小5下巻13回 予習シリーズ社会の徹底解説と暗記プリント

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目次

外国船の来航と江戸幕府

鎖国中の日本に最初に接近してきたのは、北方の大国ロシアでした。1792年エカテリーナ女帝の命を受けた外交官ラクスマンは、根室に来航します。大黒屋光太夫らの日本人漂流民を送り届ける名目で、日本との通商を求めに来たのです。

エカテリーナ宮殿
(ロシア・サンクトペテルブルグ)
エカテリーナ宮殿・大広間
ここでロシア女帝エカテリーナ二世は日本人漂流民に帰国を許可しました。

外国船が日本近海に現れるようになると、幕府は日本周辺の地域を間宮林蔵らに探検させました。

間宮林蔵の立像
(北海道・宗谷岬)

間宮林蔵は、樺太が島であることを発見。「間宮海峡(タタール海峡)」にその名を残します。間宮林蔵は樺太はおろか、対岸の大陸・アムール川河口にまで渡り、現地人に殺されそうになる危険を冒しながら、北方を探検しました。

樺太(サハリン)

間宮林蔵の師匠が、あの伊能忠敬です。伊能の蝦夷地測量には、国防上の目的がありました。

伊能忠敬の立像
(千葉県佐原)

19世紀に入ると、外国船との間でのトラブルが頻発しました。19世紀初めのヨーロッパはナポレオン戦争のただなかです。1808年、イギリスは敵国であったオランダ船を偽装。長崎港に不法入港し、オランダ商館員を人質に食料や水、燃料を強奪しました(フェートン号事件)。その前年の1807年には択捉島がロシア軍艦から砲撃される露寇事件も発生しています。

フェートン号

こういった情勢に危機感を覚えた幕府は、1825年異国船打払令を発し、外国船が近づいたら直ちに追い払うことを命じました。

異国船打払令は「一発GO!(1825)」で年代暗記する。

1837年、アメリカのモリソン号が浦賀(神奈川)に来航しましたが、異国船打払令にしたがって幕府は砲撃を行いました(モリソン号事件)。

モリソン号

蘭学者の高野長英渡辺崋山は、この事件について批判的であると見なされ、処罰を受けました。この天保の蘭学者弾圧事件を蛮社の獄といいます。

渡辺崋山の像
(愛知県田原市)

画家としても著名だった渡辺崋山(本名:渡辺登)は公に幕府を非難したわけではなく、個人的な日記に批判を記していただけでしたが、無理矢理に罪を被せられました。最期は三河田原の自宅に蟄居となり、苦悩のあげく自害しました。

「不忠不孝渡辺登」崋山が自害直前に書いた遺品の複製
(田原市博物館)

シーボルトに学んだ高野長英はいったん捕縛されるものの、脱獄を敢行。約6年も日本中を転々と逃亡しました。

高野長英
幕府の追っ手から6年も逃げおおせたのはすごい。

長英は薬品で顔を焼いて人相を変えて、青山百人町に潜んでいましたが、幕府の知るところとなり、1850年に捕縛。その場で撲殺されています。

高野長英の隠れ家
(愛媛県卯之町)

この時代は日本各地で国防意識が高まり、鉄製武器を国産で作ろうとする動きが始まりました。名君・島津斉彬(薩摩藩)や鍋島直正(肥前佐賀藩)らは反射炉を建設し、鉄製大砲を製造することに成功しました。

佐賀藩のつくった反射炉の図
(佐賀城本丸歴史館)

幕府の江川太郎左衛門も、伊豆・韮山に反射炉を建設しました。彼らは外国人の直接的指導なしに、書物で得た知識だけでこれらの巨大な建造物を造り、武器の生産に成功したのです。

伊豆韮山の反射炉

1840年アヘン戦争が勃発します。麻薬のアヘンを輸出しようとしたイギリスと清が戦争をして、イギリスが圧勝したのです。

アヘン戦争

ヨーロッパ強国の強さを知った幕府(水野忠邦)は、すぐに異国船打払令を廃止しました。

外国の情報なんてどうやってわかったの?

