JR両国駅
都立横網町公園にやってきました。横綱でなく横網。両国ということからよく間違えられます。
東京都慰霊堂
1923年9月1日午前11時58分、巨大地震が帝都・東京から横浜一帯を襲いました。「関東大震災」です。
10万とも言われる遭難死者の慰霊のために、ご遺骨を納める霊堂として「震災記念堂」が建てられたのです。
毎年9月1日には慰霊大法要が行われます。
大震災の中でも最も悲惨だったのは「本所陸軍被服廠」を襲った火災旋風。地震から避難していた人々を襲い、人はおろか馬車まで吹き飛ばされたという。
この地だけでも、被害者は3万8千人という信じられない数に。
この慰霊堂は、「本所陸軍被服廠」跡地につくられたのです。
「二度と悲劇を繰り返すまい」との悲願もむなしく、21年後に東京は米軍空襲により再び焦土と化しました。
そこで戦災遭難者の霊とご遺骨を併せてここに納め、1951年に「東京都慰霊堂」と改称し、現在に至るわけです。
震災遭難児童弔魂像です。
大震災では東京市内だけでも約5000名もの児童が亡くなったといいます。
東京空襲犠牲者を追悼する祈念碑のようですが、今は立ち入り禁止なのか。碑の中には犠牲者名簿が納められます。
最も被害を出した東京大空襲があった3月10日にも慰霊大法要が行われています。
これは「関東大震災朝鮮人犠牲者」の追悼碑です。
地震後の混乱から、「不逞朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの噂が人々をパニックに陥れ、自警団による過剰な取締りが行われました。当時の唯一のマスメディアである新聞の一部が、「朝鮮人暴徒化」を報じたことも原因の一つです。
このパニックの中で、多くの一般朝鮮人や、朝鮮人と間違えられた日本人、中国人などが殺傷される悲劇が起きました。
小ぶりだが心和む庭園もありました。
東京都復興記念館
慰霊堂を訪れたなら、無料で見学できる復興記念館も併せて行ってみたいところです。
外には凄惨な遺物も。関東大震災の火災で溶解した日本橋丸善ビルの鉄柱です。
ここがエントランス。
まず1階から見学していきます。
地震直後に皇居前広場に避難した人々。
その数、なんと30万と言われます。当時の東京市内は、現在の23区の倍の人口密度であったといいます。
みんな家財道具を荷車に満載してますね。地震後に発生した火災では、家財道具に引火するケースが多かった。
神田須田町で被災した市電の電気時計。地震が起こった時間で時が止まっている。
炎上するのは有楽町の東京電力(当時は東京電燈会社)。
日比谷交差点。
上野駅前の避難民。火の手が迫ってからは上野公園に逃げ込んだそうです。
津波も来ていたんですね。
これは溶解したタイプライター。
地震直後の銀座。まだ平和な感じですが、この後に火の手が迫ります。
3日後の銀座。東京市内の犠牲者の96%は火災によるものとされています。
焼け落ちた永代橋の軌道橋。
両国国技館。
本所被服廠は大惨事の後の火葬で、3メートルもの山ができたそうです。
本所被服廠跡から出たもの。
当局も震災後の治安を必死に維持しようとしていたことがわかります。震災翌日には帝都に戒厳令が出されます。
被災者をトラックで搬送します。
救難活動に奔走する九条武子男爵夫人。大正三大美人とも言われる才女でしたが、この時の無理がたたり、数年後に逝去します。
廃墟と化した東京から東北へと避難する人々。
丸の内交番前に張り出された伝言メモ。当時はラジオ放送も始まっておらず、原始的方法に頼らざるを得なかったのです。
各国から義援金が寄せられました。
アメリカ赤十字のポスター。後にアメリカ人自身が再度東京を壊滅に追い込むことになるとは。
火炎旋風で吹き飛ばされ、樹木にかかっていたというチャリ。
