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外国船の来航と江戸幕府
鎖国中の日本に最初に接近してきたのは、北方の大国ロシアでした。1792年エカテリーナ女帝の命を受けた外交官ラクスマンは、根室に来航します。
大黒屋光太夫らの日本人漂流民を送り届ける名目で、日本との通商を求めに来たのです。
外国船が日本近海に現れるようになると、幕府は日本周辺の地域を間宮林蔵らに探検させました。
間宮林蔵は、樺太が島であることを発見。「間宮海峡(タタール海峡)」にその名を残します。間宮林蔵は樺太はおろか、対岸の大陸・アムール川河口にまで渡り、現地人に殺されそうになる危険を冒しながら、北方を探検しました。
間宮林蔵の師匠が、あの伊能忠敬です。伊能の蝦夷地測量には、国防上の目的がありました。
19世紀に入ると、外国船との間でのトラブルが頻発しました。19世紀初めのヨーロッパはナポレオン戦争のただなかです。
1808年、イギリスは敵国であったオランダ船を偽装。長崎港に不法入港し、オランダ商館員を人質に食料や水、燃料を強奪しました(フェートン号事件)。その前年の1807年には択捉島がロシア軍艦から砲撃される露寇事件も発生しています。
こういった情勢に危機感を覚えた幕府は、1825年異国船打払令を発し、外国船が近づいたら直ちに追い払うことを命じました。
1837年、アメリカのモリソン号が浦賀(神奈川)に来航しましたが、異国船打払令にしたがって幕府は砲撃を行いました(モリソン号事件)。
蘭学者の高野長英や渡辺崋山は、この事件について批判的であると見なされ、処罰を受けました。この天保の蘭学者弾圧事件を蛮社の獄といいます。
画家としても著名だった渡辺崋山(本名:渡辺登)は公に幕府を非難したわけではなく、個人的な日記に批判を記していただけでしたが、無理矢理に罪を被せられました。最期は三河田原の自宅に蟄居となり、苦悩のあげく自害しました。
シーボルトに学んだ高野長英はいったん捕縛されるものの、脱獄を敢行。約6年も日本中を転々と逃亡しました。
長英は薬品で顔を焼いて人相を変えて、青山百人町に潜んでいましたが、幕府の知るところとなり、1850年に捕縛。その場で撲殺されています。
この時代は日本各地で国防意識が高まり、鉄製武器を国産で作ろうとする動きが始まりました。名君・島津斉彬(薩摩藩)や鍋島直正(肥前佐賀藩)らは反射炉を建設し、鉄製大砲を製造することに成功しました。
肥前佐賀藩の実力は凄い。まさに「幕末の筑駒」だね。
幕府の江川太郎左衛門も、伊豆・韮山に反射炉を建設しました。彼らは外国人の直接の指導なしに、書物で得た知識だけで、これらの巨大な建造物を造り、武器の生産に成功したのです。
1840年アヘン戦争が勃発します。麻薬のアヘンを輸出しようとしたイギリスと清が戦争をして、イギリスが圧勝したのです。
ヨーロッパ強国の強さを知った幕府(水野忠邦)は、すぐに異国船打払令を廃止しました。
外国の情報なんてどうやってわかったの?
オランダから「オランダ風説書」で情報を得ていたからね。
そうだったんだ。
ペリー来航だって、幕府は半年も前に情報をつかんでたと言われるよ。
すごいね!幕府の情報網。
19世紀にもなると、意外に海外との距離は近いんですね。たとえば当時のアメリカの最大のヒット曲「おおスザンナ」(1848年、フォスター作曲)は2〜3年後には日本に伝わっていました。漂流してアメリカの生活を経験し、帰国したジョン万次郎が伝えていたのです。
黒船の来航と開国
1853年、アメリカのマシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦(黒船)が、浦賀(神奈川)に来航しました。
開国を求める!さもないと・・・
ペリーは高圧的な態度で、幕府に開国を要求。降伏を意味する白旗を渡して、幕府を威嚇したという説もあります。
ペリー艦隊は太平洋航路ではなく、アメリカ東海岸を出発→大西洋→インド洋→琉球→小笠原→浦賀のルートで来航しました。
当時の庶民が描いたペリー提督の絵がたくさん残されています。もちろん一般人がペリーを目撃できるはずもなく、想像図なのですが、なかなか楽しい。
幕府は翌年に返事をすることを約束して、いったんペリーにお引き取りを願いました。ここから幕末の風雲が始まっていきます。
ひどい顔に書かれてる!見たこともないのに。
アメリカから開国を迫られた幕府は、品川沖に砲台を建設させました。ここが今はフジテレビがある「お台場」です。この建設も江川太郎左衛門が担当しました。
幕府はペリーの強い態度に押されて、翌1854年に日米和親条約を結びました。下田(静岡)と函館(北海道)を開港し、長い鎖国が終わりを告げました。
よし!開国成功!歴史に名を残したぜ!
