鹿児島維新巡り【斉彬、西郷、大久保】

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鹿児島中央駅

九州新幹線に乗って、鹿児島市にやってきました。

九州新幹線は座席が木目で温かみがありますね。

駅の広告で「西郷どん」がいきなりお迎えだ。大河ドラマが放映された年でした。

鹿児島中央駅の新たな象徴、観覧車の「アミュラン」が見えますね!

さすが南九州最大の都会だ。

中央駅前のもう一つの象徴「若き薩摩の群像」です。

1865年、藩命により鎖国の国禁を犯して英国に密留学?した19名の薩摩藩士の銅像です。有名どころでは、松木弘安(のちの寺島宗則、留学前にも薩英戦争の薩藩代表として戦後処理を見事にやってのけた。維新後は外相として条約改正に尽力)。

他は森有礼(初代文相として教育改革を断行。帝國憲法発布の当日に右翼により刺殺された)。五代友厚(この留学の中心人物。維新後は日本経済近代化に尽力)・・あたりでしょうか。

では早速サクッと観光に行ってきます。観光には「カゴシマシティビュー」の1日乗車券乗り放題を活用します。

市バスや市電も乗り放題みたいで使い手ありますね。

西郷隆盛銅像

1937年につくられました。5メートル以上あるらしい。

上野の犬の散歩像が有名ですが、さすが地元では陸軍大将の正装ですね。しかも帝国陸軍建軍当初の、ただ一人の大将です。

 西郷さんと記念撮影も出来ルンです!

小松帯刀の像

一方、西郷銅像の反対側にひっそりたたずむのは、薩摩藩家老の小松帯刀像です。若くして死んでしまったため、有名ではないですが、なかなかの人物だったそうです。

照国神社 

西郷銅像から左手に数分歩くと照国神社に着きました。照国神社は、薩摩藩最大の名君とも言われ、西郷隆盛の師でもある島津斉彬を御祭神として祀ります。

鳥居はとにかくでかいです。

島津斉彬は頻発する外国船の来航に危機意識を覚え、いち早く薩摩藩の近代化に着手しました。

斉彬は幕政改革を要求しようと、薩軍を率いて上洛寸前に急死してしまいました(薩摩東征)。あまりの突然死のために、毒殺説があるくらいです。実は私もそう思ってる。守旧派にやられたんじゃないか。江戸時代は毒殺は珍しくなく、お家騒動のたびに行われていたし、軍事調練をやるくらい元気だったのがあっという間に死んでしまったのはおかしい。

島津斉彬は本当にやりたかったことの多くを、やり残して逝ってしまった。その遺志を西郷らが継いでいくわけです。

島津斉彬

志半ばで急逝したにもかかわらず、江戸時代通じて最大の名君と評価されるわけだから、どれだけ偉かったかということですね。

島津斉彬の像

神社内には銅像が立ちます。

順聖院様」と呼ばれ、今も尊敬されています。

 照国神社には資料館もあります。

斉彬についての様々な資料が展示されています。

斉彬の書状です。

斉彬のローマ字日記ですね。さすが蘭璧大名だw

探勝園

島津忠義の像

照国神社の横には探勝園という公園があります。斉彬の急死後、次の藩主(最後の薩摩藩主)となったのが島津久光の実子・島津忠義でした。探勝園には忠義の銅像があります。

維新後は鹿児島知藩事となりました。 父・久光の命に従い、生涯髷を切らなかったそうです。今上天皇陛下の曽祖父にあたります。

島津久光の像

探勝園には、斉彬の弟・島津久光の銅像があります。久光は島津忠義の実父で、幕末の藩政を実質的な最高権力者として指揮しました。

久光は斉彬の遺志を継ぎ、文久年間に薩軍1000名を率いて上洛しましたが、西郷との衝突、寺田屋上意討ち事件、生麦事件(英国人を殺傷して薩英戦争の原因となった)など、トラブルの方が多かった印象があります。

久光のエピソードで一番面白かったのは、維新後に(大久保・西郷ら主導で)廃藩置県が断行された時、怒りを爆発させて、一晩中花火を打ち上げ続けるよう命じたという話ですね。

島津三郎久光

鹿児島城(鶴丸城)

