今回は外交中心です。特に「近代戦争」です。近代史は戦争中心に捉えていくと、つながりやすくなります。
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明治初期の外交
不平等条約の改正をめざして
1871年、明治政府は岩倉具視を団長とする遣欧米使節団を派遣しました。目的は不平等条約の改正と、西洋社会の視察でした。2年にも及ぶ使節団は、まずはアメリカを訪問。その後ヨーロッパ大陸に渡り、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを歴訪しました。
使節団は総勢100名にも及ぶ大規模なもので、その中には6歳の少女・津田梅子も含まれていました。津田梅子はのちに女子英学塾(現在の津田塾大学)を開き、日本の女子教育の先駆者となります。津田は2024年発行の5千円札の肖像になることが決まっています。5千円がお札の「女性枠」なんですかね。
条約改正交渉は全く前進しなかったものの、使節団は西洋社会の実情を目の当たりにして、多くのものを学びました。特に大きな影響を与えたのはドイツ帝国首相・ビスマルクによるスピーチでした。
諸君らは世界各国が「国際法」をもとに、礼儀を持って付き合っているのを見ただろうが、それは表面上のことで、現実は弱肉強食である。プロイセンは昔は小国だったので、そのときの屈辱は忘れられない。
大国は有利とみれば「国際法」を盾にするが、不利とみれば武力に訴えて物事を行うだろう。日本は国際法に沿った国づくりを整備するよりも、まず富国強兵に努めることがもっとも大事なのである。
ビスマルクのスピーチ
ビスマルクの本音スピーチは、日本の政治家たちの心を打ちました。特に大久保利通は感銘を受け、ビスマルクを生涯の目標とするに至ります。
条約改正
きびしい条約交渉
欧米諸国は日本を野蛮国と見なし、条約改正交渉に応じようとしませんでした。そこで政府は1883年、東京に鹿鳴館をつくり、欧米人を招いて舞踏会などを開きました。日本の政治家たちも洋装で着飾り、ダンスに興じました。
しかし鹿鳴館に代表される極端な欧化政策は、「屈辱的である」と国民の反対にあい、欧米人の心を動かすこともできませんでした。
日本人をサルだなんて。ひどくない?
まあ、これはちょっと差別意識を感じるよね。ただ洋服が似合わないのは体型の問題もあるかも。明治時代の成人男性の平均身長は155㎝、女性は145㎝程度と言われる。
ウソ!小学生並みじゃん。
ちなみに同じ頃、ビゴーと同じフランス人によって描かれた次の絵を見てみよう。
フランス人女性が日本の着物を着ているね。きれいだけど、いまいち似合ってない。
確かに違和感あるね。
民族にはそれぞれ似合った服装というものがあるんだろうね。
すすみはじめた改正交渉
1886年、紀伊半島沖でイギリス船ノルマントン号が沈没する事件が起きました。ノルマントン号のイギリス人船長ジョン・ウィリアム・ドレークら欧米人船員は救命ボートで脱出に成功しましたが、日本人乗客25名は見殺しにされ、全員が死亡するという衝撃的な事件でした。
事件を受けて神戸のイギリス領事館で領事裁判が行われました。しかし「日本人に早く救命ボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った」という、ドレーク船長のふざけた陳述が認められて、無罪判決が出されました。(最終的にドレーク船長は禁固3か月となる)この判決には日本の世論も激昂し、条約改正を求める声が高まりました。
和歌山沖は海難事故が多いね。1890年には「エルトゥールル号事件」も発生しているんだ。
何それ?
トルコ海軍エルトゥールル号が、和歌山沖で沈没した事件だよ。この時、和歌山の日本人たちが全力で救助活動を行い、多くの命を救ったんだ。
この事件はトルコの人々に日本への好意を抱かせました。その「恩返し」はなんと約100年後に果たされました。
1985年のイラン・イラク戦争の時に、日本人がイランから脱出できない状況に陥りました。日本政府からの要請を受けたトルコ大使のビルレル全権大使は快諾します。「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう」と。
日本とトルコの友情はこうして育まれたのね!
この美談は海城中で出題されたこともあるんだ。海城はもともと海軍兵学校入学のための予備校だったしね。
条約改正の実現
日清・日露の戦勝の結果、条約改正は実現しました。ビスマルクの言葉通り、日本は富国強兵を実現させたことで、欧米と対等な立場を勝ち得たのです。
日清戦争
フランス人画家ビゴーが描いた風刺画が、当時の東アジアの政治情勢を端的に表しています。東アジアには複雑な政治状況がありました。
これは当時の国々を擬人化しているんだ。日本はどれか分かる?
簡単よ。左の和服のチョンマゲ武士ね。
右のヒゲのおっさんは?
チャイナっぽいな。このころは清だっけ。
正解。じゃあエモノの魚は?
COREEとか書かれてるわ?