  めじろ

オランダから「オランダ風説書」で情報を得ていたからね。

そうだった。

  めじろ

ペリー来航だって、幕府は半年も前に情報をつかんでたと言われるよ。

すごいね!幕府の情報網。

黒船の来航と開国

1853年、アメリカのマシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦(黒船)が、浦賀(神奈川)に来航しました。

黒船サスケハナ号
下田に行くと黒船観光船に乗れます。

ペリーは高圧的な態度で、幕府に開国を要求。降伏を意味する白旗を渡して、幕府を威嚇したという説もあります。

ペリー艦隊は太平洋航路ではなく、アメリカ東海岸を出発→大西洋→インド洋→琉球→小笠原→浦賀のルートで来航しました。

ペリー艦隊は大西洋→インド洋→琉球・小笠原→浦賀のコースをたどった。
(横須賀市ペリー公園)

当時の庶民が描いたペリー提督の絵がたくさん残されています。もちろん一般人がペリーを目撃できるはずもなく、想像図なのですが、なかなか楽しい。

当時の人々が描いたペリー想像図
(伊豆下田・黒船ミュージアム)

幕府は翌年に返事をすることを約束して、いったんペリーにお引き取りを願いました。ここから幕末の風雲が始まっていきます。

当時の人々が描いたペリー想像図
(伊豆下田・開国博物館)
当時の人々が描いたペリー想像図
(伊豆下田・開国博物館)
当時の人々が描いたペリー想像図
(伊豆下田・開国博物館)

アメリカから開国を迫られた幕府は、品川沖に砲台を建設させました。ここが今はフジテレビがある「お台場」です。この建設も江川太郎左衛門が担当しました。

お台場に造られた砲台の跡
(都立台場公園)

幕府はペリーの強い態度に押されて、翌1854年に日米和親条約を結びました。下田(静岡)と函館(北海道)を開港し、長い鎖国が終わりを告げました。

最初のアメリカ領事館となった玉泉寺
(下田市)

初代アメリカ領事タウンゼント・ハリスは、幕府に貿易の開始を要求しました。反対の声も多い中、大老・井伊直弼は1858年に日米修好通商条約を締結しました。

初代アメリカ領事タウンゼント・ハリス

開国にともなって、外国人たちが日本にやってきます。長崎にはフランス人の手によって大浦天主堂(ふらんす寺と呼ばれた)がつくられました。

国宝・大浦天主堂は世界遺産にもなりました。
(長崎市)

1865年、10数名の男女が建てられてまもない大浦天主堂を訪れ、フランス人神父プチジャンに「わたしたちは皆、あなたと同じ心です」と告白しました。なんと彼らは200年もの間、「潜伏キリシタン」として、密かに信仰を守り通していたのです。この出来事は「信徒発見」としてすぐさま全世界に伝えられ、感動と衝撃をもって受けとめられました。

信徒発見の碑
(長崎市・大浦天主堂)

開国の影響と倒幕運動

幕末貿易は①横浜港中心、②イギリスが相手国と覚えておきましょう。日本を開国させたのはアメリカですが、この時代にアメリカでは南北戦争が勃発。国家存亡の危機に瀕し、日本どころではない状況になってしまいました。

南北戦争の時代の北軍大統領・リンカーン

横浜貿易では、生糸(輸出品の8割)とが国内生産が追いつかなくなるほど輸出され、値上がりしました。それにともなって米などの生活必需品も値上がりし、庶民の生活は苦しくなりました。

生糸は開国当時の主力輸出品でした。
Kuebi = Armin Kübelbeck, CC BY-SA 3.0 , ウィキメディア・コモンズ経由で

「外国の言いなり」のように見える幕府に対して、批判的な意見を持つ者が増えてきました。それに対して大老・井伊直弼は容赦ない弾圧を加えました。(安政の大獄

大老・井伊直弼の像

井伊直弼は彦根藩主の十四男として生まれたため、到底藩主になれるような立場でありませんでした。若き日の直弼は、彦根城そばの屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と自嘲的に名付け、そこで芸事に日々を費やしていました。

