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漢字でキャラづけしよう
江戸の政治史は政権担当者の流れで見ていきます。人物ごとに漢字1字でキャラづけして、整理していきましょう。
綱吉と白石の政治
3代将軍家光の頃までは武断政治といって、従わない大名を取り潰すなど力の支配が行われていました。しかしその結果、浪人(職を失った武士)が増加し、浪人によるクーデター未遂事件(由井小雪の乱)が起こるに至りました。
4代将軍家綱の頃からは、学問や礼節を重んじる文治政治が行われるようになり、幕府の政治は安定するようになりました。
大阪の陣だって島原天草一揆だって、浪人を増やし過ぎたことが原因だったしね。
徳川綱吉の政治
17世紀後半、5代将軍徳川綱吉の政治は学問(儒学)を重んじる政治を行いました。
儒学って何よ?
中国の昔の思想家の孔子が唱えた教えだよ。上下の区別を大切にするもので、特に朱子学は幕府の学問とされ、重視されたんだ。
将軍綱吉の儒学の知識はハンパないもので、自ら講義もしたというよ。今で言えば総理大臣兼大学教授みたいなものか?
うそ!すごいじゃん
江戸の政治史は政権担当者の流れで見ていきます。人物ごとに漢字1字でキャラづけして、整理していきましょう。
徳川綱吉は「犬」かな?
徳川綱吉は極端な動物愛護令の「生類憐みの令」を命じました。捨て子や野犬対策という善政から始まったものの、命令は次第に極端になり、人々の不満は高まりました。
綱吉の時代の元号は元禄で、庶民文化が花ひらいた明るい時代でした。しかし信心深い綱吉が寺社の造営などを盛んに行なったため、幕府の財政は次第に苦しくなりました。
また金山や銀山の産出量は、3代家光の時にピークをむかえ、この頃には金欠状態が始まっていたんだ。
金山といえば佐渡金山ね。佐渡もそうだったの?
佐渡金山も枯渇しつつあった。石見銀山もピークは越えてしまっていたんだ
綱吉に起用された勘定奉行・荻原重秀は、質を落とした貨幣(元禄小判)を大量に発行し、幕府の収入を増やそうとしました。
金欠状態から「元禄バブル」と言われる好景気になったんだ。
荻原重秀は後に新井白石と対立し、その著書でボロクソに描かれたため、長く無能扱いされていました。しかし近年は「現代の信用貨幣経済を200年先取りした」と再評価が進んでいます。
新井白石の政治
綱吉の後、甲府藩から招かれた6、7代将軍に仕えた儒学者が新井白石です。白石の政治を「正徳の治」といいます。白石は綱吉時代の政策を全否定し、貨幣の質を良くして物価の安定に努めました。
新井白石の漢字は「正」かな。
「正徳の治」をやったからね。
それもあるけど、「5代将軍の政治を正した」というイメージかな
そうか。「生類憐れの令」を廃止したんだよね。
貨幣の質も戻したんだ。逆に景気は停滞(デフレ不況)しちゃったようだけど。
政治の立て直しとゆらぐ封建社会
享保の改革
8代将軍・徳川吉宗は紀伊和歌山藩から40代の働き盛りで、将軍の座をゲットしました。
早速新井白石ら前政権の一派を一掃し、将軍自らによる親政を行います。これを「享保の改革」と言います。吉宗は「米価」の動向に心を砕いたことから「米将軍」と呼ばれました。
吉宗の政治を漢字一字で表すと?
「米」しかないw
徳川吉宗の政策で有名なものは、庶民の意見に耳を傾ける「目安箱」ですね。投書は将軍吉宗自ら検分しました。
目安箱では幕府への批判も認められたそうだよ。
心が広いね!
ただし氏名住所を記入しないといけなかった!
え!無記名じゃないの💦
また大名の石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とする「上米の制」を行いました。
吉宗の政策で、後世に最も大きな影響を与えたものはキリスト教に関係のない「洋書の輸入」を許したことかもしれません。これによって蘭学の研究が進み、明治維新の近代化へとつながっていくのです。
なぜ蘭学って言うか分かるかな?
オランダから入った学問だからでしょ。
田沼意次の政治
9代、10代将軍に仕えた老中・田沼意次は、商人の経済力に注目して、幕府の財政を立て直そうとしました。
田沼さんを漢字一字で表すと?
「商」または「金」かな。「株」でもいい。
株って?
