
昭和戦前の回です。比較的新しい時代の学習に入ります。国際状況が複雑で、説明が難しい時代でもあります。
日本の大陸進出
不景気にあえぐ日本
1929年にアメリカで始まった世界恐慌は各国に広がり、日本も大きな打撃を受けました。

都市部では倒産が相次ぎ、失業者があふれました。農村でも暮らしが苦しくなり、弁当を学校に持っていけない子供が多くなったり、娘を身売りしたりする家も増えました。


世界恐慌で農村も影響を受けたんだ。



農家ではアメリカ向けの生糸を作っていたからね。輸出先のアメリカが壊滅したことは、大打撃だったんだ。


賢治はこの時代の東北に生きた詩人、作家、農業指導者でした。
満州事変
次のような流れで「世界史の流れ」を覚えておきましょう。
1919 ベルサイユ条約。以後、国際連盟を中心とする国際秩序・安定
↓(10年後)
1929 世界恐慌で大混乱→各国生き残りをかけて試行錯誤の時代へ。
↓(10年後)
1939 ドイツがポーランドに侵攻、第二次大戦が始まる



10年ごとに大きな事件があったんだね。
世界恐慌の際、先進資本主義国がとった「ブロック経済」が第二次大戦の遠因となりました。ブロック経済とは、本国と植民地を一つの固まり(ブロック)として、その中だけで自由貿易を行い、第三国の製品は関税などで排除するというもの。イギリス連邦の「スターリング・ポンド・ブロック」、フランスの「フラン・ブロック」、アメリカの「ドル・ブロック」などが形成されます。


そうすると、日本としては製品を輸出する先が少なくなってしまいます。外貨を稼げなくなり、経済は破綻してしまいます。当時の主力輸出製品の生糸の輸出先(アメリカ)を失った打撃は、特に大きく響きました。


現在は中国の東北部と呼ばれます。
日本としては、生き残りをかけて「円ブロック」の形成のため、大陸・満州に進出しようとする声が高まります。「満州は日本の生命線である」というスローガンが叫ばれるようになりました。


(満州国建国後のもの)
また当時の中国大陸は統一政府のようなものは存在せず軍閥が割拠し、現地の日本人の安全や経済活動の自由が脅かされる状況でした。



清に代わって成立した中華民国では内乱が続いて、戦国時代みたいな状況だったんだ。



軍閥ってのは何?



群雄割拠する戦国大名みたいなもん。それらをコントロールする強力な中央政府がなく、無法地帯も多かったんだ。
満州に「親日政権」を作り治安を回復し、日本人を保護する。そして「日本円ブロック」の経済圏を形成する。また満州を確保することにより、日本の最大の潜在敵国・ソ連共産主義の南下を防げる。ついでに国内で膨れ上がった人口の移出先を確保できる。(アメリカの排日移民法により、もはやアメリカに移民をおくることはできなくなっていた)・・などなど様々な思惑がありました。


現在は中国共産党吉林省委員会として使われています。
こういった目的で参謀・石原莞爾を中心とした「関東軍(満州の日本陸軍)」が独断専行で動きます。1931年9月、奉天郊外の南満州鉄道の線路が爆破されました。関東軍による自作自演でしたが、関東軍はこれを中国軍の仕業と発表し、ただちに軍事行動にうつりました。これを柳条湖事件(南満州鉄道爆破事件)といいます。


これをきっかけに満州事変が始まります。1931年のことでした。(歴史年代暗記:いくさはじめの満州事変)


広い満州を関東軍はわずか5ヶ月で占領。完全な軍部の独断専行でしたが、東京の政府はビビりながらもそれを追認します。翌年には「満州国」を建国します。


関東軍は「清朝の復興」を大義名分に、清のラストエンペラー溥儀(ふぎ)を担いで、親日政権「満州国」を建国したのです。


満州国は、「満・漢・朝・蒙(モンゴル)・日」の多民族・移民国家の性格を備えていました。漢人たちも万里の長城を超えて、どんどん流入してきました。漢人軍閥の乱れた統治よりも、日本人の法治国家の方が安心して暮らせると判断したのでしょう。満州は以後10年で、1000万人以上の人口増加を果たします。(人口の95%が満人・漢人だった)


