明治時代以降の歴史は、入試でも頻出です。前近代史との違いは大きく2点です。
①事件(できごと)が増える・・50年に1回ぐらいだった重要事件が、毎年のように発生します。事件相互の関連や流れを押さえることが重要になります。→まずは歴史年代を確実に覚えていきましょう。
②国際関係が重要・・鎖国時代と違って、諸外国との同盟・戦争などが多くなります。国際関係をしっかり押さえていくことです。例えば、第一次大戦ではイギリスと同盟してドイツと戦争してますが、第二次大戦では正反対になります。国際関係はその時の情勢によって、コロコロ移り変わるもので、現在の日米同盟が70年以上も続いているのは例外的。
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明治維新
新政府の方針
戊辰戦争のただなかの1868年、明治天皇が神々に誓う形式で五箇条の御誓文が宣言されました。古いしきたりにとらわれない、話し合いを重んじる、などの新政府の方針を示しています。日本の民主主義の原点となったという考え方もあります。(昭和天皇がその考え方です)
国内の民衆向けに立てられた5枚の立て札が五榜の掲示です。一揆の禁止やキリスト教の禁止などが書かれていました。
意外ね!明治時代になってもキリスト教が禁止されてたなんて
長崎の浦上あたりではむしろ明治の初めごろに弾圧が強化されている。さすがにこれは国際的な批判を浴びたんだ。
当たり前よ!
イギリスのヴィクトリア女王やアメリカ大統領からも非難声明を出されて、1873年ごろについにキリスト教信教は解禁されたんだ。
1868年、江戸は東京と改称され、元号は慶応から明治に改元されます。翌年、明治天皇は京都を離れ、皇城(旧江戸城)に入ります。この時から東京は日本の首都となりました。
中央集権国家の建設
江戸260年の幕藩体制の日本は、連邦国家のようなものでした。各藩にそれぞれ領主(藩主)が存在し、徴税し、紙幣(藩札)を発行していました。日本という国としてのまとまりがなく、各藩がバラバラでした。
鎖国時代の江戸時代ならまだこれでも良かったのですが、開国して列強(英仏露など)と対峙しなければいけない時代になってしまいました。列強はアジアの国々の国内の対立を煽り、そこに介入し、支配を強めていく手法が巧みでした。インドはじめ、アジアの多くの国がそのやり方で植民地化されています。
植民地化を避けるためには、どうしても「幕藩体制」を崩し、明治天皇を旗印に中央集権化して統一国家を作る必要があったのです。
1869年にまずは版籍奉還が行われます。土地(版)と人民(籍)を朝廷に返させるというもの。しかし形だけで効果なし。最大の障害になったのは大名の存在でした。何百年もその地に君臨した殿様を排除することはできず、知藩事として残さざるをえなかったのです。やっぱりこの時点では大久保利通らも及び腰だったんですね。
そこで1871年、決死の覚悟で行われたのが廃藩置県でした。藩を府・県に変えるのですが、単に改名したわけでなく、中央から知事・県令ら役人を派遣し、治めさせるというところがポイント。中央から知事らを派遣するということは、つまり何百年もその土地の領主であった大名(島津氏、毛利氏、上杉氏、松平氏など)から統治権を完全に奪うことでした。旧大名たちは先祖代々の領地を追われ、東京に強制移住させられたわけです。
これは西郷、大久保らにとっても苦渋の決断でした。なにしろこれは「殿」と「藩」を廃する裏切り行為で、臣下にあるまじき不忠な行為だったから。彼らは国家100年の計のため、手向かう大名がいれば武力討伐する覚悟で、この大改革を断行します。
殿様(島津久光)に大激怒されてね。じっと耐えたんだ。あの時は辛かった。
殿様たちは全てを失ってしまったのね。
ところがそうでもないんだ。廃藩置県は大した混乱もなく、全国で受け入れられた。これはとりも直さず藩や殿様たちにとって、「廃藩置県はおいしい」面があったということ。
どういうことかしら?
江戸時代の地方政府であった藩が、財政難(借金苦)で苦しんでたことは知ってるね。
商人に借金してなんとかやってたとか。
その時点での藩が抱えた債務(借金)総額は3500万両と言われる。幕府の年収が120万両だから、それと比べてみれば分かる。廃藩置県はこの膨大な借金を、新政府が全て引き受けるという好条件だったんだ。
それ、美味しい条件ね!
