九度山巡り【真田の里】

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九度山(くどやま)町にやってきました。

戦国武将の真田親子が「関ヶ原の戦い」で敵対した徳川家康に咎められ、流された場所が、高野山の麓の九度山だったのです。

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南海線九度山駅

この六文銭が真田家の旗印です。

単なる田舎町なんですけどね。大河ドラマ特需で観光客らしき人々は結構いました。

真田十勇士がキャラ化されて、町中を飾ってましたよ。

真田古墳(真田の抜け穴)

8世紀ごろの横穴式石室らしいんですが、長く「真田の抜け穴」と伝承されてきました。

真田庵

真田屋敷跡と言われる真田庵です。

関ヶ原の戦いの後に、真田親子は家康により「高野山での謹慎」を命じられました。間も無く高野山の麓であるこの九度山に移ります。再起を狙いながらも、真田昌幸(安房守)は65歳でこの地で客死します。しかしその息子である真田幸村(左衛門佐信繁)は、1614年にここを抜け出し、大坂の陣に参戦します。

「雷封じの井戸」です。慶長年間に真田屋敷に落ちた雷を真田幸村が取り押さえて、この井戸に封じ込んだとか、なんだかよくわからない伝承があります。

大坂の陣で奮戦し、真田の武名を高める幸村・大助親子の四百回忌碑だそうです。

九度山で客死することとなった真田昌幸(幸村の父)と幸村、大助(幸村の子)のお墓があります。

幸村は1614年の大阪の陣に参陣するまで、この地で雌伏の時を過ごします。

真田ミュージアム

羽柴秀吉から真田昌幸宛の書状です。上洛を促す内容ですね。

豊臣秀吉から真田昌幸宛の書状です。北条攻めの準備を促す内容ですね。

九度山雌伏時代の真田親子です!

掛け軸の裏に、怪しげな見取り図?徳川攻めの密談中か?

天井には猿飛佐助か!?

棚の裏にも忍びの者が!

井戸の中を覗いてごらん。

抜け穴だったんですねw

真田=忍びの者というイメージは、明治〜大正年間から流行した「真田十勇士」物語の影響らしいですね。

江戸時代からも錦絵や歌舞伎で、真田の武勇は人気でした。

庶民の徳川の治世への不満が、江戸時代における真田、または太閤の人気につながったのかもしれません。

大河ドラマは衣装もきらびやか。

「真田丸」は面白すぎましたよね。

帰りの南海電車も真田幸村風にラッピングされていました。

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