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今回は平安時代。なんと400年もあり、古代史のヤマ場です。
平安京と律令政治の立て直し
奈良時代の後半は貴族同士の抗争や、政治に口を出す僧(道鏡)の出現などで政治が乱れました。桓武天皇はこれを憂い、寺院の影響が強い奈良を離れ、新しい都で律令政治を立て直そうとしました。
桓武天皇は784年、長岡京に、そして長岡京造営が失敗すると、794年、さらに北方の平安京に都を移しました。
これは一番有名な年代暗記法ね。平安京の前にも長岡京って都があったのか・・
平安京の10年前(784年)だからナハヨで覚えられるね。
那覇よ?
桓武天皇は797年には坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、朝廷に従わない蝦夷と戦わせました。
「アテルイ」がむかし開成で出たことがあるんだよ笑
藤原氏の政治
平安時代には藤原氏が大きく勢力を伸ばします。天皇と血縁を結び、天皇の幼少時には摂政、長じては関白となり、政治の実権を握る。これを摂関政治といいます。その時代の代表的な人物が藤原道長です。
道長は三人の娘を天皇の妃とした際に歌った「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」が有名です。
藤原摂関家の全盛期が11世紀前半ということもことも知っておきましょう。藤原道長の自筆の日記「御堂関白記」が現存しています。写本でなく、直筆の原本が残っているところがすごい。「御堂関白記」はユネスコ「世界の記憶(記憶遺産)」に登録されています。
藤原氏は経済的にも、地方の貴族からの荘園寄進によって繁栄を迎えます。税を徴収する役目を負った地方の役人たちも、藤原氏のような都の大貴族には逆らえないため、不輸の権(税を納めなくてもよい権利)や不入の権(国司の立ち入りを断る権利)などの特権を求めて、藤原氏への荘園寄進が盛んになりました。
平安貴族の女性たちは、顔を真っ白な白粉で塗り固め、眉毛は抜いて額に描き、歯は全て真っ黒に塗りました。
白粉はわかるけど、歯を黒く塗ってたの?
お歯黒は次第に庶民にも広がるんだよ。既婚女性の象徴のようになって、明治時代の初めごろまで続いたんだ。
あんまり可愛くないんだけど。
明治時代になってから、これを見た訪日外国人たちもビックリしたみたいだね。でもお歯黒には虫歯予防の効果もあったと言われるよ。
武士のおこりと成長
摂関政治華やかなりし頃、地方では国司に政治が任せっきりになっていました。尾張国国司・藤原元命のように不正をはたらく者もいたため、政治が乱れていきました。
「藤原元命は朝廷が定めているより多くの税を取り立てています」尾張国の百姓たちが朝廷に訴えた文章だよ。
「藤原元命は都からの命令も自分に都合の悪いものは知らせません」・・?なんて悪いやつなの!
でもこれは氷山の一角で、その頃はこういった不正をはたらく地方役人がいっぱいいたんだ。
治安が悪化した地方において、自らの財産を守るために武装する人々が現れ、やがて武士団を形成していきます。彼らはリーダーとして天皇の子孫などの貴人をかつぎ上げ、勢力を伸ばしていきます。
武士団の代表的なものが、清和源氏と桓武平氏です。
出た!源氏と平氏は宿命のライバルなんだよね!
現代でいえば巨人と阪神、早稲田と慶應みたいな感じかな。
10世紀半ば、関東地方で平将門が「新皇」を名乗り、朝廷に謀反を起こしました。同じ頃、瀬戸内海で藤原純友が挙兵しましたが、やがて両者とも鎮圧されました。
平将門の乱は従来は935年に始まったという説が主流でしたが、近年は新皇を名乗り、公然と朝廷に牙をむいた939年からとする解釈が有力になってきました。改訂版予習シリーズでも新説で書かれているため、それに従いたいと思います。
将門や純友を平安京の貴族はどうすることも出来ず、結局他の武士団の力を使って鎮圧しました。この二つの乱は失敗したものの、地方武士団の実力をまざまざと見せつけた事件でした。
上皇の政治
天皇を退いた上皇(元・天皇)が制約の少ない身軽な立場になって、政治の実権を握り続ける政治を院政といいます。
令和の御世に200年ぶりに上皇陛下が登場したことにより、出題が増えそうです。院政は1086年に白河上皇が始めました。「治天の君」と呼ばれ、事実上の最高権力者として振る舞いました。特に白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の三上皇の権威は絶大でした。
平氏の政治
12世紀初頭、京都を舞台に二つの戦いが行われました。
崇徳上皇 V S 後白河天皇WIN
上皇と天皇や、藤原摂関家の勢力争いから起こりました。年代暗記は「人々殺され(1156)、保元の乱」と覚えます。
親子や兄弟同志があい争い、殺し合った日本史上最も凄惨な戦いかもしれません。後白河は兄・崇徳院を讃岐へ流刑とし、崇徳院は怨霊と化したと言われました。平清盛は叔父・忠正を斬り、源義朝は父・為義や弟たちを斬りました。勝者にとっても、やりきれない骨肉の争いだったのです。
平清盛WIN V S 源義朝
保元の乱では味方だった源平の二人が対立するようになって、決戦をおこないます。年代は「保元の乱+3」で覚えておきましょう。
熊野参詣のため、京を離れた清盛の隙をついて、義朝がクーデターを行います。しかしここからの清盛の巻き返しが凄い。電光石火で帰京し、後白河上皇と二条天皇を奪取し、六波羅の平氏屋敷に迎えます。天皇を押さえ、「官軍」となった上で源氏を殲滅していきました。乱の原因は例によって藤原氏の勢力争いでしたが、源氏と平氏が初めて全力でぶつかり合った一大決戦でした。
この二つの大乱を勝ち抜いた平清盛が、武士として初めて太政大臣になり権力奪取に成功します。1167年のことでした。
「平家でなければ人でない」のイメージで語られる専横ぶりで、敵役のイメージが強い平清盛ですが、大陸との交易に力を入れるなど(日宋貿易)先進的な面もかなりあります。神戸に大輪田泊とよばれる港を開き、瀬戸内海の交易路を整備しました。
源平合戦のさなか、清盛は熱病(マラリア説がある)で病死してしまうんだ。もし清盛が病死しなかったら、源氏は天下をとれなかったかもしれないね。
清盛ってそんなスゴイ人だったの?