埋木舎で井伊直弼は青春を過ごしました。
彦根城そばの埋木舎。
井伊直弼はここで風流な生涯を終えるはずだった。
  めじろ

井伊直弼のあだ名は「チャカポン」っていうんだよ

「チャカポン」ってなに?笑

  めじろ

茶・歌・ポン・・つまり茶道、和歌、ポンは鼓のこと。つまり後継ぎでないために、日々を芸事で過ごしている、と茶化す意味があるんだ。

何かかわいい響きね。

  めじろ

茶道も学問も玄人並みに達していたらしいよ。

埋木舎パネル。NHK大河ドラマの第一作「花の生涯」の主役は井伊直弼でした。
  めじろ

この風流人の直弼が大老に抜擢されたとたん、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになるんだ。

チャカポンから赤鬼!一気に怖くなったのね。

安政の大獄では、多くの有能な人物も処刑されました。その中には越前福井藩の橋本左内や、長州藩の若きリーダー・吉田松陰らがいます。

安政の大獄で捕縛された吉田松陰像
(山口県萩市・吉田松陰歴史館)

十歳で死ぬ者は十歳の中に四季をもち、二十歳で死ぬ者は二十歳の中に四季をもつ。自分は三十歳まで生き、様々な四季の移ろいを経て、結実の時を迎えた。
処刑前に松陰吉田寅次郎が記した遺言「留魂録」

1860年3月、厳しい弾圧に反発した水戸藩や薩摩藩らの志士たちによって、井伊直弼は江戸城桜田門そばで襲われ、暗殺されてしまいました。(桜田門外の変)これによって幕府の権威は大きく失墜します。

江戸城桜田門。
井伊直弼が討ちとられたのは大雪の朝でした。

幕末には日本中で尊王攘夷運動が広まりました。尊王攘夷とは天皇を尊び、外国人を打ち払おうという考えです。尊王攘夷の中心となったのは、薩摩藩長州藩でした。1863年、長州藩は関門海峡を通過する外国船を無差別砲撃します。(翌年報復され、砲台を占領されます)

関門海峡には今も長州砲(複製)が置かれます。大砲の音だけは鳴らせます。
(下関市・みもすそ川公園)

一方、薩摩藩は1862年に横浜近郊でイギリス人殺傷事件(生麦事件)を起こし、イギリスを激怒させました。

なんでそんなことをしたの?

  めじろ

薩摩藩の殿様の行列の前を、イギリス人が馬に乗ったまま、通過しようとしたんだ。

それがなんだっての?

  めじろ

武士にとっては、殿様を侮辱する行為に思えたんだよ。

そうなんだ!こわっ!

  めじろ

現にその直前に行列に出会った外国人は、下馬した上でお辞儀をして通過を待ったため、いっさい危害を加えられていないんだ。

そうなの・・。郷に入れば郷に従え、ということか。それにしても怖いね。

イギリスは薩摩への報復を決意します。翌1863年、イギリス艦隊は薩摩の錦江湾に侵攻し、鹿児島市内に砲撃を加えます。これを薩英戦争と言います。

薩英戦争の砲弾。左の椎の実型が英国、右の丸いのが薩摩のもの。
(鹿児島市・維新ふるさと館)

名君・島津斉彬のもと近代化を進めていた薩摩藩は、意外にも善戦します。イギリス旗艦ユーライアスは薩摩の砲撃を受け、艦長が戦死しています。

薩摩「お前、なかなかやるな!」
イギリス「お前もな!」

外国の実力を知った薩摩・長州は、むしろ外国に近づき、幕府を倒して「自分たちの手で、外国に負けない近代国家を建設しよう」と目覚めました。尊王攘夷から武力倒幕へと、流れが変わっていきます。

江戸幕府の滅亡

1866年、土佐藩浪人・坂本龍馬の仲立ちで、薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結びました。