満州国では「アジア版アメリカ合衆国」を建国する意欲で、岸信介ら精鋭官僚が国づくりを行いました。都市部の治安や社会インフラは劇的に改善され、満州特急「あじあ号」やコンピューターによる管理システムなど、日本本国を上回る最新鋭のシステムが導入されていきます。


当時の鉄道技術のすべてが投入された。
日本が敗戦後になぜ短期間で経済復興できたかというと、満州国建国の際の近代国家づくりのノウハウがあったからなのです。
国際連盟からの脱退
中華民国は、「満州事変は日本の侵略である」として国際連盟に提訴しました。それに基づいて国連は満州にリットン調査団を送り、状況を調査しました。


リットン調査団は、実は日本にも中国にも配慮した報告書を発表していました。



満州国の建国は承認できない!!



中国としてはうれしいだろうね。



ただし不毛の原野だった満州を開拓し、発展させたのは日本の力だ!日本の権益も尊重すべきだ!



はれ?どっちの味方なのよ?



当時の日本は国際連盟の常任理事国。日本の立場も配慮しなければならなかったんだろうね。



中国のメンツを立てつつ、日本の権利も認めるから、どうにかこの辺を落とし所にしてよ・・。
しかし日本はこれを不服として、1933年国際連盟を脱退してしまいました。





この新聞、なんかカッコいいんだけど笑



劇的に美化されて報道されたんだね。
日本代表であった松岡洋右外務大臣は、「ポーツマスの小村寿太郎のように日本中の批判の嵐にさらされる」とビビりながら帰国しました。ところが歓喜の嵐。さながら凱旋将軍のように出迎えられビックリ仰天したといいます。
軍国主義への道
1932年5月15日、犬養毅首相が海軍将校たちによって暗殺されました。これを「五・一五事件」といいます。



首相を暗殺?なんでそんなことしたの?



恐慌で国民が苦しんでいるのに、政治家たちは何もしてくれない。財閥といっしょに貧しい者たちからお金を奪っている、というイメージがあったんだ。



そうなんだ。不景気が原因だったんだね。



また当時の政府は歳出を減らすために、軍事費を縮小したいと考えていた。そのことも軍部の怒りを招いたんだ。


5月15日17時頃、護衛の巡査が走り込んできて暴漢侵入を告げ、逃げるよう促した。犬養が「逃げない、会おう」と応じたところに、海軍少尉服2人、陸軍士官候補生姿の3人からなる一団が乱入してきた。犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い一団を日本間に案内した。日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。



最後まで話し合おうとするとは・・立派な人だったのね。



ところが当時の世論は軍部に同情的で、テロリストたちも軽い処罰で終わったんだ。



えっ!なんで?



それほど国民の政府への不満は強かったんだ。政治家は腐り切ってる。対して軍部は「正義の味方」のようなイメージが圧倒的だった。



でも暗殺を許しちゃいけないでしょう?



その通り。この事件を軽い罪で終わらせたことがさらなる悲劇を生むんだ。
1936年2月26日、千数百名の陸軍将校たちは軍部中心の政府を打ち立てようと反乱を起こしました。


反乱軍は政治家たちを暗殺し、永田町や霞ヶ関一帯を占拠しました。このクーデター未遂を二・二六事件といいます。


陸軍首脳は動揺し、一時は反乱軍に迎合する姿勢を見せましたが、昭和天皇はこれを許しませんでした。


天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校どもに許しを与える必要などない」と一蹴しました。拝謁に訪れた川島陸軍大臣に対して天皇は、「私が最も頼みとする大臣達をことごとく倒すとは、真綿で私の首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて反乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、徹底鎮圧の指示を伝達しました。


一時は日和りかけた陸軍首脳も昭和天皇の強硬姿勢で正気にかえり、反乱軍は鎮圧されました。しかしこれらの事件をきっかけに、軍部は政治上の発言力を強めていくことになります。こういった風潮を軍国主義といいます。
日中戦争
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍は武力衝突し、日本と中国の全面戦争である日中戦争(当時の名称はシナ事変)が始まりました。





でも実は盧溝橋の武力衝突は、4日間ぐらいで停戦になってるんだ。



あ、そうなの?すぐ終わったんだ。
しかしその後も中国軍による日本軍への散発的な挑発(発砲)は続けられました。7月13日の大紅門事件、7月25日の朗坊事件、7月26日の広安門事件などです。さらに7月29日の通州事件では、女性や子供含む日本人や朝鮮人居留民200名以上が、中国人保安隊によって虐殺されました。



