織田信長、徳川家康が武田勝頼を破った1575年の長篠の戦いを現地取材してきました。この戦いは鉄砲を効果的に使うことで、戦術革命を成し遂げた戦いとされます。
JR三河東郷駅
豊橋から三河東郷にJR飯田線でやってきました。無人駅ですね。
新城市に属します。しんしろと読みます。
何の絵かな?
足軽鉄砲隊のレリーフか!!
ここは1575年に武田勝頼軍と織田・徳川連合軍が対決した「長篠の戦い」の趨勢を決めた「設楽原(したらがはら)の戦い」の土地なのです。ここから150m高台に資料館があるので、まずそこに行ってみます。
設楽原歴史資料館
この像は岩瀬忠震(ただなり)。三河の人だったのか。
岩瀬は幕末期の傑出した外交官で、日米修好通商条約締結の実務面で大きな働きをしました。
しかし時の大老・井伊直弼に疎まれ、左遷。安政の大獄で永蟄居の処分を受け、44歳で不遇の最期を遂げています。
歴史資料館ではまず岩瀬忠震の展示を見ていきます。
有能で知られた老中・阿部正弘に目付に抜擢された忠震は、安政期の幕府の外交担当として、手がけた全ての条約を調印にこぎつけました。「日米修好通商条約」です。
後に島崎藤村も「夜明け前」で、忠震の功績を讃えています。それにしても幕末期においても、幕臣には本当に有能な人材は多かった。岩瀬忠震、川路聖謨、勝麟太郎、榎本武揚、小栗忠順など、人材の厚みは薩長を上回ってますね。幕藩体制下でも近代化はある程度は可能だったかもしれません。
忠震はロシアのプチャーチン、アメリカのハリスなどの、列強のタフな交渉相手の「カウンターパート」として、粘り強く交渉をまとめました。
ポーハタン号模型。この船上で日米条約が調印されました。この条約はいわゆる不平等条項があったため、後世の批判を浴びましたが、原案はもっと酷いものだったようで、忠震らが精一杯の外交知識で抵抗して、この案に落ち着いたのです。
さあ、ここからは長篠の戦い関連の展示を見ていきます。戦国の一大決戦となった「長篠の合戦」は三河・長篠城の争奪戦を発端とします。1575年、武田勝頼は1万5千の大軍で長篠城を包囲。
岐阜城の織田信長は、長篠城救援のために動きます。決戦地の設楽原に馬防柵を作るよう、大量の丸太と縄を準備させます。
朱塗りの甲冑。いわゆる「赤備え」です。精鋭部隊であることを示します。武田軍では山県昌景らが使用。大坂の陣では真田信繁(左衛門佐)、徳川軍では井伊家が用いたことでも有名です。
連吾川を挟んで、両軍が対峙し、長篠合戦の決戦が始まります。
設楽原決戦場
さて資料館を出て、設楽原へと向かいます。連吾川が見えて来ました。
この川を挟んで、両軍の最後の決戦が始まります。
設楽原はぬかるみの湿田が広がり、馬を動かせる場所も限られていました。
馬防柵
ここに織田・徳川連合軍は馬防柵を作ったのです。
これが有名な長篠合戦屏風絵図。真ん中に見える川が連吾川です。
信長は、強力な武田騎馬隊に対抗するために、当時の日本では異例の「野戦築城」をしたのです。
馬防柵の内側から足軽鉄砲隊が待ち構えます。
信長が準備した鉄砲は3000挺と言われています。諸説ありますが。
大量の鉄砲で迫り来る武田兵を迎撃します。
黒澤明の「影武者」の印象が強烈ですが、映画のような瞬殺でなく、8時間もの激闘だったようです。
また鉄砲三段撃ちの話が有名ですが、その話が出てきたのは実は江戸時代から。後世の創作とする説が強い。
しかし武田の被害は甚大で、多くの名だたる名将を失います。
毎年ここでは「設楽原決戦場まつり」が行われ、火縄銃の演武が行われます。
山県塚
山県昌景を弔う山県塚ですね。
ちょっと高台にあります!
山県隊は赤備えで、武田軍の中でも精強で知られていました。
撤退戦の中で、真田隊とともに討ち死にしたとされます。
馬防柵で弱気と見せて誘い出し、大量の鉄砲を有効に使って武田を制した、信長の見事な戦いでした。
資料館で見た山県隊の最期の浮世絵!すごい迫力。
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