小5下巻11回 予習シリーズ社会の徹底解説と暗記プリント

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綱吉と白石の政治

3代将軍家光の頃までは武断政治といって、従わない大名を取り潰すなど力の支配が行われていました。しかしその結果、浪人(職を失った武士)が増加し、浪人によるクーデター未遂事件(由井小雪の乱)が起こるに至りました。4代将軍家綱の頃からは、学問や礼節を重んじる文治政治が行われるようになり、幕府の政治は安定するようになりました。

江戸の政治史は政権担当者の流れで見ていきます。人物ごとに漢字1字でキャラづけして、整理していきましょう。

徳川綱吉の政治

17世紀後半、5代将軍徳川綱吉の政治は学問(儒学)を重んじる政治を行いました。

儒学って何よ?

  めじろ

中国の昔の思想家の孔子が唱えた教えだよ。上下の区別を大切にするもので、特に朱子学は幕府の学問とされ、重視されたんだ。

東京の湯島聖堂。湯島天神と並ぶ受験生の聖地です。
綱吉によって建てられ、後に幕府の学問所となりました。

江戸の政治史は政権担当者の流れで見ていきます。人物ごとに漢字1字でキャラづけして、整理していきましょう。

  めじろ

まず徳川綱吉は「犬」かな?

徳川綱吉は極端な動物愛護令の「生類憐みの令」を命じました。捨て子や野犬対策という善政から始まったものの、命令は次第に極端になり、人々の不満は高まりました。

綱吉は自分の死後も「生類憐みの令」を守るよう言い残した。
(だが死後まもなく廃止されていく)

綱吉の時代の元号は元禄で、庶民文化が花ひらいた明るい時代でした。しかし信心深い綱吉が寺社の造営などを盛んに行なったため、幕府の財政は次第に苦しくなりました。

文京区の護国寺。
綱吉の母・桂昌院の願いで建立されました。

綱吉に起用された勘定吟味役・荻原重秀は、質を落とした貨幣を大量に発行し、幕府の収入を増やそうとしましたが、天災が重なったことなどの不運もあって物価高を招いてしまいました。

元禄小判
一時的に幕府の財政を回復させました。

新井白石の政治

綱吉の後、甲府藩から招かれた6、7代将軍に仕えた儒学者が新井白石です。白石の政治を「正徳の治」といいます。白石は綱吉時代の政策を全否定し、貨幣の質を良くして物価の安定に努めました。

新井白石肖像
  めじろ

新井白石の漢字は「正」かな。

「正徳の治」をやったからね。

  めじろ

それもあるけど、「5代将軍の政治を正した」というイメージかな

そうか。「生類憐れの令」を廃止したんだよね。

  めじろ

貨幣の質も良くしたんだ。ま、あまり効果は無かったようだけど。

政治の立て直しとゆらぐ封建社会

享保の改革

8代将軍・徳川吉宗紀伊和歌山藩から40代の働き盛りで、将軍の座をゲットしました。早速新井白石ら前政権の一派を一掃し、将軍自らによる親政を行います。これを「享保の改革」と言います。吉宗は「米価」の動向に心を砕いたことから「米将軍」と呼ばれました。

吉宗の政治を漢字一字で表すと?

  めじろ

「米」しかないw

紀州和歌山城。
徳川吉宗を生んだ土地です。

徳川吉宗の政策で有名なものは、庶民の意見に耳を傾ける「目安箱」ですね。投書は住所・氏名記入式で、将軍吉宗自ら検分しました。

庶民の声を聞く「目安箱」。貧民に無料で医療をほどこす「小石川養生所」などが実現しました。

また大名の石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とする「上米の制」を行いました。

上米は幕府財政を諸藩に支えてもらう「屈辱的な政策」と見なされ不評で、数年で廃止されました。

吉宗の政策で、後世に最も大きな影響を与えたものはキリスト教に関係のない「洋書の輸入」を許したことかもしれません。これによって蘭学の研究が進み、明治維新の近代化へとつながっていくのです。

杉田玄白、前野良沢らは「解体新書」を辞書なしで翻訳します。

田沼意次の政治

9代、10代将軍に仕えた老中・田沼意次は、商人の経済力に注目して、幕府の財政を立て直そうとしました。

田沼さんを漢字一字で表すと?

  めじろ

「商」または「金」かな。「株」でもいい。

株って?