日本への挑発がなかなか止まなかったんだ。
ついに日本軍シナ駐屯軍は総攻撃を決定します。8月は上海、12月は南京(当時の中華民国首都)へと戦火は拡大し、全面戦争へと突入していきます。


日本軍は100万もの兵力を投入しましたが、首都南京を陥落させた後も停戦することは出来ず、1937年〜1945年まで続く泥沼戦争に引きずり込まれることになります。(歴史年代暗記:いくさ長引く日中戦争)



向こうの挑発にまんまと乗った面もある。予習シリーズの説明で「日本軍は満州だけでなく、中国全土を支配しようとしました」とあるけど、そんな単純なものではないんだ。
強まる戦時体制
戦争優先の体制へ
アメリカやイギリス、ソ連などは、中国国民党の指導者である蒋介石を軍事援助しました(援蒋ルート)。このことにより日中戦争は長期化しました。



なんでイギリスやアメリカは中国の味方をしたの?



イギリスもアメリカも、日本に中国での権益を独占されることを恐れていたんだ。また東南アジアに植民地を持っていたため、日本のアジアでの勢力拡大を警戒していた。


この軍事援助によって、戦争は長期化しました。
戦前の日本のような貧乏国が、長期戦を戦うためにはお金が足りませんでした。そのため1938年、国家総動員法が定められました。この法律によって、政府は議会の承認なくとも、戦争に必要な人員や物資を動員できるようになりました。鍋や銅像などの金属類も回収、供出されるようになっていきます。


初代ハチ公は回収されてしまいました。


物資の不足から砂糖やマッチ、米、醤油、ミソなどの日用品は配給制になりました。


一度に手に入る量は限られ、回数も充分でありませんでした。
また戦時下の助け合いの組織として、隣組が作られました。江戸時代の五人組と混乱しないようにしましょう。
第二次世界大戦と日本
大戦のはじまりと三国同盟
ドイツではナチスとよばれる政党を率いるヒトラーが実権を握りました。ヒトラーはベルサイユ体制を破棄し、東ヨーロッパに領土拡張を進めました。


Bundesarchiv, Bild 183-H1216-0500-002 / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 DE , ウィキメディア・コモンズ経由で
1939年9月ドイツはポーランドに侵攻。イギリス、フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。


Bundesarchiv, Bild 146-1976-071-36 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons
ドイツ軍は航空機と戦車部隊による電撃戦を行い、ヨーロッパ諸国を蹂躙しました。1939年10月ポーランド降伏、1940年4月デンマーク、ノルウェー占領。5月オランダ、ベルギー占領。6月にはフランスが降伏しました。


Bundesarchiv, Bild 101I-126-0347-09A / Gutjahr / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 DE , ウィキメディア・コモンズ経由で
ナチスドイツの悪名高い政策は、ユダヤ人への迫害です。多くのユダヤ人が強制収容所に送られ、命を落としました。


門の上には「働けば自由になる」と書かれてあります。


ユダヤ人収容所で命を落としました。
破竹の勢いで勝ち進むドイツ軍の勢いに、「この戦争はドイツの勝利で終わる」という見込みが強まりました。日中戦争が泥沼化し、英米とも対立していた日本は、強力なパートナーを求め、1940年ドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結びました。


↓ロンドンにある第二次大戦の博物館です。


日米対立と太平洋戦争のはじまり
1939年、アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告してきました。当時のアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領は中国やソ連に肩入れしており、日本に対しては極めて冷淡でした。


Photograph: Leon A. Perskiedigitization: FDR Presidential Library & Museum, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons
日米対立が深まることで困るのは日本の方でした。何しろ石油、鉄類、機械類の約7割をアメリカからの輸入に依存していたのです。



今も昔も日本は資源がないのが弱点なんだ。



この頃はアメリカから石油を買ってたのね!



中東油田の開発はまだ本格化してないからね。
危機感を覚えた日本は、東南アジアにある石油や天然ゴムを手に入れるため、フランス領インドシナ半島に進出しました。




また南下するに伴い、北方の守りが手薄になる危険性が生じました。最大の仮想敵国・ソ連が満州に攻めてくる可能性があったのです。そこで1941年、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、北方の安全を図りました。


ソ連としてもドイツとの戦争(独ソ戦)目前の情勢で、いったん日本と中立しておく必要がありました。


独ソ戦の天王山「スターリングラード攻防戦」。
しかし日本の南進に対してアメリカは、想像を超える経済制裁を科してきました。1941年8月、日本への石油の輸出禁止を通告。



石油の輸出禁止?マジ?



