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小5下巻16回「大正時代」

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f:id:mejirorock:20210313015824p:plain 小5下巻16回

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今回は大正時代です。大正は15年までと、明治・昭和に比べてやや期間が短いんですね。これは大正天皇が病弱、短命であったためです。(大正後期には、皇太子が摂政となっていた)

しかし重要事件がけっこうありますので、ポイントを押さえておきましょう。

 

第一次世界大戦

バルカン半島を中心とする列強の勢力争いから勃発したのが、第一次世界大戦です。「クリスマスまでには決着がつくだろう」との思惑は狂い、総力戦・持久戦へとエスカレートしていって、ヨーロッパ諸国を事実上壊滅させる大戦争となってしまいました。

何しろロシア・ロマノフ朝、ドイツ・ホーエンツォレルン朝、オーストリア・ハプスブルグ朝、トルコ・オスマン朝の4つの大帝国が滅亡するという、衝撃的な戦いだったのです。

 

欧州の細かい政治情勢は、中学入試では問われません。出るのはきっかけの「サラエヴォ事件」だけ。しかし対立構造だけは確認しておきましょう。

 

同盟国 ドイツ オーストリア トルコ・・

VS

連合国 イギリス フランス ロシア・・(日本、のちにアメリカ)

 

日本の参戦理由を押さえておきましょう。予習シリーズでは日英同盟を「口実」に、などと悪意を感じさせる表記になってますが。こういうのを自虐史観と言います。当初、日本政府は遠く欧州の大戦に巻き込まれることに消極的でした。(開戦直後に「中立」を表明している)

しかし「同盟国イギリスとの情宜と国益の観点」から、大隈内閣は参戦を決めました。後にイギリスの要請により、なんと地中海にまで出兵させられています。とにかく覚えておくべきことは「日本はイギリスの味方をして、ドイツと戦った」ということです。

 

またこのデータも組分けには出されますので、押さえておきましょう。

赤と青のどっちが輸出か、という問題です。

大戦中、欧州諸国は戦争にかかりっきりで、アジア市場はガラ空きになりました。そのすきに、今ほど国際競争力が無かった日本製品も食い込むことが出来るようになりました。

また第一次大戦は総力戦で、しかもドイツは潜水艦による無差別攻撃を行いましたから、連合国側の船舶も数多く撃沈されました。そこで日本に注文が来ます。大戦中は造船・海運業中心に大いにもうかり、輸出も増えます。またこれを「大戦景気」と言います。答は青グラフですね。

 

第一次大戦は4年にわたっての死闘の果てに、連合国の勝利で終わります。1919年パリ郊外のベルサイユ宮殿で、対ドイツ「ベルサイユ条約」が締結されました。(年代暗記:行く行くパリのベルサイユ

この条約のあまりに報復的な内容(ドイツは天文学的な賠償金を課せられる)が、ドイツの恨みを生み、ナチス政権の誕生→第二次大戦へと繋がったという批判があります。

 

ベルサイユ宮殿の「鏡の間」。ここで講和条約の調印が行われる。

⇩この椅子でベルサイユ条約が調印された。

 

大正デモクラシー

大正というと「リベラル」の時代というイメージがあります。この時代の政治運動を「大正デモクラシー」と言います。デモクラシーとは現代では「民主主義」と訳されますが、当時はそういう語は存在せず、吉野作造博士の提唱した「民本主義」という語で理解されていました。

 

大正デモクラシーの政策目標は2つでした。

①政党政治の実現

当時はまだ「藩閥政治」の時代でした。つまり選挙は実施されますが、その選挙で勝ったとしても、内閣総理大臣にはなれない。内閣総理大臣になれるのは、薩摩藩・長州藩など藩閥関係者が主でした。その反発から「護憲運動」が起きます。

「国政選挙の勝利者(与党)が、内閣を組織する(政党政治)」という、現在では当たり前のことが当時はそうでなく、大きな政治目標でした。

これが実現したのは1918年の原敬内閣(与党・立憲政友会を中心に組閣)

でした。「ロシア革命→シベリア出兵(対露革命の干渉出兵)→米騒動→寺内内閣が責任をとって辞職→原敬内閣組閣」の流れを覚えておきましょう。

 

原敬首相。「平民宰相」と呼ばれる。

⇩盛岡市内の原敬生家。戊辰戦争の賊軍となった盛岡藩出身ながら、ずば抜けた実力で頭角を現した。

 

 

富山県魚津市の「米騒動発祥の地」。旧第十二銀行の米蔵です。ここに漁師のおかみさんたちが押し寄せ、「越中女一揆」と新聞報道されたことにより、騒動が全国に広がっていく。

 

②男子普通選挙の実現

当時はまだ選挙資格(納税額による)に制限がありました。原敬でさえ「制限選挙」を維持する考えでした。

この制限が撤廃され、いわゆる「普通選挙」が実現したのは1925年 加藤高明内閣普通選挙法でした。「満25歳以上のすべての男子」に選挙権が与えられたのです。(年代暗記:行くよ選挙に25歳)ちなみに女子の参政権実現は、その20年後の1945年です。

当時の考えでは、「選挙権」は「兵役の義務」とのバーターでした。女子は兵役を免除される代わりに、選挙権もないというわけ。日本が遅れているわけでなく、国際的にそうだったのです。

 

しかしここで大きな問題が起こります。ロシア革命による世界的な「社会主義・共産主義ブーム」です。今でこそ社会主義というと「ソ連・中国共産党・北朝鮮→独裁の恐怖政治」と、何か怖い印象がありますが、当時は肯定的に捉えられていました。「貧富の格差のない、平等な社会の実現」という甘い理想に、世界中の人々が酔いしれました。日本も都市のインテリ層中心に熱狂的なシンパが生まれ、革命前夜の雰囲気が漂います。

 

これには各国の支配者層も深刻な危機感を覚え、各国で「共産党非合法化」が行われます。まあ、それも国際的な潮流だったんですね。ロシア革命の惨劇を見たらね。ロシアでは、ニコライ二世一家は子女四名含め全員が銃殺され、国家体制が根本的に覆されました。断じてその二の舞は踏まない。「日本革命」など起こさせてはならないと考えたわけです。ヒートアップする社会主義運動に、ブレーキがかけられます。これが1925年 加藤高明内閣の治安維持法です。

この法律は、普通選挙を認めたことによる社会主義勢力の伸張を恐れて制定されたもの。なにしろ「普通選挙」ということは、革命思想家も一票を持つということだから。この「治安維持法」は、後には社会主義者だけでなく自由主義者弾圧に悪用されます。運用のまずさにより、天下の悪法となっていくわけです。