中屋敷停留所
高田駅前からバスで中屋敷停留所まで移動します。バス停は春日山城から離れていて少し歩かないといけません。
可愛い謙信w 虎千代時代か。
上越市埋蔵文化センターで謙信の展示がされていました。
上杉謙信像です。
武田信玄と一騎討ちした時のものかな。
左手に行くと大手道でお城に行けます。
クマが出たなんて言われちゃ行く気出ん笑 大手道には曲がらず、直進していきます。
まっすぐ謙信銅像前まで向かいます。舗装されてますが上りが続きます。すでにバテバテ。
春日山城址
ついに到着しました。謙信立像が迎えてくれます。
毘沙門天の化身にして軍神。ハンニバルやナポレオンも上回る天才であったと思ってます。
春日山神社
まずは春日山神社を参拝していきます。
言うまでもなく祭神は上杉謙信公。
米沢の上杉神社から分霊したものだそうです。
小川未明のお父さんが創建に尽力したそうです。
謙信公神輿がここに収められているそうです。毎年八月の謙信公祭りの時に巡行します。
忠魂碑。
日清・日露あたりのものかな。
さあ、いよいよ山城を登っていきます。
標高180mの本丸跡まで、頑張ります。
春日山城を居城とし、普請に努めたのは謙信の父・長尾為景からです。
その後、謙信、景勝まで上杉氏の居城として発展します。堅固な山城ですが、上杉氏が強すぎたため、一度も攻め込まれることはありませんでした。
直江屋敷跡
上杉家の重臣・直江家の屋敷があったとされる場所です。
特に上杉景勝に仕えた直江兼続は大河ドラマになったくらい有名ですね。
「真田丸」の村上新悟さんのクールな兼続はよかったな。
御花畑跡。
毘沙門堂
この御堂は復元らしいですが、謙信が信仰した毘沙門天の尊像(ご分身)が納められています。謙信は出陣前に、この御堂の中に籠もったことがよく知られています。
謙信は自らの軍を降魔の軍とみなし、「毘」の旗を陣頭にかざし戦ったのです。
ドラマ「武田信玄」の柴田恭兵のように、毘沙門天にぶつぶつ独り言を言ってきました笑
不識院跡。
護摩堂跡。真言密教を信仰した謙信は、護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷しました。
諏訪堂跡。
毘沙門堂跡。元はここにあったということですか。
いよいよ本丸へ。
本丸跡・天守台跡
ここが標高180mの本丸跡です。「お天上」とよばれました。
謙信も眺めた光景。頸城平野と日本海の風景が広がります。
直江津の港から、越後上布や佐渡の金銀を上方に輸出することで、謙信は莫大な富を得ました。
本丸跡の南隣に天守台跡があります。
本丸から少し下って行くと井戸曲輪があります。
籠城用に使える井戸は「山城築城の必須条件」ですが、標高180mに井戸水が湧くのがすごい。
地質学的には、西方の山々と礫層で繋がって水が湧くとか。
廃城後、400年を経て今なお満々と水をたたえます。
上杉景勝屋敷跡
謙信の姉の子で、謙信の跡を継ぎ、豊臣政権の五大老までになった上杉景勝の邸跡です。
会津に国替え後も直江兼続との名コンビで徳川に牙を剥き、天下を翻弄しました。
帰路は二の丸、三の丸を通って、謙信銅像前まで戻っていきます。
ここは二の丸跡です。
二の丸は本丸直下にあり、本丸を帯状に囲っています。
ここは三の丸跡です。
謙信は生涯独身で子がいませんでした。で、宿敵・北条氏康との同盟締結の際に氏康七男を貰い受け養子「三郎景虎」としました。
三の丸は景虎屋敷があったところです。景虎は謙信の急死後、景勝と熾烈な跡目争い「御館の乱」を戦い、敗れます。
米蔵があったことから、この三の丸がお城の中核であったことも分かりますね。
しばらく降りると舗装された道になりました。
再び謙信像のもとに戻ってきました。
さらば、謙信。
銅像そばの「見晴らし屋」という食堂で、食事していきます。とにかくお腹空きました。
まあ、ちょっとだけ見晴らせますね。
謙信力そばです。豚ロース、山菜、お餅などが入ってて美味しかった。
帰り道に謙信公出陣・御前清水がありました。
龍の口から清水が出るんですね!
春日山城巡礼、虚弱な私でも何とかなりました。謙信ゆかりの林泉寺が休業中だったのだけは残念。
春日山駅前の安いビジネスホテルを取りました。
寝るだけ。本当は直江津で一泊したかったんですが、安いところが無かったのです。
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