リアル坂本龍馬像
(高知県立坂本龍馬記念館)

薩長同盟は、幕府を倒すための秘密同盟です。

薩長同盟

貴族の岩倉具視も仲間の一人であり、天皇の命令という形をとって、幕府を「朝敵」として討伐する手はずでした。

岩倉具視

ところが薩長の動きを知った15代将軍徳川慶喜は、1867年に薩長の機先を制して大政奉還を行い、政権を朝廷に返しました。260年続いた江戸幕府は滅びましたが、政権を返されてしまっては、薩長としては幕府を倒す大義名分を失ったも同然でした。

京都・二条城 大政奉還の間
(絵葉書撮影)

朝廷は幼帝・明治天皇を立て、王政復古の大号令を発しました。薩長を中心とする新政府は、徳川氏に対して「領地を引き渡せ」など挑発とも取れる無理難題を突きつけました。あえて戦争を引き起こし、旧幕府勢力を武力で討ち果たすことが狙いでした。

京都御所。
ここで王政復古の大号令が発せられました。

旧幕府軍は薩長の挑発に乗って暴発。1868年に新政府軍vs旧幕府軍による戊辰戦争が始まります。戊辰戦争は京都の鳥羽・伏見の戦いで始まり、新政府軍が戦いを優位に進めます。徳川慶喜は早々に戦意を喪失し、水戸に謹慎してしまいます。

徳川慶喜は英邁で知られたが、ここぞというところで全く頼りにならない。

新政府軍による江戸城総攻撃寸前に、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣・勝海舟が話し合い、江戸城は無血開城されました。すんでのところで、江戸は戦火から守られました。

江戸城無血開城の図

戊辰戦争は戦線がどんどん北上していきます。夏には最大の激戦・会津戦争が勃発しました。

砲撃によってボロボロになった会津鶴ヶ城
(鶴ヶ城パネル)
会津・白虎隊のお墓
(会津若松市飯盛山)

戊辰戦争の最後の決戦地は、函館でした。ここで旧幕府軍は降伏し、全ての戦闘は終わりました。

戊辰戦争の最終決戦が箱館戦争
(函館・五稜郭)
土方歳三の像。土方も函館で戦死します。
(函館五稜郭タワー)

幕末に活躍した人物を整理しよう!

長州藩の吉田松陰は、松下村塾で長州藩の若者たちを指導しました。その弟子には木戸孝允や高杉晋作、伊藤博文などがいます。

吉田松陰が教えた松下村塾
(山口県萩市)

吉田松陰は下田沖でペリー艦隊に密航しようとしたこともあります。(ペリーに拒絶され失敗)

下田沖で、ペリー艦隊に接近する吉田松陰たち。
(山口県萩市・吉田松陰歴史館)
下田にある吉田松陰と弟子・金子重輔の像。

長州藩・木戸孝允(桂小五郎)は吉田松陰に学び、薩摩藩の西郷隆盛らと薩長同盟を結びました。

薩摩藩の大人物が西郷隆盛(吉之助)です。戊辰戦争では勝海舟と話し合い、江戸城を無血開城させました。

上野の西郷隆盛像。
西郷の死の20年後に作られました。
  めじろ

この銅像を見た西郷の奥さんは「うちの夫はこんな人じゃなかった」と言ったそうだよ。

そうなの?西郷さんっぽいけど。

  めじろ

西郷さんは写真嫌いで生前は一枚も写真を残してないんだ。

でも顔知ってるけど。

西郷隆盛
  めじろ

この顔は西郷さんの死後、イタリア人によって描かれた肖像画を元にしている。その画家は西郷さんに一度も会ったことがなくて、西郷さんの弟の顔をモデルに描きあげたんだって。

そうだったのか!

鹿児島の西郷隆盛像。
上野とは違って、陸軍大将の正装の像。

西郷の幼なじみで、明治時代に入って最強の政治家となるのが、大久保利通(一蔵)。

鹿児島の大久保利通の像。

西郷と大久保の家、めっちゃ近いです笑

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