンツェに向かいます。
まずはチューリッヒまで約12時間の空の旅です。いよいよ出発!
機内食は2回です。これが1回目、なかなかうまい。ご飯も食べられた!
そろそろチューリッヒに近づいてきました。二回目の機内食です。
チューリッヒ空港
チューリッヒ空港に到着しました。初めてスイスにきました。ここで乗り換えです。
チューリッヒ空港のショップで。やはりアルプスといえば「アルプスの少女ハイジ」なのか。
ここからは小型機で、イタリアへ向かいます。
アルプス越えをしていきます。(これは実は復路の画像。往路は窓際の席でなかったため、撮影できなかったのです)
こんな世界に来てしまったのか。
フィレンツェ・ペレトラ空港
フィレンツェのペレトラ空港に到着!
すごく小さな空港でした。田舎の駐車場かと思った笑
ここからはバスで市街地のホテルに向かいます。
ホテル・アルバーニ
ホテル・アルバーニに宿泊します。サンタ・マリア・ノヴェッラ駅から歩いて5分程度の便利なホテルです。エントランスからしてなかなか豪華な雰囲気ですね。
スマホの貸し出しもあります。
海外のホテルはまずシャワーとトイレを最初にチェックします。
テレビはCSみたいで、多チャンネルだった。なぜかルパンがやってた!どうせなら「カリオストロ」や「死の翼アルバトロス」とか流して。
どこの国も女優さんは綺麗だな〜〜。意味がわからなくても外国に行くと、必ずテレビを付けっぱなしにしてます。日本だと全然見ないんですけどね。
飛行機内だとあまりよく寝れないんですよ。ホテルのベッドでようやく休めました。
明けて翌朝。
アカデミア美術館
アカデミア美術館に入館できるよう並び始めました。しかし世界的作品がある美術館なのに、なんか普通の建築物ですね!
さあ、入館していきます。
これがチケットです。やっぱりダヴィデがアカデミアの目玉です。というより殆どみんなダヴィデだけが目的です。
ジャンボローニャ「サビニの女たちの略奪」
入館早々いきなり度肝を抜く作品に出会いました。
1582年の作品です。トスカーナ大公フランチェスコ一世・デ・メディチの命により、造られました。マニエリスム彫刻の大傑作ですね。
これと同じ大理石作品(完成品)が、シニョーリア広場のロッジアにもあります。
これは石膏模型ですが、ジャンボローニャ自身がつくってるので、オリジナルです。
後のベルニーニの作品にも影響を与えてるでしょうねえ。
ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ「ミケランジェロの胸像」
1564〜66年頃の作品です。「神のごとき」と言われた彫刻家・画家・建築家の、ミケランジェロのデスマスクから作成されています。
ミケランジェロは、若いころケンカでぶん殴られて少し鼻が曲がっているんですよね。大芸術家らしい、傲岸不遜なところがあったようです。
「ダヴィデ像」が見える!が、それはとっておいて、手前の作品もミケランジェロのものです。
ローマ法王ユリウス二世の墓廟を飾るために作成していた「奴隷像」が未完のまま設置されています。(完成体2体はルーヴル美術館にある)
ミケランジェロ・ブオナローティ「若い奴隷」
1525〜30年頃の作品です。これは比較的制作が進んでましたね。
ミケランジェロ・ブオナローティ「髭の奴隷」
奴隷像はすべて苦しみを表現しており、そこから逃れようとする姿を描いているそうです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「目覚める奴隷」
ミケランジェロ自身が言うように、石の中から生命を持って生まれてくるようです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「アトラス像」
1525〜30年頃の作品です。
奴隷像シリーズは、気まぐれなユリウス二世の心変わりにより中断され、途中で放棄されてしまいます。でも、その気まぐれのおかげでシスティーナ礼拝堂の天井画が描かれることになるのです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「聖マタイ像」
1530年頃の作品です。ドゥオーモのファサードを飾るために作られたそうです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「パレストリーナのピエタ」
