JR長篠城駅

飯田線を北上し、長篠城駅にやってきました。

長篠城を巡礼していきます。日本100名城の一つ。100名城巡りとかまるで目指してないけど、いつの間にか半分くらいは行ってました。

長篠城そばにお食事出来る店がありました。

握り寿司ランチをいただいて気合いを入れます。

長篠城址・史跡保存館

すごいコインロッカー!これが今回の主役・鳥居強右衛門(すねえもん)です。

まずはここで長篠合戦の端緒となった、長篠城包囲戦について見学していきたいと思います。

これは徳川家臣で、長篠城を守った奥平貞昌に合戦後に嫁いだ亀姫(家康娘)の屋敷門。いきなりすごい。

1572冬から始まった武田信玄上洛コース。途中、三方ヶ原で徳川を粉砕。武田の快進撃を前に、信長もどうすることも出来ない状態だったが、年明けに信玄の病状が悪化。信玄は長篠城から甲府に戻る途中で病死した。

その後、長篠城の奥平氏は徳川方についた。

武田勝頼は長篠城奪還を狙って、1575年に1万5千の大軍で出兵。長篠城は完全に包囲された。写真は長篠城籠城の際に使われたという血染めの陣太鼓。

食糧庫も奪われて、敗北寸前の奥平勢。

奥平貞昌は鳥居強右衛門に命じ、家康と信長に救援を請いに行かせた。強右衛門は網を破って豊川を下り、岡崎まで50キロ近くを走破し、家康と信長に救援を依頼した。両将は快諾。連合軍の出兵が決まった。

強右衛門は直ちに引き返し、長篠城に戻ろうとしたところを武田方に捕われてしまった。

強右衛門は武田勝頼の前に引き出され、「援軍は来ぬから早く降参せよ、と叫べ!そうすれば命は助けてやろう」と誘われた。

強右衛門は城門に立つや、「援軍は野田城に着いたぞ!安心して城を守っておれ!」と叫んだ。怒った武田方は強右衛門を磔に処した。

数日後、織田・徳川連合軍は設楽原に着陣。有名な馬防柵で野戦築城の備えをする。

決戦前夜。大通寺の泉のそばで、敗北を覚悟した武田諸将は「別れの水盃」を交わす。

有名な設楽原合戦図屏風。

大量の火縄銃を備えた連合軍の前に、武田の有力諸将はことごとく討ち死に。勝頼は甲斐へと敗走した。
アメリカテキサス州独立戦争と、長篠合戦は類似性が指摘されています。メキシコ軍に包囲されたアラモ砦から救援を求めて脱出したのがジェームス・ボナムという若者。アメリカの鳥居強右衛門ですね。


長篠城址
土居とお堀です。

ここが長篠城本丸跡。

長篠城は三河・遠江国境に近い交通の要衝で、争奪戦が繰り返された土地でした。

宇連川と豊川に囲まれた断崖で、天然の要害となっていました。



アラモ砦のサンアントニオ市から贈られたライブオークの木です。


久邇宮良子女王が1918年に、設楽原から長篠を視察された際のお手植の松です。

良子女王はその後、昭和天皇に嫁ぎ、香淳皇后となります。

この後、資料館でもらった歴史探訪ウォーキングコースを歩いてみることにしました。だいたい3キロくらいで、私でも行けそうです。

馬場信房の墓

敗走する武田軍の殿(しんがり)を務め、討ち死にしました。この地に首が埋められたとか。いつの時代も殿は勇者の証です。

信房墓のそばに面白そうなものがあります。

ちょっとした草むらを越えて・・

中央構造線・長篠露頭

これです。確かに割れ目がある。

赤い長篠大橋が見えます。

中央構造線は日本最長の断層帯です。

諏訪湖の南から発し、静岡佐久間から愛知、紀伊半島、四国へと続きます。

長篠大橋にきました。

さっきまでいた場所が見えます。

あそこで長篠露頭が見えます。

ぶらぶら歩き、新東名高速の下を潜っていきます。

新昌寺というところにきました。

鳥居強右衛門の墓

勇者は死しても名を残すんですね。

その隣には戦没将の墓碑。

敵味方関わらず弔うところは、日本文化の美点ですね。墓を暴いてさらすような非情なことはしない。

再び新東名をくぐります。新東名は東名の渋滞緩和や、東名が災害などで遮断された際のセーフティネットとしても機能しています。


鳥居強右衛門磔死の碑

もともと大正元年に強右衛門が磔死した場所に建てられました。

その後、土地改良事業によって、この地に移されたそうです。

また畑の中を戻ります。

牛渕橋

左は豊川、右は宇連川が合流する箇所にあります。

で、この真ん中の森みたいのは長篠城址です。

なるほど。木しか見えないが、先ほどまであそこにいたんですね。

反対を向くと、新東名の下を宇連川が流れていきます。

JR鳥居駅

鳥居強右衛門の終焉の地ということからこの駅名がつけられました。

豊橋に戻り、新幹線で帰京します。

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