今回は大正時代です。大正は15年までで明治・昭和に比べてやや期間が短いんですね。これは大正天皇が病弱、短命であったためです。(大正後期には、皇太子が摂政となっていた)しかし重要事件がけっこうありますので、ポイントを押さえておきましょう。
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第一次世界大戦
大戦のはじまり
バルカン半島を中心とする列強の勢力争いから勃発したのが、第一次世界大戦です。きっかけは1914年6月のサラエボ事件でした。オーストリア皇帝の後継であったフェルディナント夫妻が、サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)でセルビアという国の暗殺者グループの手によって暗殺されたのでした。
翌月、オーストリアはセルビアに宣戦布告。それに対して、セルビアを保護していたロシアは総動員令を発令します。それに反応したオーストリアの同盟国・ドイツはロシアに宣戦布告・・とドミノ倒しのように戦いが始まりました。
「クリスマスまでには決着がつくだろう」との当初の思惑は狂い、総力戦・持久戦へとエスカレートしていって、ヨーロッパ諸国を事実上壊滅させる大戦争となってしまいました。何しろロシア・ロマノフ朝、ドイツ・ホーエンツォレルン朝、オーストリア・ハプスブルグ朝、トルコ・オスマン朝の4つの大帝国が滅亡するという、衝撃的な戦いだったのです。
欧州の細かい政治情勢は、中学入試では問われません。出るのはきっかけの「サラエボ事件」だけ。しかし対立構造だけは確認しておきましょう。
同盟国 ドイツ、オーストリア、オスマントルコ・・
VS
連合国 イギリス、フランス、ロシア、日本、・・(のちにアメリカ)
第一次大戦は1600万人もの犠牲者を出した史上最大の戦争の一つ。大量殺戮兵器を惜しげなく投入した近現代戦の幕開けでした。
機関銃の本格運用が全てを変えました。それまでの歩兵や騎兵の突撃戦法では、待ち構える機関銃の攻撃にまとめてなぎ倒されてしまいました。
フランス軍は開戦当初の8月20日から23日までの間に4万人の戦死者を出し、うち22日だけで2万7千人の損害を出しました。それまでの戦争とはケタが違う犠牲者を出す、恐るべき戦いの幕開けでした。
長期化する戦局を打開するために、新兵器が投入されました。その一つが戦車です。
飛行機も使われるようになりました。ライト兄弟による発明からわずか10年。最初は偵察用に、次第に戦闘や爆撃にも使われるようになりました。
海軍力でイギリスに勝てないドイツは、Uボートと呼ばれる潜水艦を投入し、通商破壊を行いました。
ドイツ潜水艦の無差別攻撃は、アメリカの怒りをかい、アメリカ参戦(1917年)の大きな要因となりました。
毒ガスも使用されました。最初にドイツ軍が塩素ガスを使用し、1日で5000人の死者が出ました。連合国軍もより毒性の強いホスゲンで反撃し、双方が防毒マスクをつけて戦うようになりました。
また大戦中の1918年から大流行したインフルエンザ「スペインかぜ」は、世界中で推定1億人の死亡者を出したと言われます。最初はアメリカで起こったと思われますが、アメリカの大戦参戦によってヨーロッパにも蔓延したと考えられます。
日本でも大流行し、40〜45万人ほどの死者が出たと考えられます。
日本の参戦と二十一か条の要求
日本の参戦理由を押さえておきましょう。予習シリーズでは日英同盟を口実にした、などと悪意を感じさせる表記になってますが、日本政府内には遠く欧州の大戦に巻き込まれることへの異論が存在しました。イギリスの本音は
日本にドイツを叩いてほしい!でも日本の力が強くなり過ぎるのは防ぎたい!
