イタリア、ローマの旅行記です。
コロッセオ
ローマの象徴・コロッセオにやってきました。

「コロッセオがある限り、ローマも存在するだろう。コロッセオが崩れる時、ローマも終わりとなろう。が、ローマが終わる時は、世界の終わる時だ」という有名な言葉もあります。

紀元70年から建設が始められ、80年に完成したそうです。ウェスパシアヌス帝とその息子ティトゥス帝の時代でした。

周囲527メートル、高さ57メートルで5万人(もっと入った説もある)収容の巨大闘技場でした。東京ドームよりやや小さめですね。

外縁の部分が途中で無くなってるのは、闘技場としての役目を終えた中世以降、石材の採掘場と化したためです。

コロッセオは貴族の邸宅や教会(サンピエトロ大聖堂も)の石材としてリサイクルされていきました。

コロッセオは火山灰を利用したローマン・コンクリートを使用して造られました。ローマン・コンクリートはパンテオンなどでも使われ、耐久性の強さで知られています。

外側は4階から出来上がっています。

円柱は下からドーリス式、イオニア式、コリント式の各様式で彩られています。このアーチの部分にはかつては大理石彫刻が並んでいたと言われます。

↓これがドーリス式。一番シンプルです。

↓これがイオニア式。柱頭が渦巻き飾りになっているのが特徴です。

↓これがコリント式。柱頭にアカンスの葉の装飾が飾られます。

ローマでも最も人気のある観光スポットなので、早くも行列。

さて入場していきましょう。


ここでは剣闘士や猛獣の殺し合いなどの見世物が催され、その多くは残酷なものでした。主に午前中に猛獣ショー、午後に剣闘士の戦いが行われたと言います。水を入れて模擬海戦まで行われていた、という話もありますが、真偽のほどは分かりません。

映画「グラディエーター」でもお馴染みですね。

当時のローマは帝政でしたが、このような庶民のための娯楽施設で人気とりをすることによって、政治への不満をそらすことが必要でした。なんと入場料は無料だったのです。いわゆる「パンとサーカス」と呼ばれる民衆懐柔策ですね。

皇帝ネロの暴政の中、ローマ大火(西暦64年)や内乱という国難が続き、民衆の政治への不満が燻っていた時代でした。

客席は前列から偉い順になっていました。一番前は元老院議員、騎士階級席、裕福市民席、一般市民・女性・奴隷と続いていたそうです。

もちろん皇帝と家族の席は別格で、一段高いテラスにおかれました。

半月型にアリーナが復元されていますが、今は地下構造丸見えですね。


地下には剣闘士と戦わせる猛獣の檻が置かれていました。


檻は人力エレベーターでアリーナへと引き上げられたそうですね。

これ人力エレベーターの模型です。

象、ライオン、ワニなどと戦わされたというと残酷なイメージがありますが、実際には猛獣は鎖でつながれていたそうです。バトルというよりは狩のようなものだったようです。

剣闘士は死刑囚や捕虜などがつとめて、結果次第では市民権を得ることが出来ました。

しかし血なまぐさい見世物はキリスト教時代になると下火になり、廃止されてしまったそうです。

それに伴ってコロッセオも廃墟となり、石材提供の場となってしまったとか。

石だけでなくレンガが大量に使われているのが分かります。

レンガをローマン・コンクリートで固めたのでしょうか。

この巨大なスタジアムを、重機もない時代に十年たらずで建造できたのは様々な工夫があったことが分かりますね。

ここはショップです。

コロッセオという名前は、当時この傍らに立っていたネロ帝の巨像(コロッスス)に由来します。

当時は「アンフィシアター(円形闘技場)」と呼ばれていたそうです。

今夜もお客は満杯
そろそろ足を踏み鳴らし
開演のベル、待ち焦がれてる

コンスタンティヌス帝の凱旋門
315年にミルウィウス橋の戦いに勝利して凱旋したコンスタンティヌス帝を褒め称えるため、造られました。ミルウィウス橋の戦いはコンスタンティヌスの天下取りの戦いの一つです。西ローマ正帝マクセンティウスを撃破して溺死させました。

高さは約28メートルで、ローマ最大の凱旋門だそうです。パリのカルーゼル凱旋門のモデルとなりました。

コンスタンティヌスの偉大さを褒め称える言葉が書かれています。





表面の装飾は、トラヤヌス帝やハドリアヌス帝の建造物からのリサイクルも多いみたいです。中央通路西側面。トラヤヌス帝時代のものです。

↓こちらはハドリアヌス帝時代の浮彫です。北正面の左側・豚狩り、アポロ神犠牲です。

↓こちらもハドリアヌス帝時代の浮彫です。北正面の右側・ライオン狩り、ヘラクレス神犠牲です。ローマ帝国の全盛時・五賢帝の栄光って感じですね。

この後は、フォロ・ロマーノへと向かいます。コロッセオのすぐそばにフォロ・ロマーノがあります。
パラティーノの丘
まずはフォロ・ロマーノの全景を見下ろすために、パラティーノの丘へちょっとだけ上がっていきます。