1555年頃の作品です。ミケのピエタといえば、ヴァチカンにあるものが有名ですが、それ以外にも生涯のテーマとしてピエタを作り続けています。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ダヴィデ像」
さあ、いよいよ世界で最も有名な彫刻作品「ダヴィデ像」です。1501〜1504年に作成されました。なんとミケ26〜29歳の作品です。これを見にきたんです。
教科書で見たイメージを超えて、実物は4メートル以上の巨像で圧倒されます。
実は瞳はハート型になってるんですよね。下からだとわからないんですが。今まさに巨人ゴリアテに打ちかからんとする闘志に燃えています。
ヴァチカンの「ピエタ」で、若くして名声を不動のものにしたミケランジェロ。
フィレンツェ政府は、フィレンツェ共和国の「自由と正義の精神」の象徴として、ミケに大理石彫刻を依頼しました。古代以来、1000年以上も造られなかった大理石による巨像彫刻です。
ダヴィデ像は古くは老人として作られることが多かったそうです。それが15世紀になるとドナテッロらによって、少年として作られるようになります。
ミケはさらに考えを変化させ、究極の肉体美を持つ青年としてダヴィデを完成させました。
この作品は元々ドゥオーモの外壁を飾る予定で制作されました。下から見上げる構図をイメージして、頭部と手は大きめに造られています。しかしあまりの出来の素晴らしさに、別の公的な場所に置こうという話になりました。
この傑作を一体どこに設置するかで大議論になりました。ミケより20歳以上年上のレオナルド・ダ・ヴィンチは政庁舎前のロッジャに置くことを主張したそうです。
しかしミケは「わかってねえな、爺さん。ダヴィデは太陽の下におかないと意味ないの」と政庁舎前の正面玄関前に置くことを主張。1504年から1873年までそこに置かれていました。
この作品が造られた時代のフィレンツェは、まさに政治闘争の時代。ミケランジェロらを育んだメディチ家のロレンツォ豪華王は既に亡く、メディチ家は失策のため、フィレンツェを追われていました。
サンマルコ修道院長サヴォナローラの神権政治が幅をきかせますが、まもなく失脚。サヴォナローラはシニョーリア広場で火刑に処されます。
その後、台頭したのはピエロ・ソデリーニ新執政官。ミケランジェロの友人でもありました。
ソデリーニ政権の書記官として、市民軍を組織しようと奮闘したのが、あのニッコロ・マキャベリでした。
マキャベリは政治学の名著「君主論」を著した人物です。
「ダヴィデ像」は混迷する時代背景の中、フィレンツェの都市国家防衛の象徴を期待され、誕生したのです。
フィレンツェだけでもダヴィデのレプリカは2体立ってますが、オリジナルはこれです。
ストラディバリウスのヴァイオリン
アカデミア美術館には楽器も展示されています。ストラディバリウスのヴァイオリンは1挺数億円もするらしいですね。一番右のやつの中心にあるのは、長くフィレンツェを支配したメディチ家の紋章です。
真ん中のやつにもメディチ家の紋章ありますね。
サンドロ・ボッティチェッリ「聖母子と聖ジョヴァンニーノと二天使」
ボッティチェリの初期作品とのことです。1470年頃の作品ですね。
パチーノ・ディ・ブオナグイーダ「生命の木」
14世紀初めにジョット派の画家・ブオナグイーダによって描かれた作品。もともとは修道院に飾られていたらしいですが、近代になってアカデミアに移された様子です。キリスト磔刑の図が木になっていて、そこから果実がなっているようです。で、その果実の中にイエスの物語が描かれている。天上には天国が描かれているようです。
ジョヴァンニ・ダ・ミラノ「ピエタ」
1365年の作品です。この画家も14世紀の人で、やっぱりジョットの影響を強く受けているようです。
ヴァザーリの追随者「聖バルバラ」
1550〜60年頃の作品です。
フランチェスコ・サルヴィアーティ「聖母子と聖ジョヴァンニーノと天使」
1543〜48年頃の作品です。
ジュリアーノ・ブジャルディーニ「聖母子と聖ジョヴァンニーノ」
1520年の作品です。どうしても反射しちゃうのはどう撮影すればいいんですかね?
