田原坂巡り【西南戦争】

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熊本駅

熊本駅前にやってきました。

熊本のキャラといえば「おてもやん」です。熊本民謡で歌われるキャラといいます。

そして「くまモン」。新旧二大キャラに会えてよかった。

木葉駅まで移動して、ここから西南戦争巡りをしていきたいと思います。

高月官軍墓地

西南戦争の最大の激戦地として、ドラマや映画にも取り上げられるのが「田原坂の戦い」です。

高月官軍墓地は、政府軍で亡くなられた983名の戦士を祀っています。

この多くの墓碑から、西南戦争がとてつもない激戦であったことがうかがえます。

西南戦争とは、薩摩の士族によって1877年に起こった明治政府への反乱です。

明治政府は急速な近代化を進め、「名字帯刀」「俸禄」などの士族の特権を次々に廃止していきました。そのため、全国で不平士族による反乱が起きました。西南戦争はその士族反乱の、最大にして最後の戦いです。

薩摩士族は、カリスマとなっていた西郷隆盛陸軍大将を旗印として、1877年2月に挙兵。熊本城に猛攻を加えます。

明治政府は薩摩軍の動きを素早く察知し、これを征伐するために九州に出兵します。

ここは官軍の征討総督有栖川宮の督戦地のようです。宮様が司令官となり、戦場を視察しました。

西南戦争の勃発後、西郷隆盛陸軍大将は役職を剥奪され、薩軍は「賊軍」となります。

正念寺

国道沿いに正念寺というお寺がありました。

ここは田原坂に近いこともあって、官軍の病院として使われました。

今も弾痕が残ります。

またここには後に日本赤十字の元となる博愛社が設置され、博愛社設立後は敵味方分け隔てなく治療が行われました。

博愛社を設立したのは、元老院議員の佐野常民という人物でした。

田原坂

ここから西南戦争、最大の激戦地・田原坂を上がっていきます。

田原坂は、長さ1.5km、標高差60メートルのゆるやかな坂です。

熊本城を目指す官軍小倉連隊と薩摩軍が、3月4日から十七昼夜も一進一退を繰り返した戦場です。

雨は降る降る人馬は濡るる

越すに越されぬ田原坂

ここは玉名から熊本へ大砲を運ぶ唯一のルートで、確実な会敵の場所でした。

田原坂は切り通しになっており、薩軍は官軍に両側から狙い撃ちや抜刀攻撃を仕掛けました。

連日の雨で、文字通り泥沼の戦場となりました。

やがて雨は官軍に味方します。薩摩軍の銃は雨に濡れると不発になります。

次第に優勢になった官軍は総攻撃を行い、ついに田原坂を制しました。これによって西南戦争の帰趨も、大きく官軍優位に傾きました。

田原坂公園

田原坂を登り切りました。坂の頂上に公園があります。

田原坂公園の美少年像です。

西郷の側近であった村田新八の息子がモデルとか。

頂上から見た三の坂です。

この地の戦いだけで西南戦役全体の4分の1の死者が出る、文字通り死闘となったのです。

戦没者慰霊碑には官軍薩軍全ての戦没者が記名されます。

激戦地を展望します。

ここで田原坂饅頭をいただきました。この手のネーミング商品に弱く、すぐ飛びついてしまいます。

田原坂西南戦争資料館

両軍が使用した四斤山砲です。フランス製らしい。

西郷隆盛は薩摩士族に推され、心ならずも挙兵します。「政府に尋問の筋これあり」と。

薩摩軍は熊本城を攻撃しますが、官軍の守りは固く落としきれませんでした。そこで主戦場を田原坂に移すことになります。

田原坂セット再現されてました。迫力あります。

七本柿木台場薩軍墓地

七本薩軍墓地です。

七本官軍墓地

七本の官軍墓地。同じ七本の墓地でも賊軍とされた薩軍との差が感じられる扱いですね。

官軍も薩軍も、日本を思う心はいっしょだったと思います。

英霊に黙って手を合わせたいと思います。

官軍墓地近くの農家のおやっさんが「ひとつどうです?」とスイカくれた!瑞々しく激ウマ!感謝です。

無人の田原坂駅に到着しました。

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