しかも藩主(殿様)の収入は、生涯「年金」として保証される。これは藩主の地位を失う引き換えにしても、お釣りが来るくらいグッドな条件だよね。
富国強兵・殖産興業
徴兵令
明治政府は国力をつけ、強い軍隊を持つために「富国強兵」のスローガンを掲げました。19世紀当時の国際社会は露骨に弱肉強食の時代です。平和を守る国際組織などもありません。列強(英仏露など)と対峙し生き残るためには、近代軍隊を整備し、実力をつける以外ありませんでした。列強は弱者の意見など聞く耳を持たないからです。
そこで1873年に満20歳以上の男子に兵役の義務を負わす徴兵令が定められました。
帝国海軍は世界最強の海軍であったイギリス王立海軍(ロイヤル・ネイビー)を模範に建軍されました。
帝国陸軍はドイツ(プロイセン)陸軍を模範に建軍されました。プロイセンはビスマルク首相、モルトケ参謀総長のコンビで、わずか数年の間に対デンマーク、対オーストリア、対フランスの戦争を完勝していました。
日本のお手本の選択が間違っていなかったことは、日清・日露戦争の勝利で証明されることになります。
地租改正と地租の引き下げ
近代軍隊の創設にはお金が要ります。ゆえに同時に税制を整備し、国家財政を安定化させる必要がありました。そこで1873年から地租改正が行わました。まず土地を調査して、地券を発行し、土地の所有者を明確にしました。
そして地主から地価(土地の価格)の3%を現金で徴収することにしました。これによって政府の収入が安定します。3%というと軽い印象がありますが、元々の地価が高く設定されていたためけっこうな重税で、農民一揆が多発し、のちに2.5%に減税されました。
官営工場の設立
産業を興し、生産を増やすスローガンが殖産興業です。政府が官営工場を設立し、産業を育て、ある程度まで育ったところで、三菱や住友ら民間企業に払い下げます。後発資本主義国特有の「上からの近代化」です。
1872年、群馬県に設立された富岡製糸場は、フランスの技術で模範工場として作られました。士族の娘たちを労働者として育成していました。
レンガの積み方は、やっぱりぎこちない。でも明治五年!の時点に見よう見まねで、日本人の手で造ったんだからやっぱり大したもんですよ。
文明開化
大きく変わったくらし
西洋に学問、制度、技術など学び、近代化しようとする動きを文明開化といいます。江戸時代の蘭学者からの伝統を受け継ぎます。
1872年は文明開化が集中して進んだ年として記憶しておきましょう。「一夜、何これ?(1872)」とでも暗記しておきましょう。
1872年、それまでの太陰暦に代わって、西洋で広く使われていた太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されました。当初は政府による告知が不徹底だったため、歯がゆく思った福沢諭吉は改暦を易しく説明した「改暦弁」という書物を発行しました。
服装や髪型も少しずつ洋風化していきました。
日本人の服装が、和服から洋装に完全に変化するまでに7、80年くらいはかかってる。昭和の高度経済成長ごろまでは今より和服を日常的に着ていたよ。
そういえば、のび太のお父さんも磯野波平も普通に和服だね。
1872年にはフランスの学校制度を模範とした学制が定められました。6歳以上の男女に教育を受けさせることとし、全国に小学校を作らせました。
寺子屋から小学校へ!教育も変わっていったんだ。
親は喜んだでしょうねえ・・
ところが当時の親は学校に大反対で、学制反対の農民一揆まで起こってるんだ。
なぜ?勉強するのがいけないの?
当時の授業料は高く、農民にとって大きな負担となったんだ。校舎の建築費などお金がかかったしね。実質的な増税だった。
そうなんだ!