現代に例えればサウジと絶交するようなものだね。



日本、崩壊するじゃん?



マジで崩壊5秒前だよ。当時、石油の備蓄は約一年半分しかなかった。ほとんど宣戦布告に等しい経済制裁だったんだ。
1941年10月、陸軍大将の東条英機が首相となりました。


日本国内の世論はアメリカに対する反発から「開戦論」が高まっていましたが、昭和天皇はなんとしても日米戦を回避することを望んでいました。天皇の内意を受けた東条内閣には日米交渉を粘り強く続け、和平に導く使命が課せられていました。


しかし1941年11月、アメリカのハル国務長官から示された「ハル・ノート」の内容は強硬なもので、日本側にとって到底受け入れられるものではありませんでした。
ハル・ノート
①中国大陸からの日本軍全面撤兵(満州含むという説もある)
②フランス領インドシナからの日本軍全面撤兵
③中国の親日政府(汪兆銘政権)の否認
④日独伊三国同盟の解消
ハル・ノートは日本の権利を1ミリも認めないもので、今までの和平交渉の積み上げをぶち壊すようなものでした。日本はハル・ノートを事実上の最後通牒、または宣戦布告であると受け取りました。



なぜアメリカはそんな強い態度に出たの?



石油輸出を禁止した時点で、アメリカの気持ちは「対日開戦」で決まっていたと思うよ。



そうだったの?



でもルーズベルト大統領は選挙の時に、「第二次大戦にアメリカは絶対参戦しません!」と約束したんだ。



じゃあするなよ。



でも本音ではヨーロッパ戦線に参戦して、イギリスを助けてドイツを叩きたかったんだ。



ドイツを?



アメリカの本命はドイツ。ドイツと戦うために、日本を挑発して戦争に持ち込もうとしたという説がある。



ドイツと日本の何の関係があるの?



ほらっ。日独伊三国同盟があったじゃない?



あっ、そうか!日本とドイツは同盟国だから、日本を怒らせて戦争に持ち込めば、ドイツとも戦争できると考えたのか!



これは「裏口参戦論」と呼ばれる一つの仮説だけどね。
先生が黒板になにかを書いている……日本の石油の輸入の割合だ……おやっ……教科書にそんなこと書いてあったっけ……。先生の声が耳にもどってくる。先生はどんどんしゃべっていく。日本は資源が乏しいこと、発展するために外国から資源を輸入しなければならないこと、どんなに資源の乏しい国でも、貿易によって発展する権利があること、しかし、欧米諸国は、アジアの国が発展しすぎることは許せないと思っていたこと、そこで、日本の資源輸入を困難にしていったこと……しかもなんとアメリカは、実は、欧州戦に参戦する契機をつかもうとしていたこと……違う! 教科書と全く違うことを先生は授業でしゃべっている!
猪口邦子「パールハーバーの授業」より
日米交渉は失敗に終わり、1941年12月8日、日本陸軍はマレー半島のイギリス軍を、日本海軍はハワイ真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃しました。こうして太平洋戦争が始まりました。


日本は航空機でアメリカ艦隊を奇襲攻撃しました。








わずか2ヶ月でイギリスのシンガポール要塞を陥落させました。



太平洋戦争には別名があるんだ。



なんて言うの?



大東亜戦争って言うの。閣議決定された正式名称で、当時の日本ではみんなこう呼んでたんだ。



知らなかった。



昔JGで出たこともあるんだよ。



ほんと!覚えとこう・・。



大東亜戦争は「欧米の植民地支配からアジアを解放する」という戦争目的から名付けられたんだ。



えっ?そんな目的だったっけ?石油止められたからじゃなかったの?