フランス語で「朝鮮」だ。つまり朝鮮半島をめぐって、日本と清が対立している様子を描いた絵なんだ。
そうなんだ。ちなみに橋の上の網を持ったおっさんは誰かしら?
これはロシアだよ。「漁夫の利」をねらってるんだ。
「漁夫の利」
両者が争っている間に、第三者が利益を得ること。
ここで各国の思惑を確認しておこう。
ロシア→冬でも凍らない「不凍港」獲得を目指して、常に「南下政策」を狙っています。出来れば満州から朝鮮まで進出したいと考えています。(ロシアはユーラシア大陸の東西で南下を図り、それを警戒するイギリスとも対立していました。この19世紀の英露対立を「グレートゲーム」と言います。)
清→朝鮮は大清帝国の「属国」であるという考えでした。朝鮮は清の一部であって、そもそも独立国ですらないという立場でした。
朝鮮→長い鎖国政策のためか著しく国力が劣る状態で、大国の草刈り場になるのは時間の問題でした。東アジア国際政治の「空白地帯」になりつつありました。
日本→当初、なんとかして「朝鮮の近代化」を促そうとしていました。福沢諭吉などはそのための努力を最もした人物です。福沢は慶應義塾に朝鮮からの留学生をむかえ、朝鮮の近代化と教育の充実を訴えていました。
なぜなんだろう?よその国のこととか関係なくない?
そうでもないんだ。朝鮮の独立は日本の安全保障に大きな影響があったんだ。
なぜかというと、朝鮮が清やロシアに飲み込まれて消滅してしまうと、中華帝国やロシア帝国と直接、国境を接することになってしまうからです。
想像してごらん。ロシア艦隊が釜山港にいる姿を。
ちょっとおそロシアかも。
そのため、日本としては何としても「朝鮮国内の改革派」を手助けし、近代国家として存在していてもらい、大国との「緩衝地帯」として機能させたかったのです。
しかし朝鮮国内では保守派が改革派を粛清し、朝鮮国内での独自改革は期待できない状況になってしまいます。日本で例えれば木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬らが全員処刑されてしまい、明治維新が失敗するようなものです。日本が矢面に立ち、中露の南下を押し返さなければならない状況になってしまいました。
日清開戦から下関条約へ
1894年、朝鮮半島での農民蜂起・甲午農民戦争をきっかけに日清両軍は衝突。そのまま日清戦争に突入してしまいます。
この戦争は近代化をすすめていた日本軍の勝利に終わりました。1895年、山口県の下関で講和条約(下関条約)が結ばれ、日本は戦争目的である「朝鮮の独立」を清に承認させました。
下関条約の日本代表は、総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光でした。日本外交史上の最高のコンビと評されます。
この条約で遼東半島・台湾・澎湖諸島が日本の領土となりました。また清は2億両(約3億6千万円)もの巨額の賠償金を日本に支払うことになりました。
下関条約の内容が明らかになると、中国・朝鮮への南下をもくろむロシアは、フランスとドイツを誘い、日本に対して遼東半島を清に返すよう、圧力をかけてきました。これを三国干渉といいます。
陸奥宗光外務大臣は三国の軍事力には到底対抗できないと判断。泣く泣く遼東半島の返還を受け入れます。
なにそれ?ロシア、ムカつくね。
ジャイアン三人にのび太が囲まれるようなもの。どうにもならなかったんだ。
日露戦争
日英同盟
清は倒したものの日清戦争後、ロシアの南下はさらにエスカレートします。満州を占領し、撤退しようとしません。日本人を特に怒らせたのが、ロシアが遼東半島の一部を租借(借り受け)したことでした。
ロシアはさらに朝鮮半島にも勢力を伸ばし、北緯39度くらいまでロシアの勢力範囲になってしまいました。ロシアによる満州・朝鮮併合は目前の状況です。
ロシアの南下を苦々しく思っていた国がありました。当時の世界帝国イギリスでした。ただしその時イギリスはアフリカ大陸でボーア戦争を戦っている最中で、二方面作戦は難しい状況でした。そこでイギリスが目をつけたのが日本でした。
今まで外国と同盟を組むことがなく「光栄ある孤立」政策を取っていたイギリスが、初めて東洋の島国と同盟を組みました。これが1902年の「日英同盟」でした。
同盟の内容は対ロシアの「半軍事同盟」のごときものでした。日露戦争勃発時には、イギリスは日本に好意的な援助を行う。もしフランスがロシア側で参戦した場合は、イギリスは日本側で参戦することを約束しました。これで小村寿太郎ら外務省の主戦派は勢いづきました。
当時の世論も対露開戦一色のムードでした。それほど三国干渉以来の、ロシアへの恨みは深かったのです。ロシアとの和平交渉に最後まで奔走した伊藤博文が、世間から「恐露病」とバカにされるような風潮でした。
日露戦争
1904年、日露交渉は決裂し、ついに日露戦争が始まりました。日本は国力の全てをかけて戦い、苦戦を強いられながらも戦争を有利に進めました。遼東半島の旅順では、ロシア要塞に日本陸軍が猛攻をかけました。