政治力あるしね〜。戦も強いし、経済もわかる。個人的には、頼朝より数段上だと思ってるんだ。
平安時代初めの新しい仏教
桓武天皇は、唐に留学した最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)がもたらした天台宗と真言宗を保護しました。この二つの宗派は山岳で僧が修行を行う厳しいものでした。
天台宗・最澄の覚え方
「ひえ〜天才!」→比叡山延暦寺、天台宗、最澄
真言宗・空海の覚え方
「ココン!真空?」→高野山金剛峯寺、真言宗、空海
国風文化
894年菅原道真の進言により、遣唐使が停止されました。衰退した唐に危険を冒してまで渡航する価値はない、という判断でした。菅原道真は藤原氏と対立したことで、大宰府に左遷され不遇の晩年を過ごしますが、今も「学問の神様」として受験生たちの心の拠り所となっています。
9世紀後半からは唐の文化を土台としながら、日本風の貴族文化が生まれました。これを国風文化といい、藤原氏の摂関政治の頃が全盛でした。かな文字が成立したことにより、自分の感情を素直に表現できる女流文学が栄えました。
音を表わす仮名文字の発明は、日本語史上最大の事件だった。
そうなの?仮名文字ってそんなスゴイの?
漢字と仮名文字がミックスすることによって、「漢字仮名交じり文」という最強の表現が可能になったんだ。
何それ?
たとえば次の文章を読んでみてよ
ぼくのはははあさはやくはつひのでをみにいった
何これ?平仮名だけでメッチャ読みにくいんですけど!
でしょ?じゃあ漢字も混ぜてみよう
僕の母は朝早く初日の出を見に行った
漢字を混ぜると読みやすくなるのね
でしょ。漢字仮名交じり文は①漢字の部分を拾い読みして速読出来る。②(英文のように)分かち書きをしなくてよい。など優れた点が多い。日本人の優秀さは、漢字仮名交じり文によるところが大きいと思う。
平安時代には女流文学が盛んになりました。多くの女性たちが才能を開花させ、傑作を生み出しました。11世紀にですよ!世界文学史上の奇跡とも言えるべきこと。一番有名なのは大長編小説「源氏物語」で知られる紫式部です。
「源氏物語」の主人公・光源氏は、藤原道長様をモデルにしたと言われるの。知らんけど。
大河ドラマにもなるし、紫式部は要チェックね。
紫式部とほぼ同時代に生きたライバルが、随筆「枕草子」で知られる清少納言です。「枕草子」は「春はあけぼの・・」の書き出しが有名ですね。
紫式部さんには負けないよ!私の書いた随筆「枕草子」って知ってる?
歌集としては、最初の勅撰和歌集(天皇の命によって編纂された)の古今和歌集が代表的です。紀貫之らによって選ばれました。
末法思想と浄土教信仰
摂関政治の頃、社会不安を背景に末法思想(釈迦の教えが廃れ、やがて滅びるという歴史観)が広まっていきます。特に1052年は末法元年とされ、人々は恐れおののきました。
「ノストラダムスの大予言」みたいなもんだよ。
なにそれ?
「1999年7月に世界が破滅する」という予言で、昭和の子供たちにトラウマを植え付けた予言なんだ。
予言は当たったの?
当たるわけないじゃん。ある作家(五島勉)が作り出したインチキ本が大ブームになって、子供たちを恐怖のどん底に追いやったんだ。オウム真理教事件にも影響を与えたと言われるよ。
人々は阿弥陀仏を信仰することで、死後「極楽浄土」に行きたいと願うようになりました。これを浄土教信仰といいます。
死んだ後に行きたいのは「天国」じゃないの?
それはキリスト教やイスラム教で使われる言葉だね。仏教世界でそれにあたるものが「極楽浄土」だよ。
末法元年の1052年に、藤原道長の息子・藤原頼通が創建を命じた浄土教建築が平等院です。京都の宇治に建てられました。翌年には鳳凰堂が建立されます。
頼通はパパの道長と「みち」の漢字が違うので注意!「父の道を、子が通る」で覚えればよい。
浄土教建築としては、同じく世界遺産になっている岩手県平泉の中尊寺も覚えておきましょう。東北に一大勢力を築いた奥州藤原氏によって建てられました。
平泉は繁栄を極め、当時は平安京に次ぐ日本第2位の人口であったと言われます。
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