という調子のいいものでしたが、日英は最終的には折り合い、開戦から1月遅れで日本は参戦することになりました。当時の総理大臣は76歳の大隈重信でした。
日本はイギリス側の要請に基づいて、アジア・太平洋におけるドイツ軍拠点を攻撃・占領しました。
また1917年にドイツ軍の潜水艦による商船攻撃が活発化すると、連合国からの要請によって日本海軍は「地中海における船団護衛」の任につきました。
地中海ってヨーロッパじゃないの?遠くない?
遠いよね。日本海軍は日本近海で戦うことを想定されて作られた軍隊。地中海までよく行けたよ。
日本の地中海護衛艦隊(第二特務艦隊)の危険をかえりみぬ勇敢な働きは、連合諸国の絶大な信頼を受け、英国国王ジョージ5世から勲章が与えられるほどでした。とにかく覚えておくべきことは「日本はイギリスの味方をして、ドイツと戦った」ということです。
二十一か条の要求
この要求は「第一次大戦で欧米列強の目がアジアから離れているスキに、日本が中国に無理矢理突きつけた要求」として評判が悪い。
日本が最も重視したのは、第2号「旅順・大連を借り受ける期間と、南満州鉄道の権利の期間を99年延長する」でした。
日本がこれらの権利を得たのは、日露戦争の結果によってだった。
ポーツマス条約の内容と同じだね。
旅順大連や南満州鉄道の期限は、1923年までと決められていました。しかし日露戦争で大きな犠牲を払って得た満州での権益を簡単に手放すわけにはいきません。この第2号の実現こそが、二十一か条の要求の核心部分でした。英米仏露の欧米列強も「日本の特殊権益」としてほぼ容認しました。
「すでに得ていた権利の延長」がメインの内容だったので、そこまで批判されるものでも無かったんだけど、中国政府に悪宣伝されてしまって、印象が悪くなってしまった。
欧米のみなさ〜ん!日本は悪いんですよ〜!
国際社会では今も昔も声のデカい者の意見が通る。日本人はあまり反論しないからね。反論しなければ認めたことになる。
ロシア革命
第一次大戦中の1917年、ロシアで世界初の社会主義革命「ロシア革命」が起こりました。
社会主義ってなに?
身分や貧富の差がない、みんなが平等な社会さ。企業や農地をすべて国が管理するんだ。
素晴らしい社会じゃん。
でも現実に存在する社会主義の国って、中国や北朝鮮なんだよ。どう思う?
ああ〜。自由じゃない感じかな?少なくとも日本よりは不自由な国。
そうだね。なかなか理想通りはいかないんだ。
社会主義に対して、日本やアメリカなどの自由な競争のある社会(ただし貧富の格差もある社会)を資本主義といいます。
資本主義と社会主義は根本から相容れぬ思想であり、資本主義国にとってはロシア革命の成功は脅威でした。英米日仏ら資本主義諸国は、ロシア革命勢力を「敵認定」し、警戒を強めていきます。
ロシア革命勢力は内戦の末、1922年にソビエト社会主義共和国連邦を建国しました。
1918年、日本やアメリカ、イギリスなどの資本主義国は、社会主義の広がりを恐れて、ロシア東部のシベリアに出兵(シベリア出兵)し、革命を失敗させようとしました。
大戦後の世界
第一次大戦は4年にわたっての死闘の果てに、連合国の勝利で終わります。
1919年フランスでパリ講和会議が開かれます。パリ郊外のベルサイユ宮殿で、対ドイツ「ベルサイユ条約」が締結されました。(年代暗記:行く行くパリのベルサイユ)
この条約のあまりに報復的な内容(ドイツは天文学的な賠償金を課せられた)がドイツの恨みを買い、ナチス政権の誕生→第二次大戦へと繋がったという批判があります。
でもこの宮殿にマリーアントワネットやオスカルがいたと思うと感動するよ。
漫画と史実がごっちゃになってませんか?
またアメリカ大統領ウィルソンの提案で、世界の平和を守るための国際組織「国際連盟」を設立することになりました。
国際連合じゃないの?