株仲間のことだよ。江戸時代に作られた商工業者の同業者組合のこと。
とにかく田沼というと、ワイロ政治でカネまみれのイメージが強いですね。「世の中が乱れるのは、すべて田沼が悪い」みたいな世論が醸成され、当時から人気のない政治家でした。
ですが、吉宗にくっついて紀州からやってきた小役の家柄から大名になり、老中にまで昇りつめたのは、この人物の並々ならぬ才覚を示すものだと思われます。
同業者組合の「株仲間」を認めたことも、商業資本家との結託!みたいなイメージで、不人気の原因となりました。ですが時代の移り変わり(百姓の時代⇨商人の時代)を見極め、最も富裕層になりつつあった商人から課税する手段を探ったという意味で、再評価されつつあります。
田沼が統治した天明期は天災が続発しました。1783年には浅間焼け(浅間山大噴火)が発生しました。
また江戸時代最大とも言われる天明の大ききんも発生。人々は「世の中が乱れるのは田沼が悪い政治をするからだ」と田沼をうらみの対象にしました。
寛政の改革
老中・松平定信が行なった政治が「寛政の改革」です。
松平さんを漢字一字で表すと?
「学」かな?お勉強が好きなイメージ。
田沼の最大の政敵であったのが松平定信です。徳川吉宗の孫ですからエリート意識はすごい。「徳川定信」として将軍職を望んでいたとも言われます。それが白河藩に追いやられてしまう。これは田沼の陰謀だ!と復讐の鬼となるわけです。そして田沼派との壮絶な政争に勝ち、わずか30歳そこそこで老中として、「寛政の改革」を行います。不人気政治家の田沼の後に来たので、老中就任当初の人気は高く、期待値もすごかった。
ただこの人自体、相当な教養人なので学問へのこだわりが強かったのでしょうか。朱子学以外を幕府の学問所で教えることを禁じ、文武を奨励します。
そしてだんだん民衆は、定信の統治に息苦しさを感じるようになります。有名な狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし 文武というて夜も寝られず」とか「白河の清きに魚も住みかねて もとのにごりの田沼恋しき」などと歌われるようになってしまいます。昔の人の皮肉のセンスってすごいですね。
文武とは学問と武芸のこと。
今でも文武両道っていうよね。
蚊が飛ぶ音のブンブンと、文武を掛けたんだね。文武を奨励した定信は口やかましい、と言いたいんだね。
結局定信は11代将軍家斉を小僧扱いして、くどくど言ったことが煙たがられたのか、わずか7年ぐらいで政権の座を追われてしまいます。
天保の改革
時代は19世紀になり、1837年に大阪で大事件が発生します。大塩平八郎の乱です。
天保の大ききんで民衆は困っとる!なのに幕府は何もせえへんやないか?
大塩は幕府の元役人でしたが、折からの天保の大ききんによる社会の混乱、それに対する幕府の無策に憤って、大阪で挙兵したのです。幕府の元役人が、幕府が直接治める大阪で乱を起こしたことは、大きな衝撃を与えました。
大塩は約一か月逃亡した後に、隠れ家を発見され自害している。
よく一月も逃げられたね。
民衆のために命をかけた大塩を、かくまおうとする人は多かったんだ。さすが👍
ありがたいこっちゃ。
大きな社会不安が冷めやらぬ中、浜松藩から老中となり「天保の改革」を行ったのが水野忠邦です。
天保の改革は目立った成果がない印象ですね。水野さんも2年ぐらいで失脚してますし。
短命政権だったのね。水野さんを漢字一字で表すと?
難しいな。「株❌」かな。
何それ?一字じゃないじゃん。
株仲間を解散させたんだよ。
内容としては、田沼「商業に乗る!」政策⇨水野「農村の復興!」政策みたいに、田沼と対比して理解するのがいいんではないでしょうか。田沼の逆をイメージするとわかりやすい。水野忠邦は、物価を安定させるために「株仲間の解散」を命じました。また農村で食えなくなって都市住民となった連中を「人返しの法」で帰農させたりもします。ただやはり時代の流れに逆行するような政策は、長くは続かない。
三大改革の並び替えは「きたか!おでん(てん)」で覚えます。
学問の発達
江戸時代の学問は、大きく3つに分けて覚えましょう。
儒学
幕府公式の学問は儒学でした。現代においてみんなが英会話をやるように、当時は漢文の素読が知識階級の基礎教養でした。
今でいえば英文のシャドーイングみたいな勉強なのかも。
蘭学
将軍吉宗の洋書解禁によって、盛んになったのが蘭学でした。
「キリスト教以外の洋書」という制限があったので、医学など実学中心に盛んになった。
「解体新書」は有名ね。杉田玄白と前野良沢らが訳したんだっけ。
でも最初に出版された時は、訳者の中に「前野良沢」の名前は無かったそうだよ。
なぜ?
それはね・・「解体新書」は辞書なしで訳したから、恥ずかしいけどコジツケでいい加減な訳が多かったんだ。
あら!良沢先生。そうだったんだ!
