今回は戦国から安土桃山時代です。ここからが近世の始まりとなります。日本史の中でも人気のある時代で、この回だけ生き生きとする子もいます。それもそのはず英雄・豪傑が次から次へと出てくる時代で、世界史の中でもこれだけの英雄が集中して出現した時代は珍しいのではないでしょうか。
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信長と秀吉
こわっ!
これは江戸時代に信長・秀吉・家康の三武将の性格の違いを詠んだ歌です。織田信長は激烈な性格で、怒らすと怖いキャラとして歌われているね。
本当にこんな凶暴なキャラだったの?
比叡山延暦寺と対立して、焼き討ちをした印象が強いんだよね。仏をも恐れぬ大魔王のイメージがついちゃった。
お寺を焼いたんだ〜しかも延暦寺!
信長は結構優しいところもあるんだけどね。家来の豊臣秀吉が浮気して奥さんが激怒した時に、慰めの手紙を書いてあげたりもしたし。
豊臣秀吉は自信家なのね。
まあ有言実行タイプだね。もともと身分が低かったから、強烈に自己アピールして、信長に認められたんだ。
冬の日に信長の草履をふところに入れて温めたんだよね。
そうそう。ゴマスリが上手いんだよ。
戦国大名とその政治
応仁の乱の後、身分が下の者が実力で上の者を倒す下剋上の風潮が強くなり、これまでの守護大名に代わって、その家臣などが戦国大名として成り上がりました。応仁の乱後100年を戦国時代と呼びます。
戦国大名は領地を広げるため、他の大名と争いました。また自分の領地を豊かにするために、産業を育成し、治水にも力を入れました。金山や銀山を開発し、交通網を整備するなど領国の発展に努めました。
また戦国大名は分国法(家法)と呼ばれる法律を、領国内で定め、統治の基本としました。分国法の多くは御成敗式目をベースとしています。
ヨーロッパとの出会い
1543年、種子島にある中国船が漂着しました。そこに乗っていたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝わりました。やがて鉄砲は国産されるようになり、堺(大阪府)や近江・国友(滋賀県)で盛んに作られるようになりました。
1549年、イエズス会の宣教師・スペイン人のフランシスコ=ザビエルは鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えました。
鹿児島での布教はうまくいかず、平戸(長崎県)に移り、そこではある程度の布教に成功します。
ザビエルは天皇に布教許可を求めるため京都に向かいますが、応仁の乱で廃墟となった京都を見て失望。その後は中国地方の実力者・大内氏に期待をかけ、山口で布教活動を行います。これはある程度成功しました。山口では今もザビエルを「サビエル」と呼ぶんですね。ちなみに山陽小野田市にはミッション系の「サビエル高校」と言う学校もあります。
その後は大友氏(後にキリシタン大名となる)を頼って、大分で布教しています。そのうちに資金が尽き、ザビエルは2年半の布教を終えて、インドへと帰還していきました。
ザビエルが去った後も九州中心にキリスト教は広まっていき、戦国大名の中でも入信するキリシタン大名が出現しました。ポルトガル人やスペイン人らカトリック系西洋人を南蛮人と呼び、彼らとの貿易を南蛮貿易といいます。
織田信長の政治
尾張国の小さな戦国大名であった織田信長は1560年、桶狭間の戦いで今川義元(駿河国)を破りました。
その後、足利義昭を室町15代将軍に立てて京都にのぼり、天下統一を目指します。1573年には仲違いした足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼします。
1575年には織田・徳川家康(三河国)連合軍は、三河・長篠の戦いで鉄砲を効果的に利用し、甲斐国の武田勝頼を破りました。
1576年には琵琶湖南東岸に天守閣を持つ巨城の安土城を築きます。
信長は安土の城下町で楽市楽座を行い、座の特権を廃止し、市場の税を免除しました。さらに関所を廃止し、商工業を活発にしました。
しかし天下統一を目前にした1582年、本能寺(京都)滞在中の信長は、家臣の明智光秀に謀反を起こされ、無念の自害をしました。これを本能寺の変といいます。
豊臣秀吉の全国統一と政策
本能寺の変の時、備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は信長の死を知るやいなや、毛利と和議を結び、強行軍で京に引き返しました(中国大返し)。
そして「山崎の戦い」で明智軍と決戦を行い、勝利をおさめました(明智討ち)。
天王山と言う言葉は、今も「勝敗や運命の重大な分かれ目」と言う意味で使われますね。「夏期講習は受験の天王山だ」とか、よく言われます。
信長の後継者として頭角を表した秀吉は、石山本願寺跡地に大阪城を築城し、拠点としました。1585年には関白に、翌年には太政大臣となり、朝廷の権威でもって天下に号令をかけました。
1590年、最後まで秀吉に従わなかった小田原の北条氏を討伐し、全国統一を成し遂げました。
秀吉は江戸時代につながる経済・社会政策を行なっています。地方によって異なっていたますやものさしを統一した全国共通基準の土地調査(太閤検地)を行いました。これによって古代以来続いていた荘園制は完全に消滅します。
また京都に大仏を作るという口実で、農民から刀や鉄砲などの武器を取り上げました。この刀狩令の狙いは一揆の防止などで、結果として兵農分離が進みました。
秀吉が行った外征が「文禄・慶長の役」です。秀吉の野望は国内統一では飽き足らず、明国を征服しようと考えます。そのための道案内として朝鮮国に協力を求めましたが断られたため、1592年と1597年の二回に渡って出兵しました。テキストには「朝鮮侵略」とありますが、本来の目的は明国の征服であって、交戦したのも主に明国軍です。この戦いは当時は「唐入り」と呼ばれていました。
この出兵での影響として、朝鮮陶工の来日による技術の伝播が挙げられます。有田焼、薩摩焼、萩焼などがその影響下にあります。特に有田焼を始めた李参平は、今も有田の地では崇敬の対象となっています。
桃山文化
信長から秀吉の頃に栄えた文化を桃山文化といいます。仏教の影響が少なく、南蛮文化の影響が強いことが特徴です。豪華で雄大な文化です。
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