間違えやすいけど、この時出来たのは国際連盟。
大戦後の民族自決運動の盛り上がりから、朝鮮半島では三・一独立運動、中国では五・四運動が起こりました。
第一次世界大戦と日本
このデータもよく出されますので、押さえておきましょう。赤と青のどっちが輸出か、という問題です。
大戦中、欧州諸国は戦争にかかりっきりで、アジア市場はガラ空きになりました。そのすきに、今ほど国際競争力が無かった日本製品も食い込むことが出来るようになりました。
大戦をきっかけに日本経済は急成長した。農業国から工業国へと発展していったんだ。
戦争をきっかけに発展するなんて!
何か皮肉だね。でも実はよくあることなんだ。
また第一次大戦中のドイツ潜水艦による無差別攻撃のために、連合国側の船舶も数多く撃沈されました。そこで日本に注文が来ます。大戦中は造船・海運業中心に大いにもうかり、輸出も増えます。これは「大戦景気」と呼ばれました。
しかし大戦が終わりヨーロッパ諸国が復活すると、日本はあっさり貿易赤字に戻りました。成金の多くも没落していきます。
そんな時に巨大地震が関東を襲いました。
1923年9月1日に南関東を襲った関東大震災です。地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから大火災につながり、10万人以上の犠牲者を出す惨事となりました。国家予算1年分を上回る被害額が出たため、日本経済は大きな打撃を受けました。
大正デモクラシー
大正というと「リベラル」の時代というイメージがあります。この時代の政治運動を「大正デモクラシー」と言います。デモクラシーとは現代では「民主主義」と訳されますが、当時は東京帝国大学の吉野作造博士の提唱した「民本主義」という語で理解されていました。
大正デモクラシーの政治目標は次の2つでした。
①政党政治の実現
②普通選挙の実現
政党政治の実現
当時はまだ「藩閥政治」の時代でした。内閣総理大臣になれるのは、薩摩藩・長州藩など藩閥関係者が主でした。つまり国政選挙は実施されますが、その選挙で勝ったとしても内閣を組閣することが出来ない。
その反発から「護憲運動」が起きます。政治家の尾崎行雄や犬養毅は「憲政の神様」と呼ばれました。
「国政選挙の勝利者(与党)が、内閣を組織する(政党内閣)」という、現在では当たり前のことが当時はそうでなく、大きな政治目標でした。
これが実現したのは1918年の原敬内閣(与党・立憲政友会を中心に組閣)でした。
政党内閣実現までの流れを覚えておきましょう。並びかえ問題が出るかも。
1917年に起きた世界初の社会主義革命は世界中に大きな影響を与えました。
日本やアメリカなどの資本主義国は革命の広がりを恐れて、ロシア東部シベリアに出兵を決めます。
シベリア出兵となると、兵隊さんたちのために大量の食料が必要になります。それを見越した米商人たちが、米の買い占めや売り惜しみをしたために、米の価格が大きく上がってしまいました。
1918年7月、富山県魚津市の漁村の主婦たちが、米屋などに安売りを求めて押しかけました。
この事件が「越中女一揆」と新聞に報道されると、たちまち打ちこわしは全国に広がりました。これを米騒動といいます。
約50日間も数百万人が参加して続いた米騒動を押さえるため、寺内正毅内閣は軍を出動させざるを得ませんでした。米騒動が収束した後、寺内内閣は責任をとって総辞職します。
代わって1918年9月に組閣したのが原敬でした。原内閣は軍部大臣以外の大臣をすべて立憲政友会のメンバーで占めるという初の本格的政党内閣でした。
「ロシア革命→シベリア出兵→米騒動→寺内内閣総辞職→原敬内閣組閣」の流れを覚えておきましょう。
普通選挙法と治安維持法
当時はまだ選挙資格(納税額による)に制限がありました。この制限が撤廃され、いわゆる「普通選挙」が実現したのは、1925年加藤高明内閣の普通選挙法でした。「満25歳以上のすべての男子」に選挙権が与えられたのです。(年代暗記:行くよ選挙に25歳)