こんないい加減な本に私の名前を出してほしくない!
とは言っても、当時の学問水準からいえばすごい完成度だったんだけどね。前野良沢(豊前中津藩士)は、語学ヲタでこだわりが強かったんだ。
そうそう。前野さんはプライドが高くて困ったもんだったよ。適当でいいじゃん。
杉田さん!あんたはちょっと適当すぎるんだよ。
細かいところにこだわってたら、いつまでたっても本は完成しないじゃん。
杉田玄白は語学よりも医学重視の人だった。少しくらい不正確な訳でも、内容がいいわけだから、一日も早く発表して医学の発展に役立てたいと思ったんだ。
それも一理あるわね。
それなら私の名前は使わないでもらおう!
頑固なんだから。それだから殿様(豊前藩主・奥平昌鹿)から「蘭化」なんて言われるんだよ。(蘭化とは「蘭学の化け物」という意味)
結局、両者は折り合わず、「解体新書」の訳者に前野良沢の名前が記されることはありませんでした。そうして前野良沢の名前は歴史の中で忘れ去られていきました。
再び「前野良沢」の名前がよみがえったのは明治時代になってから。杉田玄白が83歳の時に著した「蘭学事始」という書物が、明治二年に偶然古書店で発見されたのです。「蘭学事始」は蘭学黎明期を記録した文章で、「解体新書」翻訳時の苦労話などが描かれていたのです。
「蘭学事始」は復刊されることになり、前野良沢の名も約100年ぶりによみがえりました。そしてこの復刻に尽力した人物が、豊前中津藩の後輩・福沢諭吉だったのです。運命のつながりを感じます。
福沢くん。ありがとうなあ〜
「蘭学事始」書いといて良かった。良かった。
医学ではドイツ人医師・シーボルトも有名です。シーボルトは19世紀初頭の長崎で活躍しました。
変ね。江戸時代の日本は、ヨーロッパではオランダしか付き合ってないはず?ドイツって?
よく気がついたね。私はドイツ人だけど、オランダ人と偽って長崎から入国したんだ。ドイツなまりのオランダ語だったから幕府にバレそうになってびびったよ。
当時の幕府の長崎通詞(通訳)のオランダ語リスニング能力は高いレベルにあり、シーボルトの正体は一瞬で疑われたんだ。
「私はオランダの田舎出身なので、
なまってるんです!」とか言ってごまかしたけど、あの時はあせったよ。
シーボルトは長崎の鳴滝という地に鳴滝塾を開き、病気の人を治療したり、医学をこころざす日本の若者を指導したりしました。その教え子の中に高野長英もいました。
変ね。鳴滝って?
また何か気づいたかい?
オランダ人は出島の外には出れないはずでしょ。鳴滝って何よ?
ああ。私は特例で上陸が認められたんだ。医学で貢献してたからね。おかげでオランダ人たちには妬まれて散々嫌がらせされたよ。
シーボルトは日本の文物の収集にも熱心で、日用雑貨や動植物の標本などを集め、オランダに送っていました。
当時は国外に持ち出し禁止だった日本地図をオランダに送ろうとしてバレてね。それで国外追放にされたんだ。
なぜ地図を持ち出しちゃいけないの?
国の防衛の観点から、地図はトップシークレットとされていたんだ。このシーボルト事件によって、シーボルトに協力した日本人は処罰された。
地図くらいいいじゃん。
あなた、色々と型破り過ぎるわ笑
シーボルトが持ち出そうとした日本地図を測量した人物が、伊能忠敬です。
国学
日本の古典(古事記や万葉集など)を研究することで、仏教や儒教が入ってくる以前の日本古来の思想を究明しようとする学問のことです。
儒学は中国。蘭学はオランダ。国学は日本なのね。
伊勢松阪の医師・本居宣長は、「古事記伝」を著しました。
「古事記」は当時は研究が進んでおらず、謎に包まれた書物でした。宣長はなんと35年の歳月をかけ、徹底した注釈を行い、ついに古事記の全貌が明らかになりました。
35年ってすごい執念!
ちなみに今も国学を研究する学校があるって知ってる?
えっ!今もあるの?どこに?
渋谷に大学キャンパスがあるんだけど。ヒントは杉並区久我山に附属校があるよ。
久我山?わかった! 国学院ね!
庶民の教育
庶民は寺子屋で「読み・書き・そろばん」を習いました。今も昔も学問の基本はいっしょです。
寺子屋では女の子も学ぶことが出来たんだ。
ホントだ。上の写真、よく見ると女の子がいるよ。
また岡山藩では庶民対象に「閑谷学校」が設立されました。
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