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今回は江戸時代初期です。シリーズは新カリキュラムになって、江戸時代の回数が4回に増えました。改訂前は江戸260年を無理やり3回で収めようとした結果、徳川吉宗から西郷隆盛までを同じ回で扱うという、極めて愚かなカリキュラムになっていました。この改訂だけでも新カリキュラムを歓迎したいと思います。
江戸幕府の成立
豊臣秀吉の死後の1600年、秀吉の忠実な家来であった石田三成ら(西軍)と、徳川家康ら(東軍)の間で争いが起こり、岐阜県関ヶ原で戦いが起きます。
「天下分け目の戦い」と言われた関ヶ原の戦いです。戦いは小早川秀秋(金吾中納言)の裏切りもあって、東軍が一日で完勝。以後、家康が天下の実権を握ります。
家康は1603年、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。家康は元は三河国の大名でしたが、信長や秀吉に仕えながら、天下取りのチャンスを待っていました。
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。
粘り強くチャンスを待ってたのね。
武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉・・・家康より強い大名は、みんな家康より早く亡くなりました。このうち一人でも長生きしていたら、徳川の天下はなかったかもしれませんね。特に武田信玄となんて、徳川は「三方ヶ原の戦い」で実際に戦って、わずか2時間ぐらいで完全に粉砕されて、敗走していますから。
ところが家康は、わずか2年で将軍職を息子の徳川秀忠に譲ってしまいます。
なぜかしら?せっかく将軍になれたのに!
実は大阪城には、秀吉の息子の豊臣秀頼がいたんだ。秀頼はまだ幼かったけど、大人になったら「再び豊臣の天下を!」と期待する声があった。
そうなんだ。
家康から秀忠へのいきなりの代替わりは、「以後はずっと徳川家が天下を治めますよ。豊臣家に政権を譲るつもりはないですよ」という、家康の意思表示だったんだ。
まあ、意地の悪いオヤジね。
やがて大阪の陣で豊臣秀頼は徳川方に攻められ、滅ぼされることになります。
敗れはしたものの、この戦いで家康本陣に抜刀突撃を敢行して、「日の本一のつわもの」と称えられたのが真田信繁(幸村・左衛門佐)です。
江戸幕府の仕組みで気をつけておきたい知識は、「将軍の補佐役」です。将軍の下には老中が置かれ、臨時の最高職として大老が置かれることもありました。
大阪の陣があった1615年、2代将軍徳川秀忠は大名が守るべき決まりとして「武家諸法度」を定めました。大名とは将軍から1万石以上の領地を治めることを許された武家のことでした。
徳川秀忠と言うと関ヶ原の戦いの時に「徳川本隊を遅参させた」という、致命的に間抜けなイメージが強いですね。しかしこれは上田城の真田昌幸(安房守)の戦上手を褒めるべきではないかと思います。秀忠も家康が亡くなってからは独り立ちし、徳川幕府の体制を固めました。「武家諸法度」によって大名を統制するシステムが構築されます。
また大名が支配する領地や、その仕組みを「藩」といいます。鹿児島なら「薩摩藩」といった感じ。ただし藩という言い方が広く使われるようになったのは、明治時代以降の学問研究の過程でした。「藩」は江戸時代当時はほとんど使われることはなく、例えば「仙台藩士」などという言い方はされませんでした。(「松平陸奥守家中」というような言い方をしていた)
大名の種類は大きく三種類に分類されます。
- 親藩(徳川氏一族)
- 譜代大名(「三河以来」の、古くからの徳川家臣)
- 外様大名(関ヶ原前後に徳川に臣従。警戒され、遠隔地に配置)
親藩の中でも、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家は御三家と呼ばれ、特に尾張と紀伊は将軍職を出せる家柄とされました。
御三家って学校のことじゃないの?
男子御三家(開成、麻布、武蔵)や女子御三家(桜蔭、JG、雙葉)のことだね笑 受験用語としてお馴染みだけど、元々の由来は江戸時代の大名の家柄から来てるんだよ。
そうだったんだ!私も御三家入りたいな〜
がんばれ笑 ちなみに受験の御三家の呼称は、1960年代後半から広まったとされるよ。
そうなの。
それ以前は都立高校全盛時代で、優秀な生徒の多くは都立日比谷や都立西に進学していた。開成だって日比谷の押さえみたいな感じだったんだ。
3代将軍・徳川家光の時に、武家諸法度に「参勤交代」が付け加えられました。これは大名を1年ごとに江戸と領地に代わる代わる住まわせ、妻子は人質として江戸に住まわせるというものです。
- 参勤交代の目的は何でしょう?