ヤコポ・ダ・ポントルモ「ヴィーナスとキューピット」
1533年の作品です。ミケランジェロの下絵を元に、イタリアのマニエリスム期の画家・ポントルモによって描かれました。確かに、このヴィーナスの身体はミケランジェロっぽいですね。男性的なたくましい肉体を持つ女性です。
バルトリーニ石膏模型コレクション
Gipsoteca Bartoliniという石膏彫刻が大量にある部屋に来てみました。
ロレンツォ・バルトリーニ、ルイージ・パンパローニらの19世紀の彫刻家による石膏彫刻がありました。
あまりにも数が多く、名前を記録するのは諦めてひたすら撮影しました。
彫刻にある黒点なんだろう?と思ったんですが、よく考えればアカデミア美術館は、フィレンツェ美術学校の付属美術館なんですよね。この黒点も生徒たちの勉強用のものなのでしょうか?
どうしてもアカデミア美術館というと「ダヴィデだけ!」という印象があります。
でもダヴィデ以外も見応えがあり、素晴らしく面白い美術館だなと思い直しました。
ショップも面白げなグッズたっぷりです。
ここが出口。ひたすら地味です。
でもすごく並んでましたね。美術館はやっぱり空いてる朝一に来るもんですねえ。
フィレンツェは小さな町で、徒歩圏内に観光スポットが集中してて楽。メディチ家の礼拝堂に向かいます。
■メディチ家とは
メディチ家とは15世紀からフィレンツェに君臨した一族で、銀行業から身を起こし、フィレンツェの経済的発展に寄与しました。後には「トスカーナ大公」として本物の領主となり、ローマ教皇、さらにはフランス王妃まで輩出する欧州屈指の名家となります。
また文化・教養・芸術への理解も深く、ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらのパトロンとなりました。ルネサンス芸術の隆盛はメディチ家抜きでは考えられなかったと言われます。
サン・ロレンツォ聖堂
この聖堂はコジモ・デ・メディチが埋葬されて以来、メディチ家代々の菩提寺(埋葬の場)となりました。レンガむき出しのファサードで「何これ?」って感じですが、設計者のブルネレスキが途中で死去したため、未完のまま終わってしまったのです。後にミケランジェロ設計による再建計画も立てられましたが、実現しませんでした。
コジモ・デ・メディチは「老コジモ」や「祖国の父」と呼ばれるメディチ家の中興の祖です。
老コジモはフィレンツェ・ルネサンスの重要なパトロンでもありました。ブルネレスキやドナテッロらを庇護したことで知られます。
素朴な外観ですが、中身は静謐で優雅な礼拝堂だそうです。(時間の都合で、入らなかった)ここを右手にぐるっと回ると礼拝堂にたどり着きます。
メディチ家礼拝堂
つきました!「メディチ家礼拝堂」です。さっそく入場していきたいと思います。
これがチケットです。
サン・ロレンツォ聖堂に付属する礼拝堂で、ローマ教皇レオ10世の依頼によって造られました。
レオ10世はメディチ家出身のローマ教皇です。
入り口にはメディチ家の紋章が見えます。
君主の礼拝堂
まず2階に上がっていきます。ここは歴代トスカーナ大公の墓所となります。
高さ59メートルもあるドーム状の礼拝堂の内部です。この礼拝堂は「君主」の名前で分かるように、16世紀にメディチ家が「トスカーナ大公」となり、名実ともに君主となった後に造られたものです。
発案は初代トスカーナ大公・コジモ一世でした。
コジモ一世はシエナを併合したり、フィレンツェの都市改造を行ったりした英雄的人物です。
八角形のドームの内部を飾る宗教画の数々です。
巨大な棺の上にはブロンズの像がのっています。
とにかく床から壁から、大理石や高価な石で埋め尽くされていますね。床にもメディチ家の紋章が。
新聖具室
ミケランジェロ・ブオナローティ「ウルビーノ公ロレンツォの墓碑」
