長崎巡り【坂本龍馬亀山社中、シーボルト鳴滝塾】

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長崎といえば坂本龍馬でしょうか。亀山社中記念館が最初の目的地です。亀山社中とは、幕末に坂本龍馬が長崎に作った結社で、有名な海援隊の前身組織と言われます

長崎駅前で風頭(かざがしら)山行きバスに乗って行きます。すごい傾斜で、歩いていくのはとてもキツイ。

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目次

風頭公園

ものすごい勾配にビビりながら、風頭バス停に到着しました。

まずは風頭公園の龍馬銅像を目指していきます。

お!見えてきました。

龍馬〜!会いに来たぜよ!

なかなかキマってますね。

風頭山の展望台から見下ろす長崎市街。

絶景ですね。この後ずっと「竜馬通り」を下って行きます。

しかし、山にへばり付くような家の建て方は、凄いですね。

亀山社中の面々が道案内してくれます。

やっぱり最初にバスで山頂に行って、下る作戦で正解だった。

龍馬のブーツ像がありました。坂本龍馬が日本で最初にブーツを履いたんですって。本当かね?

亀山社中記念館

亀山社中跡に復元された記念館です!

龍馬の紋服とブーツの複製品ですね。

左から月琴で龍馬の愛妻・お龍さんがこういうものを奏でたんじゃないかみたいなことが書いてあった。真ん中は龍馬愛用のスミス&ウエッソン社製ピストルの複製品です。幕府に寺田屋を襲撃された時に、ピストルで応戦したと言われます。一番右は龍馬愛用の陸奥守吉行の複製品です。

そうそうたるメンバー。陸奥陽之助とはのちの外相・陸奥宗光のことです。

現在の龍馬ヒーロー像は、ほとんど司馬遼太郎の小説やドラマで作られたものらしいですね。

実際の龍馬がいかなる人物だったか?は研究者でも無い私には分からない。でもたとえ虚構だとしても、司馬遼が描いた竜馬像は魅力的でした。

再びバスで下界へ。長崎市内の中島川沿いを散策しました。

眼鏡橋

おめあては有名な「眼鏡橋」です。

路面電車の賑橋駅(現在は「めがね橋」駅に改称)から歩いて5分くらいで着きます。

水面に映った影と合わせて、完全なる眼鏡。

江戸時代に架けられ、その後何度か破損の憂き目にあいましたが、現在は重要文化財の二連アーチ型橋として、なるべく原型に近い姿で保存する方向で維持されています。

川沿いに様々なモニュメントがあります。この人は黙子如定(もくすにょじょう)という中国の僧で、江戸時代のはじめに来日し、最初のアーチ型眼鏡橋を作った人らしいです。

1982年の長崎水害の際の復興を祈願して、なぜか中国に依頼して作った「水害復興記念碑」です。

「近藤長次郎顕彰碑」です。

亀山社中内で能力を発揮し、龍馬を助けた近藤長次郎の顕彰碑です。確か「饅頭屋」として「竜馬がゆく」とか「おーい、竜馬」にも出てましたよね。最期は隊規を破った罪で切腹に追い込まれてしまった人でした。

川べりも人が降りて行って遊べます。

眼鏡橋周辺は、良さそうなお店が多いのですが、カステラの「匠寛堂」というお店に入ってみました。

試食をいただきました!

皇室御用達と言われては、勤王ブロガーとしては買わざるをえない。無添加で甘さ控えめ、美味しく上品な味です。

次の目的地は鳴滝のシーボルト記念館があります。JR長崎駅からは路面電車で約10分くらいです(新中川町電停下車)そこから大体徒歩7分くらいで到着します。

上り坂をちょこちょこ曲がって上るので、けっこう疲れます。鳴滝までの通りをシーボルト通りと呼ぶようです。ただ「シーボルト記念館→」の標識がいっぱいあるので、迷うことはないと思います。

シーボルト宅跡

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1796年ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のバイエルンに生まれます。医学・博物学をこころざし、専門知識を身につけます。東洋学にも興味を抱くなるようになり、1823年オランダ人と偽って鎖国時代の長崎・出島に来日。出島のオランダ商館付き医官となります。

シーボルトはドイツ人だったため、発音の不正確さを幕府の通詞に見破られそうになりますが、巧みに言い逃れたとか。幕府の通詞の語学力も結構すごいものがあったんですね。

鳴滝塾(なるたきじゅく)跡

シーボルトが生涯こだわり続けた土地です。

鳴滝塾は1824年に、シーボルトが長崎郊外に設けた私塾で診療所も兼ねていました。

出島から外国人は出てはいけない時代に、特例中の特例で私塾の設立を認められたのです。シーボルトの医療技術が如何に卓越していたか、またその技術の日本人蘭学者への伝授が如何に期待されていたかが推し量れます。弟子には高名な高野長英、二宮敬作などがいます。

顔が汚れているのが面白い。シーボルトは血の気が多く、若い頃はしょっちゅう決闘をしていて、顔にも傷があったそうですね。

さあ、隣接する記念館へと向かいます。

シーボルト記念館では、シーボルトに関する興味深い展示がなされています。シーボルトの業績を顕彰するために、鳴滝塾跡の隣地に1989年に開設された記念館です。

医学だけでなく博物学者でもあったシーボルトは、あらゆる文物を収集し母国に送りました。しかしその中に(江戸参府の際、極秘に入手した)日本地図があったことが発覚してしまいます(シーボルト事件)。

当時の幕府は、国土防衛の観点から地図の持ち出しを国禁としていました。関係者は処罰され、シーボルトも国外退去の処分を受けてしまいます。1828年のことでした。

シーボルトは帰国後、当時の日本研究の集大成「日本」全7巻を発刊し、日本学の権威とされますが、長く再来日を希望し続けました。1853年のペリー遠征隊にも加わろうと試みて失敗しています。ようやく再来日がかなったのは、日本開国後の1859年のことでした。

シーボルト一家で記念撮影!

シーボルトは日本で一女をもうけています。相手の女性は「お滝」という人で、長崎遊女との説もあり、多くの作家がそのように描写しています。

 シーボルトが日本に残した一女は、まさしく波乱の生涯を送ることになります。人呼んで、「オランダお稲」。混血児として常に奇異の視線に晒されながらも、いつしか医学を志し、二宮敬作、大村益次郎らに師事。日本初の女医(産科医)として認められたのです。

オランダお稲

幕末の長州藩の蘭学者にして傑出した軍略家・大村益次郎とも、お稲は重要な関係を結びます。蘭学を志したお稲は益次郎に師事します。そして大阪で遭難した益次郎の最期を、お稲が看取ることになります。

靖国神社の大村益次郎

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