大阪巡り【大阪城、四天王寺、適塾】

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大阪城

地下鉄谷町四丁目駅から歩いていきます。

大阪歴史博物館がありました。楽しそうだったんですが、城が優先のためスルーさせていただきました。

大阪城は豊臣秀吉が石山本願寺あとに建てた天下の名城です。

重要文化財・多聞櫓です。

もちろん徳川時代に最初に造られたものですが、落雷によって全焼。今の多聞櫓は1848年の再建です。

高さは14.7メートルあり、現存する多聞櫓の中では最大のものらしいですね。

でかい!城内最大・桜門枡形の巨石です。岡山産の花崗岩だそうですね。この女性はどっかの人。大きさが分かるよう撮っちゃいました。

さあ、いよいよ日本最大の天守閣に到着です。

豊臣秀吉時代のものは、モチロン大坂の陣で焼失。その後、徳川時代のものも火災などで喪失。現在のものは1933年、昭和初期の鉄筋コンクリート製の天守閣ですね。

それでも古いし威厳はありますね。豊臣時代も徳川時代も天守閣は短命で、30年程度で焼失してるわけだから、80年余の歴史を誇る現行大阪城はやっぱりすごい。

入場してみます!

お城入り口付近に号砲がありました。

幕末にお城の防衛に、明治維新後はお昼を知らせる号砲として使用されました。

城内は様々なグッズがありましたね。真ん中が秀吉の兜ですね。

館内、大阪の陣のミニチュアありました。

松平忠直隊と真田左衛門佐隊の激突!

展望室に上ってみました。

天守閣からの眺めですね。

しゃちほこは城内でも展示されていましたよ。

一番高いビルが「あべのハルカス」です。

とにかくいちいちでかいんですよw

城の裏手の山里丸方面に向かいます。

豊臣秀頼と淀殿の親子が自刃したのも、山里丸付近と想定されています。

極楽橋です。

大坂の陣と戊辰戦争の時に焼失していますが、現在のものは1965年に架橋されたものだとか。

難波宮跡

大阪城すぐそばの「難波宮跡」も見ていきました。

645年の大化の改新以来、難波が約150年もの間、日本の政治の中心だった時期がありました。

市営地下鉄で移動して、四天王寺にやってきました。

四天王寺

四天王寺は593年に聖徳太子によって創建されたと言われます。しかし戦災、天災によって建造物は失われ、現存するものは江戸時代以降の再建となります。

お寺の敷地の中に学校があった!!その名も四天王寺中学高校。

関西では言わずと知れた名門女子校です。またスポーツも盛んで、卓球の石川佳純さん、バレーの木村沙織さんなど超一流の選手輩出してます。

西大門から入っていきましょう。

1962年に松下幸之助の寄進により再建されたそうです。コンクリート造りで、別名「極楽門」と言います。

西大門の柱にはお釈迦様の教えを意味する「転法輪」があります。右に回すとご利益があるみたいです。

引導の鐘・北鐘堂です。このお堂の鐘は極楽の世界まで響いていくとか。

鐘自体は屋根裏にあるため、見ることはできないんだって。

六時礼賛堂です。手前には重要文化財の「石舞台」が見えます。

昼夜六回に渡って礼賛を行うことからこう呼ばれるそうですね。

六時堂に渡る橋の上に「石舞台」があり、毎年4月に聖霊会(聖徳太子の霊をお慰めする)が行われるそうです。

聖霊会の日にはここで終日、法要や雅楽などが行われるそうです。

石舞台の橋からは亀軍団が見えます。

これから中心伽藍へと進んでいきます。

中心伽藍につきました。四天王寺式伽藍配置ですね。なんか縦長なんですね。

五重の塔です。

中に入って上ることもできます。撮影禁止だったような。

金堂です。

四天王寺もなんども焼失・再建を繰り返しました。下の写真は1945年3月の大阪大空襲で炎上する中心伽藍です。

道頓堀

このあとはザ・大阪巡りでもしてみようかな。道頓堀界隈に来てみました。

道頓堀は、大阪・ミナミの繁華街です。

安井道頓(やすいどうとん)という人物が江戸時代に開削したお堀だそうです。

阪神が優勝した時に飛び込むところらしいですね。

良い子のみなさんは真似しないように。

通天閣

昭和テイスト満載なアーケードを抜けていきます。

見えてきました!

展望台に上ることができます。でも上らなかったんですよ。理由は忘れたけど、お金をけちったか、または待ち時間があったかだったと思われます。

界隈を散策していきます。

ビリケンさんや。

面白い!

適塾

この後は、淀屋橋近辺を散策していきます。江戸時代末期の蘭学の名門私塾「適塾」に来ました。医師としても高名だった緒方洪庵によって設立されました。

我が国唯一の蘭学塾遺構として、重要文化財に指定されています。まずは入り口。

適塾(適々斎塾)は1838年に開かれ、1845年にこの地に移転しました。以後、西洋医学研究のみならず種痘事業やコレラ(安政以降大流行する)治療など、大きな貢献をします。

受付で荷物を預け、見学していきます。緒方洪庵は1862年に幕府の奥医師として江戸に迎えられるまでの17年間にわたり、ここに居住しました。洪庵は大阪を離れて江戸に行くのにあまり乗り気でなかったようです。(結局江戸で客死してしまいます)

昭和になって大阪帝国大学に寄贈され、今も阪大の所管らしいですよ。

1階をまわっていきます。手前の部屋は応接間です。

ここは書斎です。

奥座敷ですかね。

ここは家族部屋です。

階段を上がって2階の塾生部屋へと向かいます。

狭い!受付で荷物預けの時に一度は「面倒くさいから預けなくていい」と言ったんですが、「階段が急で危ないから預けて行ってください!」と強硬に言われた理由がわかった。

大河ドラマ「花神」でも、大村益次郎がこの急な階段を上っていった場面があったな。

「ヅーフ部屋」です!ヅーフとは蘭和辞書の名前で、塾に一揃えしかありませんでした。塾生は奪い合うようにして勉強しました。会読の成績により上級へと進み、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものでした。

適塾の塾生大部屋です。全国から集まった英才が、ここで切磋琢磨して蘭学を学びました。

今でも適塾の名を不滅のものにしているのは、キラ星の如き人材の輩出のためでしょう。福沢諭吉、橋本左内、大村益次郎、佐野常民、大鳥圭介、高松凌雲、手塚良仙(手塚治虫のひいおじいちゃん)など。

自由な気風で知られ、塾生の自主性を重んじました。

塾生たちのハチャメチャな青春ぶり、かつ秀才同士の真剣勝負の勉強ぶりは福沢の「福翁自伝」などに詳しいです。

また怖い階段を降りていきます。

近辺の散策を続けていきたいと思います。道修町にある少彦名神社入口には、谷崎潤一郎の「春琴抄の碑」があります。

名作「春琴抄」はここ道修町を舞台に描かれました。

これは谷崎の原稿ですか!盲目の女師匠と弟子の思慕を描いた作品です。谷崎は松子夫人への想いを託したそうです。山口百恵と三浦友和の映画も見たことがあります。

少彦名神社は薬の神様なんですね。

医薬総鎮守とあります。

大阪取引所です。大阪経済繁栄の名残でしょうか。

大阪取引所の前には、大阪経済繁栄の礎を築いた五代友厚の像が立ちます。

中之島公園を少しだけぶらついていきます。

この頃にはもう疲労困憊で、すぐ帰ってしまった。大阪はもう少しじっくり観光したいですねえ。

今回の散策ルートです。

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