次は「新聖具室」へと向かいます。あのミケランジェロが設計と装飾を手がけた、小さな霊廟です。ここでは二つの墓碑が向き合ってます。一つめはウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ。真ん中の兜をかぶった男の墓碑です。この人はロレンツォと言っても、有名なロレンツォ豪華王ではなく、その孫ですね。
ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ。ミケはこの像に「思索」という題名を与えています。表情はよく見えませんが、うつむきかげんで物思いに沈んだ感じです。実際のロレンツォは粗暴で好戦的だったため、ムダに戦費を負担させられたフィレンツェ市民からは「糞野郎殿」と嫌われていました。
彼はマキャベリが「君主論」を進呈した人物として知られます。もっとも興味も持たず読みもしなかったそうですが。彼はわずか26歳で死去しましたが、死んだ年に生まれた長女カテリーナが歴史的人物となります。カテリーナは後にフランス王妃となり、カトリーヌ・ド・メディシスと名乗ることになります。
ロレンツォの像の前には男女の寓意像があります。女性の方が「曙」です。
「曙」の方の表情は悲しげですね。一番若々しい肉体なのに。
男性の方が「黄昏(夕暮)」です。
おっさんなんだけどムキムキですね。
こちらサイドは「瞑想的生」を表現しているみたいです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ヌムール公ジュリアーノの墓碑」
もう一つはヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ。この人はロレンツォ豪華王の三男です。
ちなみにこちらサイドは、「活動的生」を表現していて対称の美をなしています。
ミケランジェロは、ジュリアーノやロレンツォ本人に似ているかどうかなどは一切無視して、これらの像をつくったそうです。そのため市民からは大変な不興を買いますが、「1000年経ったら似てるかどうかなんて誰もわからない」的な発言をしていたそうです。
ジュリアーノの像の前には男女の寓意像があります。女性の方が「夜」です。出産直後の女性と言われてます。
ミケランジェロは女性像をつくる時にも、男性モデルを使っていたことで知られます。この「夜」も乳房をとってしまえば、普通に筋骨隆々の男性に見えますね。
男性の方が「昼」です。
アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチの像
入り口付近にある美しい女性の像はまるで観音様。この人は「最後のメディチ」と言われるアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ。
18世紀にメディチ家が、トスカーナ大公の座をハプスブルグ=ロートリンゲン家のフランツ・シュテファン(マリア・テレジアの夫、マリー・アントワネットの父)に譲り渡した時の、最後の当主です。
彼女は子宝に恵まれず、またその兄弟にも後継ぎがいなかった(同性愛者だらけだった)ため、メディチ家直系がここで断絶してしまったのです。350年に渡るメディチ家のフィレンツェ支配が終わりを告げた瞬間でした。
しかし彼女は遺言として「家族の協定(パット・デ・ファミーリア)」を残します。これが偉大な決断だったのです。
私が亡き後、メディチ家の財産は全て新トスカーナ大公に譲ります。ただしこれらの絵、彫刻、書物、宝石その他の貴重なものは、フィレンツェ市民の財産であり、トスカーナ公国に利益をもたらすものであるから、領地より持ち出してはいけません。国民でも外国人でも、誰もがそれを見て称賛できる状態にとどめ置かなければなりません。
彼女のこの遺言のおかげで、ルネサンス芸術の至宝がフィレンツェから散逸せずに、現在私たちが目にできるわけです。
こちらはショップです。
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