203高地を巡る旅順での死闘は、日本の勝利で終わりました。日本軍の犠牲もおびただしく、旅順戦だけで戦死者は約1万5千を超えます。機関銃を使用した近代戦の恐ろしさを、(第一次大戦の10年も前に)まざまざと知らしめた戦いでした。
与謝野晶子の弟は、陸軍少尉として旅順攻囲戦に従軍していました。晶子が弟を思って歌った作品が次のものです。
ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば親のなさけは勝りしも、
親は刄(やいば)をにぎらせて人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて二十四までを育てしや。
与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
海軍も奮闘しました。1905年には対馬沖で日本海海戦に勝利します。ロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、しかも日本側の損害はわずかなもので、戦史に残る完全勝利でした。連合艦隊を率いた東郷平八郎の名は、今なお不滅のものとされます。
日本海海戦に勝利したものの、日本の国力はここまでが限界でした。一方、ロシアも国内で皇帝の政治への不満が高まり、ロシア第一革命といわれる運動が起きます。両国とも継戦が難しい状況になっていました。
ポーツマス条約
日本はアメリカ大統領セオドア=ルーズベルトに仲介を頼み、1905年にロシアとの講和条約(ポーツマス条約)が結ばれました。
アメリカ・ニューハンプシャー州で行われたポーツマス会議には、小村寿太郎外務大臣が日本代表として臨みました。
ポーツマス条約の交渉は難航したものの、日本は韓国の指導権、南満州鉄道の権利などを認めさせました。また北緯50度以南の樺太も日本領とされました。
「ロシアの南下を阻止する」という戦争目的は達成したものの、賠償金の獲得までには至りませんでした。このため戦時中の増税に耐えた国民の怒りは爆発。暴徒となった民衆が交番などを焼き討ちする日比谷焼き討ち事件が発生します。
日露戦争はよく「世界史的大事件」と評価されます。有色人種の国家である日本が、国力が10倍も違う白人帝国を破ったことは、世界中に衝撃を与えました。これが20世紀になって続発するアジア・アフリカ植民地の独立運動につながっていきます。
韓国併合
1910年、日本は韓国を併合しました。これを韓国併合といいます。その前年に伊藤博文(韓国統監府の初代統監)が朝鮮人のテロリストに暗殺されています。しかし実は伊藤博文は韓国併合反対論者でした。
欧米諸国がアジアやアフリカで行った植民地支配は、主に宗主国の経済を潤わせるために行われ、現地人を労働力にして大規模な農場や炭鉱などを経営する「収奪型」でした。
一方、日本が行った韓国併合は、朝鮮を日本の延長とみなし、日本で行われている統治に近い統治がなされていました。事実、日本統治下の朝鮮の歳入は、日本からの補充金と公債金(日本引き受け)によって支えられており、収奪どころか完全な「持ち出し」になっていました。
併合とともに設置された朝鮮総督府は、「持ち主がはっきりしないとして朝鮮人たちから多くの土地を取り上げた」・・と予習シリーズには書かれています。しかし近年の研究では、多くの農民が土地を喪失したという事実はなく、「総督府が莫大な費用と時間をかけて土地調査を遂行したこと」を評価する見方も出てきています。総督府は1918年までかかって、朝鮮全土の土地所有者(納税義務者)と地価を確定させたのです。太閤検地と地租改正をいっぺんに行ったような感じでしょうか。いずれにしてもこれは私有財産制のもとで経済成長を図るためには必須の事業でした。併合時に1200万石と推定された米の生産量は、1937年には2700万石まで倍増しました。(参照:中公新書「日本統治下の朝鮮」木村光彦著 )
教育については、朝鮮では書堂(ソダン)と呼ばれる伝統的な初等教育機関が存在しました。書堂は日本で言うところの寺子屋のようなものでしたが、就学児童はほぼ男子のみで、教える内容も儒学中心でした。日本の寺子屋が女子にも門戸を開き、教える内容も商売や農業のことなど実用的な内容を含んでいたのとは対照的でした。
1895年の清からの独立後は、朝鮮でも近代教育制度が始まりましたが、1906年の時点でも小学校が全国で40校未満程度でした。日韓併合当時の就学率は7〜9%程度と推定されます。伊藤博文はこの状況を嘆き、学校建設を朝鮮改革の最優先事項としました。その結果、1940年代には1000校を超える各種学校が設立されるに至りました。その中には最高学府である京城帝国大学も含まれます。
また「学校で日本の歴史・地理や日本語を教えた」・・と予習シリーズには書かれていて、それは事実ですが、朝鮮語や朝鮮史も当然教えられていました。併合前の朝鮮では漢字ばかりが重視され、ハングルが軽視されていたのですが、朝鮮総督府の教育令によって必修科目としてハングルが指導されるようになりました。ハングルが普及すると、ハングルで書かれた新聞や書物も発行されるようになりました。
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