  めじろ

株仲間のことだよ。江戸時代に作られた商工業者の同業者組合のこと。

とにかく田沼というと、ワイロ政治でカネまみれのイメージが強いですね。老中の時に「天明の大ききん」や「浅間焼け」などがあったことから、「世の中が乱れるのは、すべて田沼が悪い」みたいな世論が醸成され、当時から人気のない政治家でした。

これが田沼さんのイメージ

ですが、吉宗にくっついて紀州からやってきた小役の家柄から大名になり、老中にまで昇りつめたのは、この人物の並々ならぬ才覚を示すものだと思われます。

老中・田沼意次。意外にイケメンで、大奥の女性たちにも人気があったという。

同業者組合の「株仲間」を認めたことも、商業資本家との結託!みたいなイメージで、不人気の原因となりました。ですが時代の移り変わり(百姓の時代⇨商人の時代)を見極め、最も富裕層になりつつあった商人から課税する手段を探ったという意味で、再評価されつつあります。

浅間山の鬼押し出し。天災が多く発生したことが、田沼の政治生命を縮めました。

寛政の改革

老中・松平定信が行なった政治が「寛政の改革」です。

松平さんを漢字一字で表すと?

  めじろ

「学」かな?お勉強が好きなイメージ。

田沼の最大の政敵であったのが松平定信です。徳川吉宗の孫ですからエリート意識はすごい。「徳川定信」として将軍職を望んでいたとも言われます。それが白河藩に追いやられてしまう。これは田沼の陰謀だ!と復讐の鬼となるわけです。そして田沼派との壮絶な政争に勝ち、わずか30歳そこそこで老中として、「寛政の改革」を行います。不人気政治家の田沼の後に来たので、老中就任当初の人気は高く、期待値もすごかった。

白河小峰城

ただこの人自体、相当な教養人なので学問へのこだわりが強かったのでしょうか。朱子学以外を幕府の学問所で教えることを禁じ、文武を奨励します。

松平定信自画像。

そしてだんだん民衆は、定信の統治に息苦しさを感じるようになります。有名な狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし 文武というて夜も寝られず」とか「白河の清きに魚も住みかねて もとのにごりの田沼恋しき」などと歌われるようになってしまいます。昔の人の皮肉のセンスってすごいですね。

結局定信は11代将軍家斉を小僧扱いして、くどくど言ったことが煙たがられたのか、わずか7年ぐらいで政権の座を追われてしまいます。

天保の改革

時代は19世紀になり、1837年に大阪で大事件が発生します。大塩平八郎の乱です。

大塩平八郎は大阪人です。「幕府は何やっとんねん?」

大塩は幕府の元役人でしたが、折からの天保の大ききんによる社会の混乱、それに対する幕府の無策に憤って、大阪で挙兵したのです。幕府の元役人が、幕府が直接治める大阪で乱を起こしたことは、大きな衝撃を与えました。

大塩の乱はわずか半日で鎮圧されました。

大きな社会不安が冷めやらぬ中、浜松藩から老中となり「天保の改革」を行ったのが水野忠邦です。

水野忠邦

天保の改革は目立った成果がない印象ですね。水野さんも2年ぐらいで失脚してますし。

短命政権だったのね。水野さんを漢字一字で表すと?

  めじろ

難しいな。「株❌」かな。

何それ?一字じゃないじゃん。

  めじろ

株仲間を解散させたんだよ。

内容としては、田沼「商業に乗る!」政策⇨水野「農村の復興!」政策みたいに、田沼と対比して理解するのがいいんではないでしょうか。田沼の逆をイメージするとわかりやすい。水野忠邦は、物価を安定させるために「株仲間の解散」を命じました。また農村で食えなくなって都市住民となった連中を「人返しの法」で帰農させたりもします。ただやはり時代の流れに逆行するような政策は、長くは続かない。

浜松城は「出世城」とされます。
この城の城主から天下人・徳川家康や老中・水野忠邦を出したことから、そう呼ばれるのだと思います。

三大改革の並び替えは「きたか!おでん(てん)」で覚えます。

学問の発達

江戸時代の学問は、大きく3つに分けて覚えましょう。

杉田玄白が80歳を越えてから著した「蘭学事始」。
この書物に「解体新書」を訳した際の苦難が記録されている。
長崎・鳴滝のシーボルト宅跡地。
水郷の町・佐原に立つ伊能像。
伊勢松阪の本居宣長旧宅。
「古事記伝」。
書き込みと付箋は宣長自身の筆による。

庶民は寺子屋で「読み・書き・そろばん」を習いました。今も昔も学問の基本はいっしょです。

寺子屋での勉強の様子。
民間教育の充実が識字率の高さに繋がり、近代化の礎となった。

また岡山藩では庶民対象に「閑谷学校」が設立されました。

閑谷学校

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