残念ながら日本人ならみんな知ってるペリーも、実はアメリカ本国ではあまり知られてないらしい。
そうなの?ガッカリ。
初代アメリカ領事タウンゼント・ハリスは、幕府に貿易の開始を要求しました。反対の声も多い中、大老・井伊直弼は1858年に日米修好通商条約を締結しました。
新しい日米条約を結ぶことを求める!
なんで?日米和親条約を結んだばっかりじゃん!
自由に貿易できる通商条約を結びたいんだよ。
一度開国してしまったら、時代の流れには逆らえない・・
開国にともなって、外国人たちが日本にやってきます。長崎にはフランス人の手によって大浦天主堂(ふらんす寺と呼ばれた)がつくられました。
1865年、10数名の男女が建てられてまもない大浦天主堂を訪れ、フランス人神父プチジャンに「わたしたちは皆、あなたと同じ心です」と告白しました。なんと彼らは200年もの間、「潜伏キリシタン」として、密かに信仰を守り通していたのです。この出来事は「信徒発見」としてすぐさま全世界に伝えられ、感動と衝撃をもって受けとめられました。
開国の影響と倒幕運動
幕末貿易は①横浜港中心、②イギリスが相手国と覚えておきましょう。日本を開国させたのはアメリカですが、この時代にアメリカでは南北戦争が勃発。国家存亡の危機に瀕し、日本どころではない状況になってしまいました。
アメリカが撤退したスキをついて、イギリスが対日貿易に食い込んできたんだ。
横浜貿易では、生糸(輸出品の8割)と茶が国内生産が追いつかなくなるほど輸出され、値上がりしました。それにともなって米などの生活必需品も値上がりし、庶民の生活は苦しくなりました。
「外国の言いなり」のように見える幕府に対して、批判的な意見を持つ者が増えてきました。それに対して大老・井伊直弼は容赦ない弾圧を加えました。(安政の大獄)
幕府に逆らうものは許さないぜ!
井伊直弼は彦根藩主の十四男として生まれたため、到底藩主になれるような立場でありませんでした。若き日の直弼は、彦根城そばの屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と自嘲的に名付け、そこで芸事に日々を費やしていました。
私はここで風流に生涯を終えるはずだったんだけどね。
井伊直弼のあだ名は「チャカポン」っていうんだよ
「チャカポン」ってなに?笑
茶・歌・ポン・・つまり茶道、和歌、ポンは鼓のこと。つまり後継ぎでないために、日々を芸事で過ごしている、と茶化す意味があるんだ。
何かかわいい響きね。
茶道も学問も玄人並みに達していたらしいよ。
チャカポンと呼ばれても楽しい生活だった・・。
この風流人の直弼が大老に抜擢されたとたん、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになるんだ。
チャカポンから赤鬼!一気に怖くなったのね。
井伊家は徳川譜代の名門。幕府を守るためなら鬼にでもなるさ
安政の大獄では、多くの有能な人物も処刑されました。その中には越前福井藩の橋本左内や、長州藩の若きリーダー・吉田松陰らがいます。
松蔭先生〜〜!(涙)
1860年3月、厳しい弾圧に反発した水戸藩や薩摩藩らの志士たちによって、井伊直弼は江戸城桜田門そばで襲われ、暗殺されてしまいました。(桜田門外の変)これによって幕府の権威は大きく失墜します。
まさか江戸城の真ん前で暗殺されるとは・・残念だ!
幕末には日本中で尊王攘夷運動が広まりました。尊王攘夷とは天皇を尊び、外国人を打ち払おうという考えです。尊王攘夷の中心となったのは、薩摩藩と長州藩でした。有名な新選組が京都で活躍し出すのもこの時代です。
長州藩は攘夷を実行する!!
1863年、長州藩は関門海峡を通過する外国船を無差別砲撃します。(翌年報復され、砲台を占領されます)
ぐぬぬ!外国、強いな・・!
一方、薩摩藩は1862年に横浜近郊でイギリス人殺傷事件(生麦事件)を起こし、イギリスを激怒させました。
なんでそんなことをしたの?
薩摩藩の殿様の行列の前を、イギリス人が馬に乗ったまま、通過しようとしたんだ。
それがなんだっての?
武士にとっては、殿様を侮辱する行為に思えたんだよ。
そうなんだ!こわっ!
