豊橋鉄道 新豊橋駅
渥美線で、三河田原駅まで向かいます。
三河田原駅
のんびり徒歩で田原城址前まで来ました。いったんスルーして、崋山神社をまわっていきます。
崋山神社
田原城出丸(新倉)跡に建てられました。渡辺崋山の遺徳をしのび、1969年につくられました。毎年命日の10月11日に大祭が開催されます。
渡辺崋山は、江戸時代後期の武士、画家、蘭学者。三河国田原藩家老も務めました。通称は登(のぼり、又はのぼる)。
勇ましい神馬。
「八勿(ぶつ)の訓」
一 、面後の情に常を忘れるなかれ
(直接面談している時、その時の感情に流され平常心を忘れるようなことがあってはならない。)
二 、眼前の繰廻しに百年の計を忘れるなかれ
(現在、只今のやり繰りに、百年の大計を忘れてはならない。)
三 、 前面の功を期して後面の費を忘れるなかれ
(前の収益を取ろうとして、後の費用がかかることを忘れるな。)
四 、 大功は緩にあり 機会は急にありということを忘れるなかれ
(大きな功績はゆっくり積みあげてゆくものだが、チャンスは急にくる事を忘れるな。)
五 、 面は冷なるを欲し 背は暖を欲すると云うを忘れるなかれ
(表面は冷静でありたいが、心は暖かでありたいという事を忘れるな。)
六 、 挙動を慎み其恒をみらるるなかれ
(行動をつつしんで、自分の本心を見破られないようにしろ。)
七 、 人を欺かんとするものは人に欺かる 不欺は即不欺己ということを忘れるなかれ
(人をだまそうとする者は人にだまされる。いつわらないということは、自己をいつわらないことである事を忘れるな。)
八 、 基立て物従う基は心の実という事を忘れるなかれ
(基本が立てば、あとはみなそれに従う。基本は誠実である事を忘れるな。)
渡辺崋山が天保の飢饉の際、田原藩家老として御用金を調達しようとしました。難しい大阪商人との交渉に際して、使者の真木重郎兵衛に対して指示した文書が「八勿(ぶつ)の訓」です。外交交渉における「してはいけないこと」を説いたものでした。
池ノ原公園
渡辺崋山の像です。
渡辺崋山が晩年、「蛮社の獄」によって罪人として蟄居した地です。
渡辺崋山 池ノ原幽居跡
この住居で、崋山は晩年を絵を描きながら過ごし、最期はここで自害します。
これは復元ですが、1830年代の住居をほぼ再現しているそうです。
ただ閉ざされており、内部を見学することは出来ませんでした。
また田原城址に戻ってきました。
田原城址
桜門(復元)です。
二の丸櫓も復元されてます。
中が博物館っぽくなってるみたいです。
無料で見学できます。
かつての田原城。
吉胡貝塚の断面図がありました。
田原市博物館
田原城址の中に博物館があります。さっそく入館してみます。
この博物館は田原市の歴史や、渡辺崋山について展示されています。
これは崋山立志の像。崋山は12歳の時に、備前池田侯の行列を横切ってしまい、池田家の侍衆にぶん殴られました。池田家の若君は同い年くらい。この屈辱が崋山をして、勉学に励み、立身出世をしようと発奮させたのです。
崋山は江戸の田原藩上屋敷生まれ。現在の最高裁の位置で、碑も立っています。
崋山愛用の花瓶です。渡辺家は極貧で、しかも子沢山。口減らしのために幼い弟らを奉公に出さなければいけませんでした。
崋山14歳の時、雪の中、板橋まで幼い弟を奉公に送り出す悲しい別れは、「板橋の別れ」として戦前の「修身」の教科書でも扱われました。
これが崋山の、田原藩士としての偉業「報民倉」にかけられた額です。藩主の筆になります。
報民倉とは、1833年から始まった天保の大飢饉に際して、崋山の進言により、貧民救済のためにつくられた備蓄米倉。おかげで田原藩内での被害は防がれました。
崋山は家計を助けるため、絵を書いていましたが、非凡な才能は高く評価され、26歳ごろには画家として有名になりました。一掃百態図(複製)です。
これは国宝「鷹見泉石図」(東京国立博物館)です。鷹見泉石は崋山の蘭学仲間。幕府の能吏でもあり、逃亡中の大塩平八郎を包囲したことで知られます。
大塩は「隠れ家を取り囲んでいるのが泉石ではもはや逃げられぬ」と悟り、自害してしまいます。
崋山は蘭学研究でも知られました。その交友関係は広く、高野長英、江川太郎左衛門、川路聖謨など優秀な人々と切磋琢磨して、見識を磨いていきました。
しかし転機となったのは、1838年の江戸湾測量事件。下は田原藩使用の測量器具。江戸湾測量を命じられたのは伊豆韮山代官・江川太郎左衛門と、幕府目付・鳥居耀蔵。鳥居は時代小説でも悪党として描かれることが多い人物。江川は崋山に協力を求め、見事な測量を成し遂げますが、鳥居は面目を潰されたと思い、蘭学者たちに深い憎しみを抱きます。
鳥居の陰謀によって起こったのが1839年の「蛮社の獄」。崋山や高野長英ら蘭学者が、無人島渡航を画策しているというデッチ上げ事件でした。下は「獄廷素描及び記録」。崋山の手によるものです。
出獄した後、蟄居中に逮捕された当時を思い出して描いたものです。
獄中書簡です。友人の椿椿山に贈られたもの。逮捕中も、崋山の無罪を主張し、働きかけてくれた友人がたくさんいました。そのことへの感謝が書かれています。
これが崋山が書いた「慎機論」。幕府が起こしたアメリカ船砲撃事件「モリソン号事件」を批判する内容。これが崋山の家宅捜索で見つかり、崋山有罪の証拠書類となったのです。しかしこれは発表を目的としたものでなく、個人的な所見程度のものだったので、崋山は死罪を免れ、地元で蟄居という処分になりました。先ほど訪れた池ノ原の家で蟄居の日々が始まりました。
蟄居中の極貧の暮らしを凌がせようと、崋山の門人たちは崋山の絵を売る義会を始めました。求めに応じて崋山は作画に励み、多くの名作を描き上げました。
「板絵墨馬図」。謹慎蟄居中に描かれています。
しかしその活動が「罪人身を慎まず」と悪評となり、藩主に災が及ぶのを恐れた崋山は死を決しました。
「不忠不孝渡辺登」(複製)。これは胸が詰まります。この七言を墓標がわりにしたためた後、崋山は自ら命を断ちます。1841年のことでした。
博物館では田原市の開発の歴史も展示されていました。
これは渥美半島発展の契機となった豊川用水です。
渥美半島は川の流れが行き届かず、サツマイモや麦しか作れない貧しい土地でした。それが1968年の豊川用水開通により、日本屈指の農業地帯に変貌したのです。今ではキャベツ、メロンなどの生産が盛んです。
これも有名な「電照菊」。照明で照らすことによって菊の開花をコントロールします。需要の高い時期に出荷することができます。
田原市博物館、偉大な崋山の生涯を学べて、大変得るものが多かったような気がします。
城宝寺
三河田原駅から1〜2分の位置にあるお寺。
ここに崋山一家が眠ります。
崋山に手を合わせて。
充実した田原市遠征でした。
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