西郷銅像から右手に進むと、鹿児島城(鶴丸城)石垣があります。

屋形が鶴が翼を広げた姿に似ていることから、「鶴丸城」の愛称で親しまれています。そういえば鹿児島の名門県立高校の名前も「鶴丸高校」ですね。

2020年に、明治初年に焼失した御楼門が復元されました。この時はまだ無い。

蘇った鶴丸城御楼門

石垣に凄まじい弾痕が!!西南戦争の時の、政府軍との激戦を物語っています。

城内は「黎明館」という博物館になってます。(入らなかったけど)

鶴丸城内には、天璋院篤姫の銅像がありました。宮崎あおいにも北川景子にも似ておらず、現存する写真に忠実な銅像ですね。

篤姫は斉彬の命を受け、徳川13代将軍・家定の正室となります。病弱だった家定が病死した後も、大奥内で影響を持ち続け、戊辰戦争時には江戸城包囲戦を回避するために尽力しました。

鶴丸城内には、旧制七高造士館を懐かしむ銅像もあった。旧制高校のバンカラな雰囲気がよく出ていますね。

「私学校」跡

鶴丸城そばに、「私学校」跡があります。

西郷隆盛は征韓論争に敗れ、明治政府を辞職したのち、鹿児島に帰郷しました。すると西郷を慕う若者たちが集まり、私学校が開かれます。私学校は規模を拡大し、次第に不平士族の温床となります。西南戦争の火種となってしまいます。

私学校跡にも、西南戦争弾痕が見えますね。

西郷隆盛終焉の地

少し歩くと「西郷隆盛終焉の地」がありました。

西南戦争の最後、傷を負った西郷は別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」と介錯を命じ、自決しました。

不世出の英雄の終焉の地ですね。

薩摩義士碑

城山入り口に「薩摩義士碑」がありました。

薩摩藩は、江戸時代中期の宝暦年間に幕府の命令によって、木曽三川の治水工事をやらされました。(宝暦治水)これが過酷で大変な工事で、80名以上の犠牲者が出たという。(病死、事故死、幕府への抗議の意味も込めた自害など)

一番高い碑が、家老の平田靫負(ひらたゆきえ)です。平田靫負も工事の終了後、多くの犠牲の責任を取って自害しています。

濃尾平野の人々は、命がけで難工事に挑んだ薩摩藩士への感謝を忘れず、今も鹿児島と岐阜は友好県として交流が続いています。

城山

鶴丸城の背後の守りであり、西南戦争の最終決戦場となった「城山」に向かいました。以前来た時は、歩いて登って難儀したのでシティビューバスを安易に使用しました。

城山頂上に向かう途中、「西郷洞窟」があります。西南の役の最終局面で、官軍に追い詰められた西郷たちが潜んだとされる洞窟です。

実はこの洞窟写真は、以前に来た時に撮影したものです。

城山到着。展望台に行ってみたいと思います。

市街地を展望します。

桜島です!

やっぱり曇り空で霞んで見えますね。

以前来た時は、今回よりよく見えましたね。

城山は観光地、次から次へとバスが来ます。

シティビューバス以外にも、別種のまち巡りバスもあるんですね。せごどんと篤姫のイラストかな?

南洲神社

バスで城山を降りて、南洲神社へ向かいます。南洲神社は西郷隆盛を祀る神社です。

南洲墓地

南洲神社と隣接して南洲墓地があります。

西南の役における薩軍の戦没者が主に眠ります。

西郷どんです。

薩軍幹部の篠原国幹(中央)、右側が村田新八。

西郷さんの介錯をした別府晋介どん。右側は桂久武。桂はそんな有名な人でないけど、重要人物です。西郷が大島流刑中に親交を結び、維新回天の同志となります。西南の役の際は従軍するつもりはなく、薩軍を見送りにきたら、そのまま魂が燃えたぎってしまって結局従軍し、西郷と運命を共にします。実に薩摩隼人らしいw

西南戦争時の鹿児島県令・大山綱良。寺田屋事件で、有馬新七らを上意討ちした人物です。西南戦争では戦闘には参加しなかったものの、官金を使って薩軍を支援したことで、戦後長崎で斬首されました。