現にその直前に行列に出会った外国人は、下馬した上でお辞儀をして通過を待ったため、いっさい危害を加えられていないんだ。
そうなの・・。郷に入れば郷に従え、ということか。それにしても怖いね。
イギリスは薩摩への報復を決意します。翌1863年、イギリス艦隊は薩摩の錦江湾に侵攻し、鹿児島市内に砲撃を加えます。これを薩英戦争と言います。
名君・島津斉彬のもと近代化を進めていた薩摩藩は、意外にも善戦します。イギリス旗艦ユーライアスは薩摩の砲撃を受け、艦長が戦死しています。
外国の実力を知った薩摩・長州は、むしろ外国に近づき、幕府を倒して「自分たちの手で、外国に負けない近代国家を建設しよう」と目覚めました。尊王攘夷から武力倒幕へと、流れが変わっていきます。
外国は強い。幕府を倒して、日本を強い国にせねば・・
薩摩さん、見直したよ。イギリスは味方になってもいいですよ。
江戸幕府の滅亡
1866年、土佐藩浪人・坂本龍馬の仲立ちで、薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結びました。
薩長同盟は、幕府を倒すための秘密同盟です。
ともに力を合わせて幕府を倒そう!
わかりもした。
貴族の岩倉具視も仲間の一人であり、天皇の命令という形をとって、幕府を「朝敵」として討伐する手はずでした。
ところが薩長の動きを知った15代将軍徳川慶喜は、1867年に薩長の機先を制して大政奉還を行い、政権を朝廷に返しました。
政権を朝廷にお返しする!
え!?
260年続いた江戸幕府は滅びましたが、政権を返されてしまっては、薩長としては幕府を倒す大義名分を失ったも同然でした。
大政奉還されては、薩長も挙兵出来まい。それが私の狙いよ。
武力で幕府を倒すつもりだったのに・・。
かえってやりにくくなったぞ
朝廷は幼帝・明治天皇を立て、王政復古の大号令を発しました。薩長を中心とする新政府は、徳川氏に対して「領地を引き渡せ」など挑発とも取れる無理難題を突きつけました。あえて戦争を引き起こし、旧幕府勢力を武力で討ち果たすことが狙いでした。
徳川はすべての領地や役職を朝廷にお返しすること!
ぐぬぬ・・。生意気な・・!
旧幕府軍は薩長の挑発に乗って暴発。1868年に新政府軍vs旧幕府軍による戊辰戦争が始まります。戊辰戦争は京都の鳥羽・伏見の戦いで始まり、新政府軍が戦いを優位に進めます。徳川慶喜は早々に戦意を喪失し、水戸で謹慎してしまいます。
もう勝てない・・。私は水戸で謹慎する。
徳川慶喜は英邁で知られたが、ここぞというところで全く頼りにならない。
新政府軍による江戸城総攻撃寸前に、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣・勝海舟が話し合い、江戸城は無血開城されました。すんでのところで、江戸は戦火から守られました。
戊辰戦争は戦線がどんどん北上していきます。夏には最大の激戦・会津戦争が勃発しました。
戊辰戦争の最後の決戦地は、函館でした。ここで旧幕府軍は降伏し、全ての戦闘は終わりました。
幕末に活躍した人物を整理しよう!
長州藩の吉田松陰は、松下村塾で長州藩の若者たちを指導しました。その弟子には木戸孝允や高杉晋作、伊藤博文などがいます。
吉田松陰は下田沖でペリー艦隊に密航しようとしたこともあります。(ペリーに拒絶され失敗)
長州藩・木戸孝允(桂小五郎)は吉田松陰に学び、薩摩藩の西郷隆盛らと薩長同盟を結びました。
薩摩藩の大人物が西郷隆盛(吉之助)です。戊辰戦争では勝海舟と話し合い、江戸城を無血開城させました。
この銅像を見た西郷の奥さんは「うちの夫はこんな人じゃなかった」と言ったそうだよ。
そうなの?西郷さんっぽいけど。
西郷さんは写真嫌いで生前は一枚も写真を残してないんだ。
でも顔知ってるけど。
この顔は西郷さんの死後、イタリア人によって描かれた肖像画を元にしている。その画家は西郷さんに一度も会ったことがなくて、西郷さんの弟の顔をモデルに描きあげたんだって。
そうだったのか!
西郷の幼なじみで、明治時代に入って最強の政治家となるのが、大久保利通(一蔵)。
西郷と大久保の家、めっちゃ近いです笑
そして一番の人気者が土佐藩・坂本龍馬です。
坂本龍馬がこんな大ヒーローになったのは、歴史小説「竜馬がゆく」で取り上げられてからかな。
漫画やドラマでもやたら描かれてるよね。
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