パラティーノの丘は紀元前753年のローマ建国神話の舞台と言われています。

狼に育てられた双子の兄弟ロムルスがレムスを殺して、ローマを建国したとされます。


古代ローマ帝国時代には、歴代皇帝の邸宅が立ち並ぶ高級住宅街だったとか。




ルネッサンスの時代には富裕階級によって、美しい庭園がつくられました。


さあ、見どころのテラスに到着しました。

フォロ・ロマーノを一望できます。

ここは絶景です!

2000年前に既に100万都市だったローマ。

そのローマの中心がこのフォロ・ロマーノだったのです。

フォロ・ロマーノ
パラティーノの丘から降りて、実際にフォロ・ロマーノをまわっていきます。
「ティトゥス帝の凱旋門」です。

ユダヤ戦争の戦勝記念として、81年に建てられました。エルサレムを陥落させ、ローマを勝利に導いたティトゥス帝の凱旋式の様子がレリーフに刻まれています。

エルサレムの神殿から奪われたユダヤの燭台は、戦利品として凱旋式で誇示されました。

敗者を容赦なく晒すところは、大陸国家らしい冷徹さですね。

ティトゥス帝は在任わずか2年で病死しますが、在任中の紀元79年にヴェスビオ火山噴火によるポンペイ壊滅事件が発生。ティトゥス帝は救助活動に全力を尽くしました。

そのためか五賢帝以前の最良の皇帝という評価もあります。

これは「マクセンティウス帝のバジリカ」です。バジリカとは集会所のこと。

306年にマクセンティウス帝が建設を始め、コンスタンティヌス帝の時代に完成しました。今はレンガが剥き出しですが、当時は大理石など美しい石が張ってあり、屋根もありました。

これ、さっき登ってたパラティーノの丘のテラスです。


これは「ロムルスの神殿」です。

マクセンティウス帝が、夭逝した息子ロムルスに捧げるために建てた神殿です。未完だとか。

「アントニヌス・ピウス帝とファウスティーナの神殿」です。

五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝が皇后の死を悼み、141年に建てた神殿です。円柱と階段が元から残っているものです。中の教会は17世紀に建てられたものらしい。

「カストルとポルックスの神殿」です。

紀元前495年の「レギッルス湖畔の戦い」でローマ軍は勝利しますが、双子神のカストルとポルックスがこの戦いに勝利をもたらしたとされ、彼らに捧げるため建てられた神殿です。現在残る3本の柱は、紀元前6年のアウグストゥス帝による修復時のものらしい。

「ヴェスタの神殿」があります。

元は円形の神殿で、神殿内では「聖なる火」が灯され、炉とかまどの女神ヴェスタに捧げられていました。

ヴェスタの神殿のすぐそばに「ヴェスタの巫女の家」があります。

「聖なる火」を守っていた4人(のちに6人)の巫女たちが生活した住居です。

彼女たちは30歳で任を解かれるため、純潔であることが求められたそうです。(純潔を汚すと生き埋めの刑に処された!)

中庭には巫女たちの像が飾られていて美しい。

頭部が破壊された巫女はキリスト教に改宗した巫女らしいですね。



「カエサルの神殿」です。

紀元前44年、ブルータスら元老院議員によって暗殺されたのがユリウス・カエサル。ローマ史上最大のスターです。

カエサルの火葬はここで行われ、子分のアントニウスが追悼演説をした場所に、アウグストゥス帝が神殿を建てました。その残骸です。カエサルの命日にはこの火葬場所に花束が置かれるそうですね。

「ユリウスのバジリカ」です。

名前でわかる通りユリウス・カエサルが建設を始め、アウグストゥス帝が完成させました。主に司法・行政に利用され、当時は4つの裁判所があったとか。
「サトゥルヌスの神殿」です。

ここには国家の財宝が収められていたとか。現在残っているのは神殿の入口部分だった8本の円柱で、紀元前42年の再建だそうです。

再建でも紀元前というところが、ローマ史の途轍もないところですね。

これが「クーリア(元老院議事堂)」です。

ここが政治の中心だったんですね。カエサル、アウグストゥスなどによって何度も再建され、現在のものは20世紀の復元です。
「セヴェルス帝の凱旋門」です。

203年に建てられました。セヴェルス帝が勝利したパルティアとの戦いを描いたパネルがあります。
凱旋門の左脇後方に「ローマのへそ」があります。帝都ローマの基準点で、古代ローマの市街地測量の原点となった地点です。

