小5下巻1回 予習シリーズ社会の徹底解説と暗記プリント

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いよいよ2学期のスタートです。今回は歴史の第1回。原始時代の学習です。

小5の2学期の留意点として、気をつけるべき科目は算数と社会だと思います。まず算数は質量ともにとんでもないレベルになります。これについていくのはシンドいでしょうが、ここさえ乗り越えてしまえば6年になってかなり楽になります。

社会は、今までずっと地理を学習してきたのに、その知識の貯金が使えなくなります。毎回、新しい知識のオンパレードで、覚えきれなくてガクッと成績を落とすパターンがあります。

また歴史は時代の流れで覚えていかないといけないので、欠席してしまうとついてゆきにくくなります。例えば平安時代の授業を欠席してしまうと、次来るときは400年時間が経過していたりして。これはけっこう怖い。

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目次

旧石器時代の日本列島

数万年前の旧石器時代の日本列島は、強い氷期で大陸と陸続きであっため、現在では見られない多様な生物が生息していました。野尻湖(長野県)ではナウマン象の化石とともに、打製石器が発見されています。

ナウマン象の下顎(国立科学博物館)

ちなみにナウマン象とは、明治時代に東京帝国大学で地質学を教えたドイツ人・ハインリッヒ=ナウマンからとられた名です。フォッサマグナの発見で有名なナウマンは、ナウマン象の標本を最初に研究・報告した人物です。

ナウマン博士(糸魚川市フォッサマグナミュージアム)
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ナウマン象の生体復元模型(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)
石槍を作る旧石器人の人形(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)

縄文時代の人々のくらし

今から1万年前に気候が暖かくなり、氷河が溶けて海面上昇し、日本列島が形成されました。

気候が暖かくなると木の実が多く取れるようになるため、採集が盛んになりました。また象などの大型動物がいなくなり、イノシシなどの中〜小型動物が多くなったために、弓矢を使用した狩が行われるようになりました。

(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)
イノシシ(国立科学博物館)

縄文時代から「土器の使用」が行われます。土器のはたらきとしては、煮炊きができるようになったことが大きい。加熱することで美味しく、安全に食べられるものが増えたということが挙げられます。

縄文土器は縄目の文様が特徴的(東京国立博物館「縄文展」)

魔除けや安産などを祈って、土偶が作られました。多くは女性をかたどっていました。

遮光器土偶の復元模型(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)

縄文時代の遺跡として、貝塚が多く発見されています。貝塚は縄文時代のゴミ捨て場のようなもので、貝塚を調べることで昔の食料や人々の暮らしが推測できます。

大森貝塚公園

大森貝塚の発見者はアメリカ人動物学者・エドワード=モース博士です。モース博士が、横浜駅から新橋駅に向かう列車の中から大森貝塚を発見したエピソードは有名です。

エドワード・モース博士(大森貝塚公園)

(大森貝塚公園)

縄文時代には広い範囲で活発な交易が行われていました。決定的な発見が青森市の三内丸山遺跡でした。

平成の初めに、野球場を作るため土地を整備していたら、遺跡が次々に姿を現しました。見張り塔のこの高さ!もちろん復元ですけど。三内丸山遺跡は「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、世界文化遺産に登録されています。

不思議なことにこの土地は、縄文時代の集落が廃れた後は誰も住まず、長く放置されました。その後は室町時代に一部住まわれた形跡が見つかっています。

異様な大きさですね。三内丸山遺跡は最大で500人を越える人口が暮らしていたといわれます。

三内丸山からは新潟県糸魚川付近で産出された「ひすい」や、北海道で産出された「黒曜石」が発見され、当時の活発な交易がうかがえます。

黒曜石(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)
ひすい(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)

これが縄文女性?!(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)
縄文人のファッション(岐阜市歴史博物館)

弥生時代の人々のくらし

縄文時代の終わり頃、大陸から稲作と金属器が伝わりました。稲作は弥生時代に青森県まで広まりました。有名な遺跡は静岡市の登呂遺跡や、福岡県の板付遺跡です。

登呂遺跡

収穫された米は高床倉庫に保存されました。風通しを良くすることで、湿気を防ぐという働きがあります。

登呂遺跡の高床倉庫

高床倉庫には「ねずみ返し」などの工夫がなされました。これによって害獣の侵入を防ぎます。

ねずみ返し(登呂遺跡)

竪穴住居は縄文時代から鎌倉時代ごろまで、庶民の住居としてずっと使われていました。

竪穴住居(登呂遺跡)

石包丁は稲の収穫に使われました。穴にヒモを通して指にかけて、ナイフのように稲穂を摘みとりました。

「うす」に入れた稲穂を「きね」でついて、脱穀しました。こういった農作業の場面は、銅鐸に刻まれていたことが問われがちですが、子どもたちは「餅つき」と勘違いしがちなので注意です。

金属器のうち、強度の強い鉄器は武具や工具として実用的に使われました。青銅器はおもに祭器として使われました。

銅鐸(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)

農耕の本格化とともに貧富や身分の差が広がります。「ムラ」と表現される小さな集落が形成されます。「ムラ」と「ムラ」は、水や土地、収穫物を巡って争うようになります。争いの結果、統合され、より大きな「クニ」が作られていきます。弥生時代は小国分立のいわば「戦国時代」でもありました。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡

守りを固めるために、周りをお濠で囲んだ集落を環濠集落といいます。

環濠(佐賀県の吉野ヶ里遺跡)
環濠で村を守る!(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)
佐賀県の吉野ヶ里遺跡
佐賀県の吉野ヶ里遺跡
ムラからクニへ。王が生まれ、小国分立の時代をむかえます。(佐賀県の吉野ヶ里遺跡)
これが弥生人女性?(千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館)
弥生人のファッション(岐阜市歴史博物館)

中国の歴史書から見た弥生時代の日本

中国の歴史書には当時の日本が「」という名前で記録されています。

STEP
漢書地理志

紀元前1世紀ごろ、倭は100あまりの小国に分かれていました。

STEP
後漢書東夷伝

1世紀の中ごろ、倭の奴国(福岡平野にあった)の使いが来て、中華皇帝が金印を授けました。

STEP
魏志倭人伝

3世紀に邪馬台国(位置は未確定。九州説と近畿説がある)の女王・卑弥呼30あまりの国を従えていました。卑弥呼は中華皇帝から「親魏倭王」の称号と銅鏡を授かります。

美化された?卑弥呼

ここは福岡県の志賀島。金印公園です。

ここで江戸時代に「漢委奴国王印」が見つかったとされています。

これが福岡市博物館にある本物の金印です。

この金印をもらうことにより、中国の皇帝の後ろだてが得られることになります。

まとめ

歴史の学習で厄介なのは「時代の混乱」です。進みが速いため、回が進むごとに知識が頭の中でごちゃごちゃになります。表を使って、区分け・整理するのがおすすめ。

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