★さらに覚えやすい!暗記カード★
⬇︎暗記カードは「note」からダウンロードできます。
今回は大和時代です。古墳から飛鳥時代まで、2回目からかなり覚える内容が増えてきます。
古墳文化
3世紀中頃から4世紀にかけて、近畿地方中心に古墳と呼ばれる大きな墓が造られ始めます。前方後円墳と呼ばれる形の、巨大な古墳がつくられました。当時の強大な権力者(大王や豪族)が自分の力を示すためにつくらせたものとされています。エジプトのピラミッドと同じですね。
特に大阪府堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)は長さが486mもあり、日本最長の古墳です。この古墳の周りを一周できるサイクリングコースも整備されてるんですよ。大仙古墳は世界文化遺産「百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群」に含まれています。
古墳の周りには、埴輪と呼ばれる素焼きの土器が置かれました。
埴輪と土偶(第1回で学習)との区別をはっきりさせましょう。
古墳時代には、大阪平野はほとんど海だったんだよ
海岸線が今と違ってたんだね。
外国から来た船からは、巨大古墳が間近に見えたそうだよ。
なるほど。古墳は外国に対して、国の力を示す働きがあったのね!
ヤマト政権
弥生時代は小国分立の「戦国時代」でした。それが3世紀中頃から4世紀にかけて、大和地方(奈良)中心に成立したヤマト(大和)政権によって国土統一が進められます。ヤマト政権は大王(おおきみ、後に「天皇」と呼ばれる)を中心とした、大和地方の豪族の連合政権であったとされています。
ヤマト政権の勢力範囲は、5世紀には関東地方から九州地方中部まで及んでいたと思われます。その根拠として考えられるのが、埼玉県稲荷山古墳で出土した鉄剣と、熊本県江田船山古墳で出土した鉄刀に刻まれた「ワカタケル大王」の文字です。
ワカタケル大王って何者?
日本書紀という歴史書に書かれている「雄略天皇」ではないかと思われているよ。
天皇だったんだ。やはり偉かったんだね。
でも乱暴者だったと伝わっている笑
天皇なのに乱暴者?
また「宋書」という中国の歴史書に記録されている倭王「武」も、ワカタケル大王と同一人物だったと考えられているんだ。
そうなの?じゃあワカタケル大王=雄略天皇=倭王・武ということ?
そう考えられてるね。
豪族は「氏(うじ)」と呼ばれる血のつながりのある集団をつくりました。蘇我氏、物部氏などが有名ですね。
また大王は豪族の家柄や役割に応じて、「姓(かばね)」を与えました。蘇我氏なら「大臣(おおおみ)」、物部氏ならば「大連(おおむらじ)」といいうような感じです。このような仕組みを氏姓制度といいます。
渡来人と大陸文化
この時代に中国大陸や朝鮮半島から渡ってきた人々を渡来人といいます。渡来人は大陸から様々な文化や技術を伝えました。
- のぼりがまと須恵器をつくる技術
- 古墳やため池をつくる技術
- 鉄製農具
- 機織りの技術
- 漢字・仏教・儒教
仏教は朝鮮半島の「百済(くだら)」という国から伝えられました。538年説が有力です。
推古天皇のころの政治
飛鳥時代と呼ばれる聖徳太子の頃の時代は、近年では推古天皇(初の女性天皇、聖徳太子のおば)の元、蘇我馬子らの豪族との共同作業で行われたと考える説が主流です。
聖徳太子は古くから神格化され、①冠位十二階、②憲法十七条、③遣隋使などの政治を行なった超人であるとされていました。しかし推古天皇の摂政となった時に、太子はまだ19歳であったことを考えると豪族との共同統治と考える方が自然でしょうね。摂政とは、天皇が女性や幼い時に天皇を助け、政治を行う役職です。
大阪府太子町にある聖徳太子御廟は、山岸涼子の漫画「馬屋古女王」の舞台となった地です。
推古天皇は太子のおばに当たる人物です。
蘇我氏は早くからの仏教受け入れ派として知られ、多くの渡来人を従えました。仏教反対派の物部氏を滅ぼし、その勢いは大王を上回るほどとされました。実際に、崇峻天皇という天皇が暗殺された事件の黒幕が蘇我氏だったという説があります。
飛鳥文化
7世紀初頭から飛鳥地方を中心に、日本で最初の仏教文化が起こりました。これを飛鳥文化といいます。日本初の世界文化遺産・法隆寺や四天王寺が有名です。仏教が広まると古墳は廃れ、豪族たちは寺院を建立するようになりました。
菩薩像の微笑みは「アルカイック・スマイル」と呼ばれ、遠くギリシャ彫刻に起源を持ちます。仏教とともに日本まで伝わってきたのですね。
大化の改新
聖徳太子の死後、勢力を伸ばした蘇我蝦夷、入鹿親子を討ったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)でした。645年のことでした。
生ゴミのカタマリ?
ナカトミノカマタリ!
蘇我氏討伐とともに、唐から学んだ政治を日本に取り入れる改革が行われました。これを大化の改新といいます。
大化の改新では、それまで天皇や豪族のものだった土地や人民を、国家のものとする「公地公民」の制度などが唱えられました。が、いくら進んだ制度でも外国のやり方をいきなり移植することは難しく、実現には50年以上の時を要しました。
中大兄政権を揺るがす大事件が663年に発生しました。「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れてしまい、朝鮮半島からの撤退を余儀なくされてしまったのです。
それまでの日本は、朝鮮半島南部の百済や伽耶諸国などの親日勢力と結んで、鉄を輸入していました。当時の日本は鉄をつくる技術が無かったのです。それが白村江の敗戦によって本土防衛すら危うくなり、九州北部に水城という防衛ラインが築かれました。
徴兵が行われ、九州北部防衛の兵である防人(さきもり)が置かれました。また中大兄は琵琶湖そばの大津に遷都し、そこで天智天皇として即位しました。
幸いにも唐が攻めて来ることはありませんでした。が、今度は国内がきな臭くなってきます。672年、天智天皇の後継ぎ争いから壬申の乱が起きました。古代日本最大の大乱でした。この戦いに勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位します。
この天武天皇を、実質的な初代天皇とみなす考え方も存在します。それは天武天皇、そしてその妻の持統天皇の時代に、日本が国家としての体裁を完成させていったからです。やはり戦いに勝って、実力で権力を握った者は、大胆な改革を行える政治力を手に出来るのでしょうね。
まずこの頃に「大王」から「天皇」に、「倭」から「日本」に呼び方が変わったとされます。これは単なる名称変更でなく、中華皇帝の支配する秩序からの独立を意味していました。「王」から「皇」の変化は、キングからエンペラーに変わるということで、ランクが上がるんですね。
また持統天皇の時代の694年に、日本初の計画都市である藤原京が造られます。碁盤の目のようなこの都市は、後の平城京の原型となります。
飛鳥池工房遺跡。ここで最初の金属貨幣・富本銭がつくられたと言います。これも天武・持統時代のことでした。
天武・持統天皇の頃の、初期の唐に影響を受けた文化を白鳳文化といいます。白鳳文化を代表する高松塚古墳。
高松塚古墳は極彩色の壁画で有名です。写真は壁画館のレプリカ。
甘樫丘から飛鳥の山々を一望します。
春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天の香具山(持統天皇御製)
コメント