まあ本音は南方の資源確保なんだろうけどね。でも戦争には「美しい大義名分」が必要なんだよ。たとえ後付けでも。
この戦争によって欧州列強は力を失い、結果的にアジア諸国は独立を実現しました。「欧米の植民地支配からアジアを解放する」という目的は図らずも実現することになります。




回避行動中の空母「飛龍」。
1942年のミッドウェー海戦で、日本海軍は虎の子の空母4隻を失います。以後、徐々に劣勢に立たされていきます。




空襲が激しくなると小3以上の子供は親元を離れて、地方へ避難させられました。
1943年から兵力不足を補うため、20歳以上の文系学生を徴兵しました。これを学徒出陣といいます。


ただしこれは日本に限ったことでなく、たとえばイギリスでは大戦当初から学生や女性も戦争に加わっていました。


後方支援の軍務についていました。
また労働力不足を補うために、中学生や女学生たちが勤労動員として農村や工場で働きました。


日立航空機・立川工場変電所です。




戦争の終わり
1945年3月10日、アメリカ軍の爆撃機が東京の下町を焼夷弾で攻撃しました。一夜にして10万人以上の人が犠牲になったこの空襲を、東京大空襲といいます。


東京大空襲の時は一晩で32万発も投下されました。
アメリカ軍は日本家屋の多くが木造だということに目をつけ、焼夷弾を使って焼き払い、日本の戦意を失わせようとしました。



それにしても市街地の民間人をねらうなんて酷すぎるわ。



今なら完全な戦争犯罪だろうね。戦勝国なら何をやっても不問に付されるわけではない。いつか必ず歴史の審判を受けることになるでしょう。


続いて3月13日には大阪大空襲、3月17日には神戸大空襲、3月19日には名古屋大空襲が行われました。日本に空襲対策を考える時間を与えず、一気に壊滅させようとしたのです。空襲は終戦当日まで続き、200もの都市が被害を受けました。




1945年4月、アメリカ軍が沖縄島に上陸します。民間人を巻き込んだ最大の地上戦が行われました。


この後に待っている死闘をまだ知らない。




特攻を受けて炎上する空母イントレピッドは、現在ニューヨークのハドソン川で見学することができます。
沖縄戦では12万人とも言われる民間人犠牲者の多さに驚かされます。ひめゆり部隊として有名な女学生の看護隊がよく知られるように、沖縄県民は最後まで献身的な戦いを続けました。


6月23日、沖縄を守備していた第32軍の牛島満中将らが自決し、沖縄における組織的抵抗は終了しました。今も毎年6月23日は「沖縄慰霊の日」とされ、内閣総理大臣が出席する慰霊の儀式が行われます。


国籍問わず、沖縄戦の全ての戦死者が刻まれます。
沖縄戦の日米両軍の死者は20万人にも及びます。アメリカ軍の被害も甚大で約2万人の戦死者を出し、最高司令官サイモン・バックナー中将が戦死するほどでした。沖縄戦のあまりの死闘ぶりに、日米両国の間で厭戦気分(戦いを嫌がる空気)が生まれはじめました。
1945年5月にドイツが降伏。ヒトラー総統は自殺しました。1945年7月にドイツのポツダムでアメリカ、イギリス、中国(のちにソ連も)は会談を開き、日本に降伏を求めるポツダム宣言を発しました。


ルーズベルトが4月に病死したため、副大統領から昇格しました。
予習シリーズには「ポツダム宣言を日本政府は黙殺した。だから原爆が落とされた」と、まるで日本が悪いみたいに書かれていますが、鈴木貫太郎首相が述べた「黙殺」という言葉は「拒絶」という意味ではなく、「静観」ぐらいの意味であったと思われます。


昭和天皇との阿吽の呼吸で「終戦」を成し遂げました。


昭和天皇の意向はポツダム宣言受諾の方向でしたが、国内には陸軍中心に「本土決戦」を主張する人々も多かったため、鈴木首相は難しい舵取りを迫られていました。そして8月6日、広島が原子爆弾によって攻撃されました。


「負の遺産」として世界遺産に登録されています。
8月9日には長崎が同じく原子爆弾の攻撃を受けました。


さらに8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って、満州や樺太、千島列島に攻め込んできました。樺太の真岡郵便局では迫り来るソ連軍の辱めを受けまいと、九人の乙女が自決する悲劇がありました。




最後は昭和天皇の「聖断」によって、ポツダム宣言の受諾が決定し、8月15日にラジオ放送で国民に伝えられました。


1945年9月2日、東京湾内に浮かぶ戦艦ミズーリ艦上で、降伏文書の調印がなされました。




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