男子普通選挙の実現によって、有権者は4倍に増えました。
普通選挙は略して「普選(ふせん)」と呼ばれたんだ。
日本人が何でも略したがるのは昔からなのね。
しかし情勢は不安になってきていました。ロシア革命の影響による世界的な「社会主義ブーム」です。今でこそ社会主義というと「ソ連・中国共産党・北朝鮮→独裁の恐怖政治」と、何か怖い印象がありますが、当時は肯定的に捉えられていました。「貧富の格差のない、平等な社会の実現」という甘い理想に、世界中の人々が酔いしれました。日本も都市のインテリ層中心に熱狂的な賛同者が生まれ、革命前夜の雰囲気が漂います。
これには各国の支配者層も深刻な危機感を覚え、各国で「共産党の非合法化」が行われます。それが国際的な潮流だったのです。
革命とはおそろしい一面を持つもの。フランス革命の時もルイ16世夫妻は処刑されましたが、ロシア革命においても皇帝ニコライ2世一家は子女四名含め全員が銃殺され、国家体制が根本的に覆されました。
日本は断じてその二の舞は踏まない。「日本革命」など起こさせてはならないと考えたわけです。ヒートアップする社会主義運動に、ブレーキがかけられます。これが1925年加藤高明内閣の治安維持法です。社会主義運動を取り締まり、革命を未然に防ぐための法律でした。
しかし「治安維持法」は後には社会主義者だけでなく、自由主義者の弾圧にも適用されます。この運用のまずさにより、天下の悪法となっていきました。
社会運動の高まり
長く厳しい差別に苦しんできた人々は、1922年に京都で全国水平社を結成しました。
水平社宣言
われわれは、心から人生の熱と光を求めるものである。水平社はこうして生まれた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。
江戸時代からの身分制度が固定化して、差別が強まっていたんだ。
明治維新で四民平等になったはずじゃないの?
そこが難しいところで、明治時代になっても「部落差別」として差別は残ったんだよ。
また女性解放運動も活発になりました。1911年に平塚雷鳥は「青鞜」を創刊しました。
「青鞜」発刊の宣言
原始、女性は太陽であった。・・今、女性は月である。
当時、女性に求められた理想像は「良妻賢母」という姿だった。
良い妻であり、賢い母である、ということかな?
その通り。もちろんそれはそれで素晴らしいんだけど、「女性は家庭」と活動の場を決めつける一面もあった。雷鳥はそういう風潮を我慢できなかったんだ。
大正ロマンを描いた漫画「はいからさんが通る」の主人公・紅緒は、雷鳥の生き方に憧れていました。
また第一次世界大戦の後に、世界的に女性の社会進出が進んだことも重要です。
なぜ?戦争と女性が関係あるの?
戦争が起こると、男性はみんな戦場に行ってしまうよね。
ああ、なるほど。それまで男性が働いていた職場で、労働者不足になるのね。
その通り。それまで男性の仕事とされていた工場労働者や運転手などに女性が進出することになった。
戦後、女性にも男性と同等の権利が認められるようになり、1918年にはイギリスとドイツで婦人参政権が認められました。
ちなみに日本の女子の参政権実現は、男子普通選挙の20年後の1945年でした。
市民生活の変化
工業化や都市化が進んで、サラリーマンと呼ばれる都市労働者が見られるようになりました。
大正時代に書かれた「東京を舞台にした小説」を読んでみると、もうほとんど今の東京人と変わらない感じだよ。
1927年(昭和2年)には上野〜浅草間で地下鉄が開通しました。
1925年にはラジオ放送が始まりました。
洋服や洋食も広がりました。
流行の最先端の若者たちは、モガ(モダンガール)やモボ(モダンボーイ)と呼ばれました。
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