フォロ・ロマーノの多くの建物が廃墟となったのは、コロッセオと同様にローマ人自身が石材としてリサイクルしたためらしいですね。

見ごたえたっぷりでした。



コロッセオ、フォロ・ロマーノ見学の後はそこいらを散策していきます。
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
これがヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂です。

イタリアの国民国家としての統一は遅く、日本やドイツとほぼ同時期の1861年でした。この白亜の殿堂は、初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世を記念して、1911年に完成しました。

ローマっ子はもっぱら愛称の「ヴィットリアーノ」という呼び方をしています。



中央の騎馬像がヴィットリオ・エマヌエーレ2世です。

サルデーニャ王国軍を率い、イタリア統一戦争を戦いました。

同じくイタリア統一を目指すガリバルディから占領地を譲られ、1861年にイタリア国王に選ばれました。

やがて彼は王国の国父と呼ばれる存在となりました。

台座中央には「ローマの像」の寓意像があります。


その足元には第一次大戦の「無名戦士の像」がありました。儀仗兵が常時これを守ります。第一次大戦にはイタリアは、オーストリアに実効支配されていた旧ヴェネツィア共和国領(未回収のイタリア)を奪還すべく、連合国側で参戦。長く苦しい塹壕戦を戦いました。

この建物はできた当初は「入れ歯」だとか「ウエディングケーキ」「タイプライター」などと酷評されました。

が、今では立派なローマのランドマークとなっています。


ヴェネツィア広場が見下ろせます。左側の茶色の建物はヴェネツィア宮殿です。

このヴェネツィア宮殿の2階のバルコニーで、ベニート・ムッソリーニは何度も演説を行いました。第二次大戦の参戦もここで群衆に告げられました。

ムッソリーニはヴァチカン問題の解決や、シチリア・マフィアの殲滅など、おそらく彼でなければ出来なかったような業績もあり、ドイツにおけるヒトラーほどタブー視されてはいません。

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
ヴェネツィア広場の付近に多数の美術品で知られる教会があります。

教会の前には「ミネルヴァのひよこ」と呼ばれる小さなオベリスクがあります。

紀元前6世紀のエジプトのもので、この教会の中庭で見つかったものだそうです。

ちなみにこの台座の象さんはベルニーニの工房作だそうです。


内装はローマ唯一のゴシック様式を持ちます。天井のブルーと、金色の星の配色が最高にいいですね!

教会内部は小美術館と言えるほど、ルネッサンス芸術が溢れています。が、私が行った時は修復中で入場できませんでした。(隙間から天井だけ撮影した)見たかったミケランジェロ「あがないの主、キリスト」は見れませんでした。

今回のローマ紀行での最大の無念は、このミネルヴァ教会でした。2回も行ってみたんですけど、2回とも入れなかった。ヤケを起こして?ミネルヴァ教会のそばのジェラート屋でアイス食べました。


ジェズ教会
もう一つこの近辺にはジェズ教会という素晴らしい教会があります。

日本でも有名なローマ・カトリック「イエズス会」の総本山であった教会です。あのフランシスコ・ザビエルが眠る教会でもあります。

ジェズとは「イエス」を意味します。

安土桃山時代、九州のキリシタン大名によってローマにおくられた「天正遣欧使節」の4人の少年もこの教会に立ち寄っています。


クーポラのフレスコ画はジョバンニ・バッティスタ・ガウッリの作です。

ガウッリの天井画「キリストの御名の勝利」も素晴らしい。

鏡が置いてあって、天井をじっくり見れます。



ぶらぶら散策していきます。海外の街並み散策って楽しいんですよね。

土産物屋をちょっと覗いてみます。ローマには銀幕の大スターがいっぱい。

バルベリーニ広場
バルベリーニ広場に行き着きました。

バルベリーニ広場中央にあるベルニーニ「トリトーネの噴水」です。

ギリシャ神話の海神トリトンのことで、法螺貝を吹いて水を自由に操る神です。


ここはバルベリーニ宮殿です。今は美術館として利用されています。古典名画も多いこの美術館を鑑賞する時間はなく、ここも次回の宿題となりました。

この入り口は、映画「ローマの休日」でアン王女が滞在する大使館として使われました。

バルベリーニ広場からヴェネト通りに向かうところにはベルニーニ「蜂の噴水」がありますね。

二枚貝に3匹の蜂がとまっており、それらの下から水が供給されているというデザインです。


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