しかも当時の日本はほとんどが農家。子どもは大事な働き手だった。学校のせいでそれを奪われることになったんだ。
最高学府としては東京帝国大学がつくられました。帝大では当初は莫大な給料を払って「お雇い外国人」を雇い、外国語で授業をしていました。
近代科学を修得した日本人が少なかったから、外国人を連れてくるしかなかったんだ。
やがて西洋学問の日本語化が進みいったん体得すると、徐々にお雇い外国人にはお引き取り願い、日本人による日本語での指導が実現できるようになります。
西洋の考え方を漢語化したのも、実は日本人なんですね。「科学」「哲学」「文化」「民族」「大統領」「意識」「時間」「空間」「民主主義」「人民」「共和国」「共産主義」などなど、全部日本人が作った言葉です。北朝鮮も中国も、国名からして日本語を使ってるんですよねw
現在では、自然科学でも人文科学でもあらゆる学問を日本語で学ぶことが出来るようになった
当たり前のようだけど、昔のことを思えばスゴいことなのね。
しかもあらゆる学問において、日本語で、世界の最高レベルまで勉強することが出来るんだ。
一方、私立学校もつくられました。
自由民権運動
政治への不満と西南戦争
薩摩・長州・土佐・肥前藩などの出身者が政府の要職を独占する藩閥政治への反発が目立ってきました。特に苗字帯刀などの特権を奪われ、給与も廃止された士族(元武士)たちの不満は爆発。西日本各地で士族の反乱が起きました。
その中の最大のものが、1877年に九州で起きた西南戦争です。鹿児島県の不平士族におされた西郷隆盛が挙兵したのです。
政府に尋問の筋これあり
薩摩軍は新政府軍と全面衝突し、激闘の末に鎮圧されます。
西南戦争は両軍で1万2〜3千人の戦死者を出す文字通りの死闘でした。これが日本人同士が戦った最後の戦争となります。そして以後、武力による反乱はなくなり、言論による政府批判へと移っていきます。
自由民権運動のはじまり
1874年、土佐藩出身の板垣退助は民撰議院設立建白書を政府に提出しました。これは藩閥政治をやめて、国民が選んだ議員からなる国会を開いて、政治を行うべきだとする意見書でした。
これをきっかけに起こったのが自由民権運動でした。
そのセリフは作り話らしいけど。
自由民権運動の広まり
自由民権運動は、板垣らの想像を超える国民的運動に発展します。これにおされた政府は1881年に、「10年後に国会を開く」という約束を示しました。1881年には板垣退助が自由党を、1882年には大隈重信が立憲改進党を結成します。
大日本帝国憲法と帝国議会
憲法制定の準備
大久保利通の暗殺後、政府の中心人物となっていた伊藤博文(長州)は1882年ヨーロッパに渡り、各国の憲法や政治制度を調査しました。
伊藤はウイーン大学のシュタイン教授に師事。シュタイン教授は日本の国情や歴史を分析した上で、ドイツ(プロイセン)憲法を参考にすることをすすめました。
なぜドイツなの?
当時のドイツは皇帝(カイザー)がいて、その下に議会があった。国民の権利を認めながらも、君主の権力が強い憲法だったんだ。
ドイツにも王様がいたのね!
天皇を中心にして、政府による「上からの近代化」を目指していた当時の日本にとって、参考になることが多かったんだ。
内閣制度
1885年、今も続く内閣制度がつくられ、伊藤博文が初代内閣総理大臣になりました。
伊藤博文の好きな食べ物が「ひややっこ」だって知ってる?
本当?
ウソ笑 1885年の年代暗記を「ひややっこ」と覚えるんだ。
憲法の発布
1889年2月11日、東洋初の近代憲法・大日本帝国憲法が発布されました。帝国憲法は、天皇が国民に与える欽定憲法という形で発布されました。
帝国憲法では、国の政治を動かす力(主権)は天皇にあったとされます。
第1条 大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治(とうち)ス
第3条 天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵ス(おかす)ヘカラス(べからず)
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ此(こ)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依リ之ヲ行フ(おこなう)
何かよくわからないけど、天皇の力が強かったことだけはわかったわ。
ただ勘違いしないでほしいのは、天皇はなんでも一人で決められる独裁者みたいな存在ではなかったんだ。
そうなの?
実際には天皇は、政府が決定したことに異論は唱えず、基本的には認めたんだ。
へえ、そうだったんだ
例えば明治天皇は、日清戦争にも日露戦争にも反対だった。だから政府に対して「もう少し外国と話し合ってはどうか?」と何度も促した上で、最後はしぶしぶお認めになったんだ。
また国民(当時は臣民)の権利は、「法律の範囲内で」という制限つきながら、さまざまに認められました。
議会政治のはじまり
1890年、日本で初の国政選挙が行われました。第1回衆議院議員総選挙です。
選挙権・・直接国税15円以上納める満25歳以上の男子
ひどいっ!女性には選挙権がないんだ!
でもこの頃は世界でも婦人参政権が認められてる国はなかったんだ。
なんで?差別じゃん。
当時は社会参加は男性が行い、女性はそれを支えるもの、という考えが強かったんだよ。
総選挙後の1890年、第1回帝国議会が開かれました。帝国議会は貴族院(選挙なし)と衆議院(国民の選挙によって選出)の二院制でした。
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