羽田空港
秋の京阪へ新幹線で行こうかと思いましたが、今回は空路を選択。
いざ、出発です。
マウント富士が見えます。
伊丹空港
いつも新幹線なので、意外にも伊丹空港は初めて来ました。
モノレールで京都方面に向かいます。
車窓から太陽の塔!こんなところにあったか。岡本太郎作。私にとっては大阪万博というより、「ブーメランスクエアーを喰らった影道総帥が吹っ飛ばされた場所」としての記憶の方が強いですね。
大阪と京都の府境にある大山崎町に行ってみたいと思います。阪急線大山崎駅に到着しました。
大山崎町歴史資料館です。大山崎の歴史を知ることができます。千利休の茶室・待庵の複製が見られます。複製なのに撮影禁止でした。
大山崎の油売りのレリーフです。この地では平安時代の末から荏胡麻油生産が活発化し、鎌倉時代には油座が結成されました。室町時代には大山崎油は西日本一帯を独占販売するほどになりました。大山崎は幕府から自治権を認められ自治都市として独自の発展を遂げました。
その当時の様子は司馬遼太郎の「国盗物語」の中にも描かれています。美濃のマムシと呼ばれた下剋上大名・斎藤道三は大山崎の油売りから身を起こし、美濃の国盗りを成功させたとされていました。(これは現在の史料では否定されています)
豊臣秀吉所用の兜(複製)です。秀吉はこの山崎で「明智討ち」を成し遂げ、天下取りをスタートさせるのです。
JR山崎駅前まで歩いてきました。
駅のまん前に妙喜庵(待庵)があります。山崎合戦で勝利した秀吉は、この地に千利休を呼び寄せ、住まわせました。利休屋敷に設けられた小間の茶室がここ、妙喜庵に伝わることになったと考えられます。
千利休が唯一残した茶室といわれる国宝です。拝観は要予約のため、見れませんでした。
JR山崎駅からアサヒビール大山崎山荘美術館へ無料送迎バスが出ています。
大山崎山荘美術館
トンネルをくぐっていくんですね。琅玕洞(ろうかんどう)というトンネルだそうです。
アサヒビール大山崎山荘美術館は、関西の実業家・加賀正太郎が大正から昭和初期にかけ建設した「大山崎山荘」を創建当時の姿に修復し、1996年4月に開館したもの。
平成になってから修復されたんですね。
美術館本館です。
この本館は加賀正太郎が別荘として設計し、「大山崎山荘」と名づけました。
加賀正太郎は若き日に欧州に遊学しており、イギリス建築に着想を得たらしい。
栖霞楼(せいかろう)という物見塔です。山荘に先駆けて1915年に建てられたそうです。
加賀正太郎はこの塔の上から工事を監督したと言われています。
山荘美術館内に入っていきます。館内は撮影禁止ですが、ステンドグラスや壁面装飾など大正洋館の意匠は見事です。
本館2階にはテラスがあります。
美しい風景を眼下にお茶を楽しめます。(飲まなかったけど)
こちらは1階のテラスです。
山手館へと続く通路です。
ちなみに美術品ですが、モネの睡蓮コレクションなどありました。
その他、河井寛次郎、濱田庄司らの陶芸作品も楽しめました。
こちらが山荘庭園です。
四季折々の色彩美を堪能できます。
宝積寺
宝積寺というお寺に来ました。秀吉が山崎合戦の時に、一時陣所を張ったところだそうな。
宝積寺三重塔です。桃山時代。
秀吉一夜之塔?
ご本堂のようです。
秀吉出世石。ここに腰掛けたとかかな。
宝積寺石造五重塔。鎌倉時代です。
天王山
宝積寺からそのまま天王山へハイキングに行けます。
天王山と言えば、今でもスポーツや政治の大決戦を表す言葉となっています。
標高は270mですが、けっこうキツいですよ。
天王山が「天下分け目」の意味を持つようになったのはやはり羽柴秀吉VS明智光秀の「山崎の戦い」からですね。
実際には天王山の争奪戦は行われず、麓の低地での野戦が行われました。
天王山登山コースには「秀吉の道」というパネルがあります。「中国大返し」ですね。
1582年6月2日、織田信長は京都本能寺にて家臣・明智日向守の謀反にあい、非業の死を遂げました。
羽柴秀吉は毛利攻めの最中で、備中高松城を水攻めで包囲中でした。秀吉陣地に明智から毛利への密使が紛れ込み、秀吉はいち早く信長の死を知ることになります。
秀吉は京へ引き返し「明智討ち」をすると決断。信長の死を秘して、毛利と和睦します。
秀吉軍は6月7日か8日には姫路城に入り、軍備を整えます。そして13日にこの山崎の地で、光秀と天下分け目の決戦を行うのです。230Kmにも及ぶ、この歴史的行軍を「中国大返し」と言います。まるでナポレオンの軍隊みたいですね。
秀吉の旗立松です。秀吉は味方の士気を高めるため、この松に軍旗を掲げたそうです。
今の松は3代目らしいけど。
旗立松展望台です。
一望して山崎が交通の要衝と分かりますね。
本能寺の変当時、信長配下の武将は各地に転戦しており、すぐには上洛出来ないはずでした。
ところが秀吉軍が6月10日には尼崎にまで戻って来ていると知った光秀は、慌てて仲間を募ります。
しかし頼みとした筒井順慶や細川藤孝らは日和って、参陣しませんでした。やむなく光秀軍一万六千は6月12日に天王山東側に着陣。
一方、秀吉は信長三男・信孝や丹羽長秀、高山右近、中川清秀らを味方につけ、総勢三万を揃えました。
光秀軍の倍の戦力を誇る羽柴勢は優位に戦いを進めます。
羽柴勢は淀川沿いの激戦を制し、光秀は敗走します。
わずか三時間ほどで勝負は決まりました。
光秀は本拠地の近江坂本城に戻る途上、山科小来栖村で落武者狩りに遭い、非業の死を遂げました。
こちらは禁門の変十七烈士の墓です。
時代は飛んで、幕末の1864年。過激な尊皇攘夷を疎まれた長州藩は京を追われます。新選組による池田屋事件も起こり、長州軍は激昂。京に攻め入ります。これが禁門の変です。
しかし薩摩・会津の猛攻に耐えられず、長州軍は敗走。長州側の十七人の志士は、この天王山山中で自害して果てます。
長州の指導者で、元久留米藩士の真木和泉の墓です。
こちらは酒解神社です。
ご本堂。
鎌倉時代の神輿庫が今も残ります。
ここが天王山山頂部です。
ここに秀吉は山崎城を作り、大阪城が出来るまでの拠点とします。
まさに山崎・天王山が秀吉の天下どりの第一歩となったのです。
大山崎が一望できる絶景かな。
天王山を下山していきます。
離宮八幡宮
山崎駅そばの離宮八幡宮にやってきました。平安時代初期に清和天皇の命で、宇佐八幡宮から遷座されたとのこと。
ここは惣門です。寛永期に再建されたものの貴重な生き残りです。多くは禁門の変で焼失してしまいました。
塔心礎です。かつてあった五重塔の基礎の部分らしい。
菅原道真の腰掛け石。
大山崎油座の元締めになったのが、この離宮八幡宮でした。
離宮八幡宮の神官たちは神人と呼ばれました。
中世には離宮八幡は油の製造・販売の独占権を認められます。
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