西郷の右腕となった桐野利秋。幕末は中村半次郎と名乗り、「人斬り半次郎」の異名をとりました。

南洲墓地と隣接して西郷南洲顕彰館がありました。入らなかったけど。

 仙巌園と尚古集成館

次の目的地・仙巌園尚古集成館に到着しました。

さあ、入場していきましょう。

反射炉跡

まずは薩摩近代化の象徴とも言える反射炉跡です。反射炉とは鉄製大砲の鋳造のための施設です。

反射炉模型かな?実物は高さ20メートルくらいあったようです。

石垣で組んだ反射炉土台の跡です。現在見られるものは1857年に完成した2号炉の基礎部分です。

高熱で大量の銑鉄を溶かして鋳型に流しこみ、大砲の砲身を造る施設です。

当時はまだ鎖国中のため、外国の技術指導は一切あおげませんでした。薩摩藩主・島津斉彬たちは、オランダの書物を読み解き、失敗を重ねがらも自力で反射炉の製造に成功したのです。世界史でも例を見ない偉業だといえるでしょう。

薩摩特有の剣術・示現流体験コーナーかな?

試しにぶっ叩いてみました。チェスト!関ヶ原!

仙巌園

仙巌園正門です。意外にも明治時代に建てられたそうな。建てたのは薩摩藩最後の藩主・島津忠義です。

さあ、いよいよ仙巌園(せんがんえん)に入っていきます。仙巌園とは、江戸時代初期に築かれた島津家の別邸です。別称は「磯庭園」です。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた、何とも薩摩人らしいスケールの大きな大名庭園ですね。

錫門(すずもん)です。

藩主とその世子だけが通ることを許された門だったそうです。大河ドラマ「西郷どん」でもロケが行われました。

鶴灯籠です。鶴が羽をのばしたような姿に見えることからそう呼ばれています。島津斉彬がガス灯の火をともしたのがこの灯籠だったと、「ブラタモリ」でやってましたw

五月幟(ごがつのぼり)は、毎年4月下旬から飾られます。これは、明治時代の島津家の年中行事を復元したもので、一般家庭の鯉のぼりに相当します。

大池です。

この石階段も見覚えありますねえ。ここでも「西郷どん」ロケが行われましたね。ここで鈴木亮平を見た記憶がある。

仙巌園の水力発電用ダム跡地らしい。

桜島展望ポイントってのがあるんですね。曇ってるのが残念。

晴れてるとこんなに美しくくっきりです。(パンフ撮影)

江南竹林です。孟宗竹のことで、日本在来種ではありません。

千尋巌(せんじんがん)です。

御殿裏山の山腹には巨大な岩があり、そこに「千尋巌」という白い3文字がきざまれています。3文字の大きさは、上下で11メートル。1814年に斉彬の父・斉興がのべ3900人の人夫をつかい、3カ月かけて作らせました。

御殿

殿様の別邸として建てられましたが、明治になって鶴丸城を明け渡した島津忠義がここに引っ越したため本邸となりました。

御殿内では、着物姿の素敵な薩摩おごじょ(おごじょとはしっかり者の薩摩女の意味)がガイドをしてくれていましたよ。

 謁見の間です。来客用に使用されました。明治時代になってからは外国の要人も訪れたというから、洋風なんですかね。

御居間です。島津忠義が一日の大半を過ごした場所らしいですね。

 披露の間です。これは昭和天皇と香淳皇后(島津忠義の孫)が、行幸啓の際に使用された場所であるとか。それにしても、今の皇室にも島津家の血が入っているんですね。

御殿を出て、ショップや休憩所で一休みしました。薩摩切子と言う美しいガラス製品が展示されていました。

薩摩焼です。朝鮮出兵のときに連れてこられた陶工の技術を活かして、作られるようになりました。島津斉彬は、これら工芸品を輸出産業として発展させようとしていたらしいですね。

仙巌園の名物「ぢゃんぼ餅」をいただきました!

集成館

集成館本館も見学しました。中は撮影禁止だったので外観だけ。

島津斉彬は、西欧諸国のアジア進出に対応し、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践しました。それら事業の中心となったのが、磯に建てられた工場群「集成館」です。

1865年に竣工した機械工場は、「明治日本の産業革命遺産」に指定されており、現在内部は島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」として親しまれています。

加治屋町

明治維新の英雄を大量に生み出した鹿児島・加治屋町を散策しました。重要人物の関連地が、こんなに密集してるとは!

薩摩下級武士の住居で「二ツ屋」と言われる造りだそうです。

大久保利通の銅像

さてまずは西郷の盟友・大久保利通の銅像です!