-
大名に将軍への忠誠を示させるため
「多くの費用を使わせることで、大名の力を弱める」と答えがちだけどね。
そう思ってたけど・・
それは結果としてそうなったわけで、もともとの目的では無かったんだよ。
さまざまな身分
江戸時代の総人口は約3200万人で、その8割を百姓が占めました。百姓は農民に限らず、林業や漁業に従事する人も含みます。支配階級の武士は全体の7%程度でした。かつてよく使われた「士農工商」という用語は歴史教科書から姿を消しています。
かつては江戸時代=暗黒史観が強く、「百姓は厳しく統制され、その暮らしは過酷を極めた」と教えられていましたが、実際には百姓も、お祭りやお伊勢参りを楽しんだり、多くの農民の子が寺子屋に通ったりする余裕があったなど、近年の研究で見直されてきています。(特に幕府の直轄領=天領での統治は緩やかであったようです)
幕末から明治初期にかけて来日した欧米人が見た日本
『フォーチュンは江戸西南郊へ遠乗りに出かけた時のことをこう書いている。(中略)どこでも農家はきちんとしており清潔に見受けられた。こんな様子はほかの東洋諸国では見たことがない。…風景はたえず変化し、しかもつねに美しい--丘や谷、広い道路や木蔭道、家と花園、そこには勤勉で、労苦におしひしがれておらず、明らかに幸せで満ち足りた人々が住んでいる』
渡辺京二「逝きし日の面影」より
武士による百姓・町人への無礼討ちの「切り捨て御免」も、余程の無礼がなければ認められず、お家取り潰しや切腹を覚悟しなければ切れない、というレベルのものでした。
鎖国へのあゆみ
江戸時代も最初期の家康の頃は、貿易に力を入れていました。大名や大商人に朱印状を与え、東南アジア各地との貿易(朱印船貿易)を進めました。
16〜17世紀ごろのアジアはまだ国境がない世界で、東南アジア各地には日本人が居住する日本町が出来ていました
貿易が盛んになるとキリスト教宣教師の入国や、キリシタンの増加が目立つようになり、幕府は警戒心を強めました。南蛮人と言われたスペイン、ポルトガルの領土的野心が警戒されました。特にスペインはフェリペ二世の時代に、カトリックの布教と並行した植民地支配を世界中に広げ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれました。
スペインって漢字で書けるかな?
漢字なんてあるの?
「西班牙」って書くんだ。
にしはんきば・・?
西班牙でスペインって読むんだよ。だからスペインを漢字一字で「西」って表現したりもする。
最も警戒されたスペイン船はかなり早い時期の1624年に、来航禁止されています。
鎖国の完成
スペイン追放以降の鎖国までの歩みは「2年おき」に変化が起きると覚えておきましょう。
1635年 日本人の出入国禁止
⬇︎2年後
1637年 島原天草一揆(ヒーローみんなの天草四郎)
⬇︎2年後
1639年 ポルトガル船来航禁止(広〜い柵してポルトガル禁止)
⬇︎2年後
1641年 オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。
幕府は1637年の「島原・天草一揆」でキリシタンによる宗教戦争の怖さを知って、1639年ポルトガル船の来航を禁止します。
ポルトガル船追放以後は、キリスト教国との交易はオランダのみになります。オランダの商館は、もともと長崎北部の平戸にありましたが、無理矢理長崎の出島に移転を命じられました。
オランダは平戸を追われ布教を捨てて、出島に押し込められる屈辱に耐えても、対日交易独占の旨味を選んだのです。
鎖国下に開かれた4つの窓口
江戸時代初期に「鎖国」という言葉も考え方もありませんでした。近年は「鎖国」という語を、教科書で使用しないようにしようか?という議論さえあります。
「鎖国」というと「海外との付き合いを一切止めてしまう」ように思えますが、実際には活発な交流が行われていたのです。十分に海外への扉は開かれていました。これを「夏への扉」と覚えます。
夏を英語で言うと、なんていうかわかる?
サマーでしょ。
な➡︎長崎➡︎オランダ(出島)、清(唐人屋敷)
つ➡︎対馬➡︎朝鮮(朝鮮通信使、唯一の国交あり)
さ➡︎薩摩➡︎琉球王国
ま➡︎松前➡︎アイヌ(シャクシャインの戦い)
「夏はサマー」で覚えよう。
鎖国の時代にも、海外への扉は開かれていたのね。
コメント
コメント一覧 (3件)
娘が社会がとても苦手で、親子共々悩んでいました。
そこで、このブログに出会い、解りやすく、是非娘に読んで欲しいと思いましたが、cm??広告?
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この広告を消すことは出来ないのでしょうか?
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いつもありがとうございます。グーグル広告について疎いものでご迷惑おかけしています。調べてみて広告ブロックの設定をしてみました。変化があるといいのですが。お母様の方でチェックしていただいてまだダメなようなら、またお声がけください。よろしくお願い申し上げます。
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