復興を指揮したのは戦前最大の凄腕行政官・後藤新平でした。
台湾統治の経験もある後藤は、災害に強い町づくりを一気に押し進めようとしました。
一番にお金がかけられたのは道路。8〜9メートルに拡張した道路を張り巡らせる予定でしたが、実際にはその半分程度にしかできませんでした。ちなみにこの時に明治通りや靖国通りが作られました。
日本橋周辺。
歌舞伎座前の通り。
田村町から芝公園方面を望む。
次は3階の展示を見てみましょう。
3階は画家の徳永柳州による震災画で飾られます。
自警団の図。千駄ヶ谷で俳優の千田是也氏が、自警団に危うく暴行されそうになった事件は有名ですね。彼の芸名は「千駄ヶ谷のコリアン」の意味でつけたそうです、
東海道根府川駅の大惨事。山津波により、寝府川駅舎は停車していた列車ごと崩落しました。
赤十字による救護活動。
軍の救難活動。パニック時に最も頼りになるのは、今も昔も軍隊です。
台湾の李登輝総統は、ノーベル平和賞を貰っても当然の偉人でしたが、1999年の台湾地震に際しても、見事な陣頭指揮を行いました。彼は常に官房長官と国軍参謀長を従え、現場で即断即決の対応をしました。
災害発生時に一番困るのは、大量のご遺体の処理です。死亡して二、三日以内に処理をしないと、数千、数万のご遺体の腐敗が進み、大変な状況になってしまう。李登輝総統はそのことに最も心を砕き、軍に的確な指示を与え、見事に事態を収拾しました。
その「戦場整理」のノウハウを李登輝総統が学んだのは、1945年3月10日の東京大空襲の時でした。当時、習志野高射砲連隊に属していた総統は、ここで戦場整理を経験し、それが台湾地震の際に活かされたのです。
3階は1945年に帝都を壊滅させた東京空襲についての展示が主になります。これは3月10日の「東京大空襲」の焼死者のもの。各々が被災した時間で、時が止まっています。
米大型爆撃機B 29による爆撃は、当初は軍需工場だけを狙う精密爆撃でしたが、1945年になってからは無差別絨毯爆撃に変わりました。民間人を殺傷し、日本の戦意をそぐ狙いがありました。
米軍が投下した焼夷弾の不発弾です。
豊島区要町で発見されたM 69焼夷弾。このタイプが本土空襲では最も使用されました。六角柱の中には38本のナパーム剤が集束されており、高度数百メートルでバラバラと飛散し、家屋を燃やします。木造家屋が多かった日本の市街地壊滅を狙った攻撃法でした。
米軍の爆撃は当初は通常弾を使用した高高度爆撃(高度8000〜10000メートル)でしたが、1945年に入ると夜間低高度(高度2000メートル以下)の焼夷弾による攻撃に変わりました。
1943年からは学徒動員が行われます。日本だけでなく欧米各国などでは大戦当初から総力戦体制が敷かれていました。
女子学生の軍事訓練。よく左翼が「竹槍でB 29を落とそうとしたのか」と揶揄しますが、先人を馬鹿にする態度は許せません。これはもちろん爆撃機撃墜を目的としたものでなく、白兵戦闘を想定した訓練です。しかも竹槍でなく、薙刀ではないですかね。
防空頭巾。髪の毛への引火を防ぐためのもの。
大正末期から昭和初期に使われた防火服。
江東区方面の廃墟。
終戦。戦後はGHQが日本を占領支配します。アメリカ人MPが交通整理をしています。
家屋は焼失し、人々はバラック小屋に。こんな状態でも、些細なことで微笑むことができるのが人間のたくましいところです。
館外には戦災遺物が展示されていました。
大日本麦酒吾妻橋工場内の鉄柱が溶解したもの。
自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残った焼骸。
たいへん勉強になりました。両国に観光の際は、ぜひ慰霊堂にもお立ち寄りになることをお勧めします。
コメント