大久保利通は、西郷軍を討伐したこともあってか人気はイマイチ。1979年に銅像がようやく作られたそうですね。鶴丸城そばの西郷隆盛像が1937年にすでに作られたことを思うと、扱いに差がありますねえ。

個人的には、日本近代史上最高の政治家だと思います。伊藤博文の前の、第0代総理大臣ともいうべき存在ですね。「冷徹」「独裁」というイメージがありますが、大久保には信念がありました。

プロイセン宰相ビスマルク。大久保にとっては師となった。

岩倉遣欧使節に随行した際に、ドイツの宰相ビスマルクと出会い、「中央集権」「殖産興業」「富国強兵」「官僚制度」などの国づくりの方向性を学びとります。東西の大政治家二人が邂逅しえたというのは、日本にとっては本当に幸運なことでしたね。

 大久保利通生誕の地

西郷隆盛生誕の地

大久保の家と近すぎ!2〜3分くらいです!

隣に西郷従道誕生の地の碑もあります。小さい碑なのは、兄の「大西郷」に遠慮して、というところでしょうか。

でも西郷従道だって初代海軍大臣、海軍元帥ですからねw めちゃくちゃ偉いんだけどね。

大山巌誕生の地

今度は初代陸軍大臣にして陸軍元帥・大山巌誕生の地です!日露戦争の満州軍総司令官として、奉天会戦などの戦勝に貢献しました。

東郷平八郎誕生の地

日露戦争といえば、海軍元帥・東郷平八郎誕生の地です。日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊に完勝した伝説の名将です。誕生碑が現在の鹿児島中央高校の敷地内にあるんですね!(後ろに教室が見えとる)

しかしこの町から何人、元帥出てるんだって話ですよね? 次の黒木大将だって戦功は充分元帥に値する活躍をしてるし。

黒木為楨誕生の地

黒木為楨(くろきためもと)誕生の地です。乃木希典ほど有名でないが、黒木も日露戦争の陸戦の立役者です。陸軍第一軍を率いて、開戦当初から積極的な快進撃を見せ、ロシア軍から恐れられました。パットンみたいな猛将で、日本人には珍しいタイプですね。なぜこの人が元帥にならなかったのか不思議です。

終始消極的だったロシア軍司令のクロパトキンとは対照的でした。(もっとも撤退戦を展開して、敵を内陸に引きずり込むのは、ナポレオン戦争以来のロシアのお家芸ですけどね)

山本権兵衛誕生の地

日本海軍のオーナー」とも言われた山本権兵衛誕生の地です。帝国海軍の土台を全て作り上げたのがこの男。後に内閣総理大臣も務めています。

権兵衛さんの真骨頂は「人事」ですね。世界海軍史上空前絶後の大リストラ(100名近い将官・士官をリストラ)を敢行し、海軍の近代化改革を行いました。全てはロシア海軍に勝利するための布石でした。

「日本海軍のオーナー」山本権兵衛

権兵衛さんは日露戦争直前、連合艦隊司令長官に東郷平八郎を抜擢したことで知られます。「なぜ東郷なのか」という明治天皇の御下問に対して、「東郷は運のいい男でございますので」と答えた逸話は有名ですね。

日本海海戦の東郷平八郎

昔の日本人は鋭いというか、日露戦争ぐらいまでは「野性の嗅覚」が働いていたんですよね。だから大胆な人事もできた。陸軍だって、旅順攻略に苦しんだ乃木希典から指揮権を剥奪しています。「有事こそ実力主義」という国際常識がわかってたんですよね。こうしてみると、日露戦争って加治屋町の男たちのおかげで勝てた戦争だったんですね。

篠原国幹誕生の地

次は西南戦争の志士たち。西郷軍幹部の篠原国幹誕生の地です。

村田新八誕生の地

西郷どん 大河ドラマ館

最後に「西郷どん 大河ドラマ館」に行ってきました。

ドラマのセットや衣装が再現されていました。太眉で記念撮影できるぞw

西郷家のセット再現です。

大久保家のセット再現です。

衣装や小物も見られました。

天文館

市内の繁華街・天文館で食事でもします。

AKBのゆきちゃんも鹿児島人だったのか。

居酒屋で晩飯です。黒豚角煮がうまかったな〜

さつま揚げも満足でした。

下戸なんだけど焼酎飲んでみました。

市電に乗って歴史巡りも終了。

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